ところが、不安は「飽きる」と同じ方向に向かうとは限らない。
不安はいらだちを生み、破滅的な行動に導くこともあるし、不安から逃れるために徹底した現状維持を求めることもある。さらには自分たちを守ってくれそうなものへの支持も生みだされる。
不安は社会変革を促す方向に向かうことも、逆にそれを阻止する方向で働くこともありうる。
アメリカでトランプ大統領が誕生したり、ヨーロッパで国家主義的な政党が勢力を飛ばしたりしているのは、不安がいらだちを生み、自分たちを守ってくれそうな政治を求める人たちがふえているからであろう。
それは現状の破壊を求めているようにみえて、実際には現状維持を求める動きだといってもよい。なぜならそれは、現状を破壊しているように感じられる政治家や社会の支配層への批判だからである。
おそらく社会変革の動機としては、はじまりは「飽きる」ということの方が大きいのだろう。
飽きた人々が新しい生き方を模索していく。それが一定の動きになり、変革の方向性が誰にでもみえるようになったとき、不安な感情もそれに合流するようになる。
人間は論理よりも感情で動いている以上、変革への動機もまた感情に依存しているのである。
この仮説が正しいとするなら、現在の日本の人々は、いろいろなことに飽きはじめている。
たとえば、なぜ消費は拡大せずに減少しているのか。
消費を拡大しつづける生き方に飽きてしまったのである。高度成長からバルの頃まではそうではなかった。より多くを消費できるようになることに満足感があった。だがいまでは潮の流れは変わってきた。
確かに現在の日本は格差社会になっている。しかし格差社会だということは、より多くを消費できる人たちもまた存在するということである。だがその人たちの多くもそういう行動をとらなくなった。
さらに述べれば格差社会が全員を貧しくしているわけではない。たとえば月収15万円以下で働いていても、結婚していて妻もしくは夫にそれなりの収入があるのなら、世帯としては貧困ではないということになるし、世帯分離をして両親と一緒に暮らしているケースだと、収入はすべて自分の小遣いという人もいる。
もちろん労働に対する対応としては、格差は労働への侮辱であって容認できるものだとは思わないが、貧困という問題だけでみれば、格差社会が全員の購買力を奪っているわけではない。
おそらく、これから賃金上昇がもたらされたとしても、さほど消費は拡大しないだろう。なぜならそういう生き方に飽きた人たちがふえつづけているからである。
とともに消費の拡大に飽きた人たちは、違うことに充足感を求めようとする。実際今日の若者たちは、友達のいることや友達との語らいの方に満ち足りたものを感じているようである。
コミュニティ=共同体をもちたいとか、農的生活をしたいという人もふえてきた。農民になるというより、わずかでもいいから農地をもって自分の食べるものの一部をつくる生活がしたいということである。
社会にとって有益な仕事がしたいと考える人たちは、ソーシャル・ビジネス的な起業をはじめている。地域づくりに参加したいという人も多くなった。
飽きるということが動機になっている以上、その結果生まれていくものはさまざまなのである。かつての社会変革運動のように、共通するイデオロギーや理論による一方向の運動が起きるわけではない。
ひとつの方向性に統一されるのがかつての社会変革運動であるとすれば、今日のそれは、運動が拡大すればするほど無限に拡散していくことになるだろう。
だが、さまざまな試みが堆積していけば、少しずつ新しい生き方の方向性はみえてくる。