まつばらの民話をたずねてへようこそ

松原で生まれ育った、昔から伝えられている民話をご紹介します

 

源九郎狐と狐の施行(せんぎょ)の起こり

源九郎狐と狐の施行(せんぎょ)の起こり 松原の民話 第60話(2006年4月)

 一年の内で一番寒い時季を暦の上では「寒(かん)」と呼ぶそうですが、その後に春の兆しを見せて人々が春は近いと喜びのひとときを感じて浮き足だった頃を見計らうようにもう一度、寒さが襲ってきます。これを「寒の戻り」と呼び、男達は浮き足だった心を引き締めて、鋤鍬(すきくわ)の手入れや畑の凍土の具合を覗きに行くなど活発な活動となります。

 種や籾(もみ)の用意や農閑期仕事であった縄を綯(な)い筵(むしろ)や俵を編んでいた道具や藁を納屋の隅へ移動させて、しっかりと農耕仕事の準備が整い終わった頃「春おこし」がはじまるそうです。 このころを「三寒四温」と呼ばれ、三日寒く四日暖かい日が繰り返され、やがて暖かい日が四日、五日と伸びるに従い寒い日が三日、二日と短くなっていきます。そこで種まきの準備をし「田起こし」をし「水路の草かり」をして、春を迎えるのだそうです。

 さて、「寒」前後になると、松原では「狐の施行(せんぎょ)」と呼ばれる行事があります。これは農耕生活者の村落で行われている民間信仰に属す年中行事として存在していたようです。狐の施行、狐がえりなどに関する民話は、非常に多く語られておりますが、「施行の起こり」に限定しますと、地区の特色と背景による違いから、南河内地区、松原では、私の採集記録によると中高野街道より西側で多く語られております。これは、松原の狐と狸の分布民話、狐と狸の性格性質と行動仕草の違いで生ずる松原の民話形態からくるものと考えられます。それともう一つは「古代道ちぬの道」を通って富田林の方向から美原大保を通り丹南に入り中高野街道に通じて伝承されたのではなく、和泉から狭山へ入り旧高野街道(松原小学校西側)を通って語り伝えられたものと推測しています。

狐の施行の起こり

 ずっとずっと昔のこと、どれだけ昔のことかわからないけれど、それほど古い古い昔のことだそうです。大和に源九郎狐という狐が住んでいたそうです。狐は霊狐になると三百年生きるそうですが、この狐は霊狐以上の地位を授かっておりましたので千年ほどの歳月を大和から河内一帯の狐の象徴として生き続けてきたそうです。それ故にこの狐は、天地に存在するあらゆる神々や言葉を持たない総ての生物と、人間の間を橋渡しする役目を背負っていたので村人達は、神と崇めるほどの畏敬を持って大切にしたそうです。

 その上にこの源九郎狐は、神仏人間天地あらゆるものの加護のもとで生きてきた狐だったそうですが「生あるもの必ず滅し、形あるもの必ず壊れる」とのことわざのとおり、源九郎狐もよる歳にはかなわなかったのか、ドンドン体力が落ちてきて、大和の寒い冬は骨身に浸みて一層の体力を弱めていたそうです。

 しかしさすがに源九郎狐はそうした弱みをどこにも見せず、神から呼ばれれば神のもとへ、人から呼ばれれば人のもとへと四方八方に即座に姿を見せて、神仏や言葉を持たないもの達と人間の間の橋渡しをしていたそうです。それ故に「本来は狐であるから歳は重さなり、体力が弱る」という当たり前の事を神仏も人間も気づく事を忘れていたそうです。

 こうした歳月を送っていたある年のこと、例年になく底冷えのする寒い年だったそうです。源九郎狐は自分の衰えを隠す力も無くなっていることに気づくと「このままではまわりに迷惑をかけるにちがいない。大和の人間達の話によると堺にはいかなる病気も、怪我もたちどころに癒してくれる塩湯なるものがあると聞く。人間に効くなら狐にも効くにちがいないと思い、出掛けてためしてみよう」と決心して堺の塩湯へと向かったそうです。

 大和へまで聞こえる塩湯へ着くと、異国へつながる堺の海は遠浅に広がり一度入れば一年、二度はいれば二年の寿命が伸びるほどの気持ちの良さと骨身を含めて五臓六腑にしみこむ心地よさに、すっかりと気に入り、この地での養生をきめたのですが、日を増すごとにどこかしっくりといかない体の不調を感じるようになったそうです。そこで源九郎は「考えてみれば、大和育ちのこの身体には、潮風のある生活は初めての経験で、老齢になってからの新しい環境が身体の不調となったにちがいない」と思い、再びじっくりと考えて、「そうだ和泉へ行こう。和泉は「しりぶか樫」の群生地で、その樫の木はこの土地より南には存在せず、和泉が北限の地と聞く。それならば暑くもなく寒くもなくきっと大和育ちの身には住み心地よい所であろう」と考えたそうです。そこで早速に身支度をして和泉へと向かったそうです。

 幸い堺と和泉は近い距離であったのですが、和泉に着くとさすが老年の身体、疲れて一軒の農家を見つけてそこで休むことにしたそうです。「ごめんください」と台所からはいると、誰もいない。主(あるじ)を捜したがどこにも居ない。くたびれた身体をどこか休める所はないかと見回すと、ご飯を薪で焚く「くど」(かまど)があった。「くど」へ身体を寄せ付けると、ちょうど薪は取り除かれ残った灰はポカポカと温かい。源九郎狐はポカポカの「くど」の中へはいると疲れのためにすぐに、ぐっすりと寝てしまったそうです。

 そこへこの家の主人が帰ってきて、その「くど」に薪を入れご飯を炊いてしまったそうです。炊いたご飯があまりにおいしいので、どうしたのかとくどの中を見てみると、驚いたことに一匹の狐の焼死体があり、家の前にある畑に死体をうめたそうです。この事があってから、この家からは何かと不幸が続くようになったそうです。

 あまりにも続く不幸な出来事に、主人は不思議に思って霊媒者にみてもらうと「焼死体は源九郎狐であったこと。これからは毎年田畑に狐の餌をまくこと。狐の不満を聞き狐と人間が仲良く暮らせるようにする事などを源九郎が語っている」とのお告げが霊媒者より下ったそうです。早速主人は狐の好きな「いなりずし」をつくりそれに白飯、赤飯、醤油飯などのおにぎりを作って村落の田畑へ供えて配ったそうです。それからというもの、不幸な出来事はぴたりと無くなり、幸せが続くようになったそうです。それからは寒い「寒」の前後になると、あちらこちらで狐の施行がなされるようになったそうです。

***来月から竹之内街道沿いの民話に続いて下高野街道沿いの民話になります。立部、上田、丹南地区は中高野街道沿い、河合地区は西除川沿いで、この街道とは異種類の民話で再びご紹介いたします。下高野街道沿いには教養と文化に溢れた民話、農耕生活者だからこそ生じた話や狐の民話がたくさん残っています。お楽しみに***

大阪府文化財愛護推進委員  加藤 孜子(あつこ)