BBの覚醒記録。無知から来る親中親韓から離脱、日本人としての目覚めの記録。

日本が普通に好き。 右も左も興味ない是々非々主義です。

和歌から窺う皇后陛下の二面性、自愛仮面の下の素顔を見た 《転載ご自由に》

2017-04-05 | 天皇皇后の左翼化

皇后陛下が皇太子妃時代の和歌に、こういうのがあります。

新しき 貴(とうと)きいのちの あゆみここに はじめまさむか 御靴(おんくつ)まゐらす

昭和36年、東久邇宮成子様 薨去 御船入りの儀に詠まれる

あの世で、新しい命を得て再び歩まれますように靴をお棺の中に入れて差し上げました、

というほどの意味です。靴を棺桶に入れるのは皇室の習慣なのでしょうか。

当時はきっと(いえ今も)、心優しい東宮妃のお歌として世の中には出回ったの

でしょう。

だが!!

天女の顔つきで詠まれたその裏の顔は、夜叉。

東久邇成子さまは昭和天皇と香淳皇后の長女でいらっしゃいます。

悲しみに打ちひしがれ、那須の御用邸にいらっしゃる香淳皇后のもとを

美智子妃殿下は、皇太子(今上)と引き連れ訪れ普段から

持っていた文句を「姑」にぶつけているのです。

娘の喪がまだ開けないお方に向かって。

美智子妃殿下は気性が激しく、気に食わぬ者に対してねちっこく執拗に

責め立て、時にヒステリックな金切り声を上げる、と

報道されたことがあります。

この時、美智子妃は直接反論した、と浜尾実の著書『皇后 美智子さま』 (浜尾 実著 小学館)にあります。

浜尾が引いた記事内容によると、

『皇后陛下にはご気性に激しい側面がおありで、御所の中では時折、
甲高いお声を上げられたり、お気に召さないことをすると延々とお小言を賜る』

その他には、

『宵っぱりの両陛下は午前1時、2時になってからも、インスタントラーメンを
つくってください、りんごをむいて、と下命する』 


『昭和天皇の愛した吹上御所の自然林を丸坊主にし、新御所を建設したのは
美智子さまの意によるものだった』

『天皇・皇后の(平成5年)9月の訪欧時、ご服装の新調代に3500万円かかった』

こうした記事に対して、誕生日会見の時に皇后陛下は反論なさったわけですが・・・・

しかし、たとえば新御所に果たして美智子さまの意向がまったく関わっていないかといえば、全体に奇妙な・・・・これが日本の象徴である天皇陛下の住まい? といぶかしい、日本離れした建物の建設に携わった建築家はキリスト教正教徒内井昭蔵(聖名ガウリル)であり、そういう意味で言えば異教徒美智子様のお仲間です。

それに、昭和天皇夫妻が住まわれていた吹上御所に住まわれれば

いいだけのこと。なぜわざわざ新御殿を建設せねばならなかったのでしょう。

さまざま意向を通している両陛下なので、一言「もったいない。止めましょう」

と言えば通ったはず。また衣装については、とっかえひっかえ、欧州旅行の

衣装が3500万円かどうか知りませんが、とっかえひっかえの衣装に

大金がつぎ込まれているのは事実。

香淳皇后があんな、着せ替え人形やモデルみたいなお衣装替えを

なさったでしょうか?

以下は読者さんからのレポートです。

 

吹上新御所 2017-04-04 20:54:44 あん   池上彰の皇室番組 《転載ご...  

 

吹上新御所の正面部分が番組で紹介されていましたが、
何故今まで、上空写真ばかり取り上げられていたのか、
不思議に思っていたのですけど、内装はともかく、
外装に物凄い違和感を感じました。


http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1491301171939.jpg

調べてみると、

この御所に携わった内井昭蔵と言う建築家は教会も設計していますが、
祖父・河村伊蔵は聖ニコライに仕えた正教会の聖職者で、
函館や豊橋のハリストス正教会の建設に携わっています。

父・内井進も大正から昭和にかけて銀行建築などを中心に設計を行い、
金成ハリストス正教会と小田原ハリストス正教会の両聖堂、
およびニコライ堂のイコノスタスの設計に関わっています。


内井昭蔵自身、クリスチャンとして教会ですごすことが多かった
幼少期の経験をもとに建物を多く設計したそうです。

高円宮邸も内井氏が設計していますが、高円宮邸は、昭和に建てられており、
昭和天皇の手前、品位のある設計になったのかもしれません。

マント服といい、確信犯です。

上皇后だなんて、とんでもない。

護衛付きでわざわざ皇居外周を散策、
徘徊した翌日は、スカイツリーに落雷。

皇室から出ていって欲しいです。

 

転載 ここまで

神道の祭祀王がお住いの御所建設にわざわざキリスト教徒起用などと、美智子様の存在を感じざるを得ないのは、普段の言動もあるでしょう。

入内してからも、御所近くのカトリック教会に出没、母校聖心女子大の

クリスマスミサにも、まめにご参列です。

 

 

 

一族郎党皆、カトリック。

美智子様と母親冨美さんだけが例外というのはあり得ないでしょう。(冨美さんは、臨終前受洗とされてますがもっと早かったと思います)

そして婚約スクープのこの写真。

この写真を懇意の朝日新聞記者に見せられたとき、美智子さまはどっと
泣き崩れたと記者は後に書いています。冨美さんいわく、
うちはキリスト教徒だと思われてるので、まずい・・・と。

それにしても、なぜ美智子さまは朝日新聞記者が部屋を訪れた時、
こんな格好をなさっていたのか?

「挨拶回りの衣装」と答えたそうですが、こんな格好で挨拶回りって、
相手はカトリック教会じゃないんですか?
これ以前にも以降にも、こんな衣装を見たことがありません。

神道の最高位の家に嫁いだ人のなさることではありません。けじめを

著しく欠いているというべきでしょう。

それにしても、一新聞記者の青年が一人だけ、なぜあの時代の

“良家”の子女の私室に自由に出入りできたんだか?

一般記者が入れぬ、正田家への秘密の通路を知らされていたそうな。

美智子さんが惚れていたという説もあったような。

何しろ、お見合い歴20回を越すお方で、天皇陛下の前に

波多野という青年と婚約寸前だったと、当時の国会で

追求されていたほど、華やかでいらした美智子さまなので・・・・

皇后の二面性については、過去記事で述べています。

「ご慈愛仮面がはがされるとき~皇后陛下もう一つの顔」

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/fee5ae552b2897a1c47fc162b9be2ae2

以下、転載。

(東久邇成子さまは)

心労のためかどうか、癌をわずらわれ、わずか35歳でこの世を去られたのです。五人の子供を残されて。

昭和天皇皇后の哀しみは痛切で、香淳皇后は成子様を入院させた宮内庁病院に毎日お通いになりました。良い家柄のお家に降嫁させたものの、敗戦による娘の家の逼迫ぶりはご存知で、さぞかし不憫に思し召しであられたかと存じます。

初めて授かった愛しい我が子が、日々やせ衰えてゆく。生まれて初めて抱きしめた時のあの、やわらかさ、小さな指のたわみ、ほのかな息。ありがとうございますと、神にとも知れず祈ったあの日。

残されたまだ幼い5人の孫達の不憫さ。



お心を千々に乱れさせた香淳皇后は、医学で絶望的なことを認められず、怪しげなことにも救いを求められたようです。この辺り、民間の母親と同じですね。お立場上、人前で涙を流すことは許されず、それゆえ声を忍び泣き明かされたこともあったことでしょう。

成子さまが旅立たれ、魂も抜けたようにやつれゆく香淳皇后は、せめて心ゆくまで泣きたいと那須の御用邸に身をひそめます。

身をお隠しになって、慟哭の日々。

そこへ皇太子夫妻(今上陛下、皇后陛下)が、ふいに訪れたのは成子様ご逝去から僅か25日目でした。

哀しみに暮れる皇后陛下のおなぐさめに?

いいえ、なにか自分たちの不満をぶつけるためです。

その不満の内容は解りませんが、その間のことは入江侍従が日記にしるしています。

・・・・・・・

「昭和35年2月23日(火)快晴

4時15分親王ご誕生、御母子ともおさわりないとの事。これでよかった。本当に安心した」

「昭和36年8月11日

最近の奥のおかしな空気、東宮さまと妃殿下(現天皇、皇后)に対すること・・・・・・まったく弱ることばかり。下らなさに腹が立つが、そんな事話し合う」

「昭和36年8月16日(水)快晴

那須で東宮同妃から両陛下にいろいろのこの間からのことを十時すぎまで率直にお申し上げになったとのこと。お上はよく分かったと仰せになったが皇后さまは終始一言もお発しにならなかったとの事」

・・・・・・・ここまで

今上陛下にとっては、一番上のお姉さまです。
また美智子皇后にとっては、皇室内で唯一自分の結婚を歓迎してくださった恩人です。
異例の民間妃入内にあたっては、皇后陛下はじめ全てが反対の中、唯一の味方が成子さまであり、これは想像ですが、両陛下の説得にあたって成子様の一言は重たかったのではないでしょうか。最愛の第一子が、賛成と言っている・・・・

いわば恩人の喪の最中に、その母親である皇后陛下を訪れ、何ごとかといぶかしめば‥‥‥・当然お見舞いであろうとお迎えすれば、日頃の不満ぶつけ。

「皇后さまは終始一言もお発しにならなかった」

という入江侍従の記述から、香淳皇后のお心のうちは読み取れますね。懸命に耐えていらしたのだと思われます。
嫁だけならまだしも、息子がこの思いやりの無さ。さなきだに、悲しみに打ちひしがれているところに、息子とその嫁から浴びせかけられる不平不満。

将来の天皇皇后に対して侍従が「くだらなくて、腹が立つ」とまで書き残しているのだから、相当のことであったのではないでしょうか。
この時美智子妃は、第一子である浩宮様がすでにお生まれになっていたのだから、第一子に先立たれた母の哀しみと苦しみは解るはずでしょうに。

それを夫とともに、文句を言いに静養先にやって来る・・・・・。
夫の母であるお方が憔悴していらっしゃる時に。そして、逝去されたお方は夫の
姉であり、自分の入内を心から歓迎してくださった方。その思いも美智子様にはおありにならなかったのでしょうか。

宮中へ戻られるのを待たず、静養先に押しかけての鬱憤ぶつけですから、相当激しかったのではないですか? 日記によると長時間のようだし。「冷酷」という文字が脳裏を過るのは、大仰でしょうか。そう言えば、自らを批判した浜尾侍従の葬儀は皇居から目と鼻の先の教会で営まれたのに、参列していず、それだけならまだしも、さんざん養育係として世話になった皇太子も行かせていません。
この、なさり方! いくらお腹立ちでも、息子ぐらいはやりませんか。
念のため、当日の皇太子のスケジュールを調べてみたのですが、どうしても外せないもの、キャンセルできないものは入っていません。
浜尾さんの批判は、皇室も良かれと思っての発言だったと思います。
今、読んでも正論なのですから。当事から皇后が天皇を尻に敷いていることにも警告を鳴らしています。皇后の顔色を伺いながら天皇は動いていらっしゃると。

入内に際しての香淳皇后さまの反対と、那須の御用邸での逸話から美智子さまが香淳皇后さま他にいじめられていたように噂を流す人がありますが、どうなのでしょうね。

皆無であったとはいいませんが、現在画像その他で検証する限り、世間に流布されているような陰湿で激しいものではなかったような?
皇后陛下はああいう、おっとりしたお方であるし常磐会が意地悪だと言っても、身分は皇太子妃美智子様のほうが圧倒的に上なのですから。

雅子妃などは「それなら、皇太子妃を辞めます!」と言い放っていますが、お立場は似たようなもので、強いでしょう。言い放つぐらいなら、とっととお辞めになればいいものを、餌箱の餌は手放したくないのです。脅しとしておっしゃったのなら、それこそお里が知れますね。

女性なら即わかると思うのですが、意地悪な口うるさい姑が「近所」に住んでいる状況で、とっかえひっかえ、流行最先端の時には突飛な洋服や帽子で、お出かけできます?
今でも日本人には少々柄の悪いと思われている、濃いサングラスに高いハイヒール。これが、姑にいじめられている嫁でしょうか?

仮に多少はあったところで、娘を逆縁で喪って打ちひしがれているところへ押しかけて来て、日頃の不満を息子と息子と結託して、ぶつけて来る嫁。可愛くはありませんね。しかも言葉の端々に皇室でそれを主張しては伝統が壊れてしまう「男女同権」を匂わせる嫁。

押しかけなんて、いじめられていた嫁が出来ることではないでしょう? 後が恐ろしくて、夫だけやるのだけでも、怖いのに。さすがは母上が「皇室とのご縁談はstruggle(闘争)」ですと言ってのけた、その娘さんではあります。あの時代に言えませんよ? わざわざ横文字でおっしゃるところも、風変わりです。日本人離れしているといおうか。それに戦前から天皇は格別に偉くないのよ、とお教えだったようです。さしてお偉くないところに、私は嫁いだのよ、だから男女同権でいいのよ、ということでしょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・過去記事転載ここまで

新しき 貴(とうと)きいのちの あゆみここに はじめまさむか 御靴(おんくつ)まゐらす

で、想起されるのは、こちらですね。まるで悠仁親王お誕生を呪うかのような片足靴をまゐら」された皇后陛下。皇室では、靴は棺桶に横たわる死者への贈り物だとご承知でのお振る舞い、しかも片足だけ!

 

この画像、以下の、皇后陛下の持たれた服喪の花を連想させませんか?

 

正田美智子さん入内前のこと、正田家を訪れたGHQの要人たち。

正田家は美しく報道されていますが、戦勝国GHQとアメリカの小麦粉利権で癒着した売国の家です。

また皇室との条件闘争をストラグルと表現した冨美さんは、「上海夫人」と言われています。侮蔑の呼称です。

当時の上海は、魑魅魍魎の世界。鳩山幸さんの母親も上海にいました。
この母娘の出自のいかがわしさは、過去記事に記しました。(宝塚時代の
同期生にお話を伺ったのですが、お母さんは貿易会社の秘書だったり、英語の先生だったり設定が変わるのですが、神戸で米兵相手の何かをなさっていらしたという噂が、宝塚内ではあったと)

上海夫人と指摘したのは、皇室内の高位の女官だったと思いますが、今史料が見当たりません。→ 読者のKUONさまから提供頂きました。

>橋本明氏の著書「美智子さまの恋文」

>新潮文庫72~74ページにかけて、松平信子氏の言葉として、あります。

>決まってしまった東宮妃の教育を任された信子氏は、なんとか格好をつけねばと努力されます。本心は反対でしたが、つとめであると。

>「ご返事が、ねえ、なってなかったの。うつむいて声が通らない。意思表示がはっきりしない。ハイとお答え遊ばせ。私は強く申し上げたわ」

>「美智子妃が東宮殿下のお荷物になってはいけない」

>と一点に絞ったあげくに、ある日、こう言い放った、と、あります。

>「わかったわよ、すべてが。母親の富美さん、上海育ちだったわね。彼女は大陸夫人です。だからよ」

 

・・・・・・・・・ここまで

伏見様のブログで、上海夫人の中身を解説されています。

http://fushimi.hatenablog.com/entry/2016/10/23/060000

確かに・・・・冨美さんは当時の日本女性にしては、在りえないほどの長身。顔も白人っぽく、長男もそうですね。一家、皆長身で足が長く美智子様の妹は、足が細くまっすぐなのに、美智子様は短く大幅なO脚。

「両殿下は御忍びでよく正田家にお見えになりました。皆さんが思っている以上に 来られています。そのたびに私は『手伝いに来てくれ』と呼ばれるのです。私の 役目は、侍従とか女官の相手をすることでした。お母さまは、お二人が見えられると ほんとにうれしそうなお顔をされていましたね。夕食はわりと中華料理が多かったと思います。

就寝時間があるのか、食事をすませると、お子様だけ先にお帰しになり、そのあと、 両殿下はゆっくりとすごされました」

 新証言「母・富美子さんと密会のとき」 文藝春秋五月特別号 ・美智子妃のご成婚前から正田家に仕えて来た澤田喜一郎氏(仮名)より。

ご実家にはめったにお帰りになれない悲劇の妃と報じられていたのは嘘。

香淳皇后にいじめられていた嫁が、こんなに頻繁に里帰りできますか、しかも皇太子殿下を引き連れて?

しかも、鎌倉の正田家の別荘でも美智子さまと皇太子は、ひんぱんに会っていて、冨美さんもまた皇居に出入りしています。

それが、週刊誌の美化による歪曲ではこうなっています。

《・皇后陛下は成婚のとき庭に白樺の木を植え「これからはこれを私だと思ってください」
 流産で葉山に静養中も富美さんは「家に帰ってきなさい」と言いたかったのをこらえて会いに行くこともしなかった。
・1965年、礼宮が誕生され、ご一家は軽井沢へご静養へ。
 一度でいいから孫を抱きしめたいと思っていた正田夫妻と、偶然出会ったというようにセッティングされる。
・間もなくご一家を乗せた車が到着すると連絡を受けた正田夫妻は、前日までの雨でぬかるんでいた道路で土下座。
 職員が立ち上がるように声を掛けても止めず。
・到着した車内から飛び出してきた皇太子殿下は泥に汚れた祖父母の手を取り
 「私のおじいさま・おばあさまなのだから顔を上げてください」
・これは皇太子殿下にとって強烈な印象を残し、(妻の両親に)そのような思いをさせたくないのではないか。》

今読むと、悲劇のヒロインにオオウケですが、当時はまともに受け止められてたのでしょうね。

庭に白樺の木を植えて、「お母様、美智子は嫁ぎます。もうお会いできなくなるわ。これからはこの木をわたくしと思ってくださいましね」

って、テニスで「やばい!!」と叫んでた娘が言うかってのw 当時の良家の娘のたしなみ、お茶お花和裁は出来ず、その代わりにテニスに英会話、ピアス穴耳に開けてボート漕ぎ、ってw

ぬかるみに土下座した正田夫妻wwww

皇室との条件闘争を「ストラグル」と表現した冨美さんがw
「天皇が偉いという教育をうちではしていません」と言い放った冨美さんがw

ちなみに、当時8月の長野では、ぬかるみが出来るほどの降雨量はなかった、と調べた人がいます。

1966年8月の長野県の天気
ttp://weather.goo.ne.jp/past/1966/08/610/index.html

こわいわぁ、鬼女さまw

母がstruggleなら、娘はpurify  

皇后、失声症回復した時の第一声が、「もう大丈夫、私はピュリファイ(purify、浄化)されました」

なんなんだ、この母娘。

アメリカ耶蘇かぶれ母娘ざます。

後記 和歌の新しき 貴(とうと)きいのち

ってのも、ちょっと不思議だった。神道に死後得る新しい命って
概念があったかしら? これ、キリスト教の天国での命の
ことだったりして?

付記 読者さまご紹介の西村眞悟氏によるキリスト教批判

http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1303

 

BB自身は、聖者キリスト個人は認めますが、そこから派生してできた
宗旨宗派は、邪悪なものとして捉えています。

人間の本来の自然さを押さえつけ、それは偽善を産み、
侵略の道具となってきました。

  

拝詞(となえことば)

祓え給い、清め給え、

神(かむ)ながら守り給い、

幸(さきわ)え給え

 

 

コメ欄、お名前欄のUnknownや「あ」のような、いい加減なのや、「文章の一部をHNにしたの」とか、受け付けません。「名無し」「匿名」「通りすがり」も受け付けません。

 

記事のどこが、なぜ間違いなのか指摘できないバカは来なくていいです。

 

必然性のない「非公開」指定は固くお断り。レスがつけられず言われっぱなしなので。

 

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14 コメント

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記事を読ませて頂いて、 (桜調べ)
2017-04-06 07:44:04
BBさまの記事を読ませて頂き、
思い出しました。
冨美さんが
『皇室がクーデターに遭ったらどうなるのか?』
と陛下に聞いたそうです。
あの時代に天皇に対してその様な考えを持つ人がいましたでしょうか?
矢張り考え方が日本人ではないのだと
推察されます。

成子さまは性格が素晴らしい方である上に頭脳明晰でいらしたので、
とても頼りにされ、
天皇皇后陛下は男の子でないことを残念にお思いになっていらしたと言います。
陛下のお気持ちはアキシトさんではなく成子さまにお継がせになられたかったとも聞いています。

軽井沢でも材木座でも冨美さんとミテコは会っていましたよ。
アキシトさんはお風呂まで入り中華料理を振舞われ、一人で宿泊所に帰りミテコは母親と一緒にいたと冨美さんの友達が
言ってます。
軽井沢の夏季保育に紀宮さんを態々、
遠くのカトリック系の保育園に入れた
ことも書かれています。
ショー田家のお嫁さんもカトリック信者です。

全く以って何が悲劇の皇太子妃なんだと
思います。
無垢な心のお姫さま育ちの方々を手玉に
取り、スライドさせて彼方此方で
マッチポンプをしていたんですね。
それが醜い本当の姿でしょう。
私共の子どもの頃、楳図かずおさんの
蛇女だか蛇少女だかがあまりの気持ち悪さに流行りました。
綺麗な少女漫画が流行っていた時代、
衝撃的でしたが今のミテコのようですわ。
ジギル博士とハイド氏そのものですね。
周りの者は堪ったものではありません。
一体何処のセレブの豪邸なのか? (まゆゆファンMM)
2017-04-06 08:04:14
BB様、そして諸先輩の方々をはじめとする投稿者並びに閲覧者の皆様、朝から失礼致します。

現在の「御所」は本当にその名に相応しくないものだと私は思います。私の主観を申し上げれば、どこぞのセレブが一代で財産を築いた末に建てた豪邸のようです(怒)。

以前に『一個人』の2013年6月号(【保存版特集】皇室の真実)を買った時はこのブログに辿り着く前でしたので、全容が解る写真を見ても気にはなりませんでした。

あの頃は暢気なもので、あえて申し上げれば「新しい両陛下のために時の政府が建ててあげたんだなあ」位にしか思わないお花畑ぶりでした(恥)。

今となっては、あの建物は「日本の恥」の象徴としか私には思えません。場所柄を弁えずに日本の歴史・文化・伝統を軽んじる人間が作らせたり設計したりするとこうなるという悪しき見本だと私は思います。

駄文・長文の上、愚痴ばかりの見苦しいコメントになり、大変失礼致しました。何卒ご容赦下さいませ。それではこれで失礼致します。
は? (鈴)
2017-04-06 08:22:35
確信犯でしょ、あの写真。キリシタンに思われてるなら、着替えるはず…だけど隠さない所が、ミテコ(の一族)らしいですね。靴の嫌がらせってミテコのオリジナル?親王誕生に喪服姿(としか思えない)で行くってどれだけ性根が嫌らしいか、よく分かります。いずれ、ブーメランが威力を増して直撃しますわよ、両ヘーカ。
Unknown (KUON)
2017-04-06 10:36:04
おはようございます。

橋本明氏の著書「美智子さまの恋文」

新潮文庫72~74ページにかけて、松平信子氏の言葉として、あります。

決まってしまった東宮妃の教育を任された信子氏は、なんとか格好をつけねばと努力されます。本心は反対でしたが、つとめであると。

「ご返事が、ねえ、なってなかったの。うつむいて声が通らない。意思表示がはっきりしない。ハイとお答え遊ばせ。私は強く申し上げたわ」

「美智子妃が東宮殿下のお荷物になってはいけない」

と一点に絞ったあげくに、ある日、こう言い放った、と、あります。

「わかったわよ、すべてが。母親の富美さん、上海育ちだったわね。彼女は大陸夫人です。だからよ」

と。今はこれのみ、どうも失礼しました。
ピュリファイ (伊藤知昭)
2017-04-06 11:28:43
BB様、諸先輩の皆様

何時も御世話になり、有り難う御座います。

GHQ が「やばい」女帝を皇室に投下した理由は日本のピュリファイ。
で、悉く言霊の神国日本とは真逆。

聖書や光にロゴスの観点。

ならば、無辜の民に向かって美智子妃が詠んだとされる和歌は、当初なら日本人の琴線を制圧し改宗させる騙しのツール。
潜在意識の撹拌で米国化しつつ均質化。

余りに怪しい奸計女帝の言語能力と振る舞い。

国籍は不明ですが、ヴァイニング夫人と同様に米国の清教徒かカトリック教徒や明治以来から東日本に根を下ろした正教徒が工作した臭い。
想定されるのは専門家や研究者が代作。
ゴーストライター。
反日憲法を押し付けたのと同じ流れで、メッセージ性が強いプロパガンダやプロモーションビデオの和歌版に見えます。

日本大事、天皇大事、万世一系の秋篠宮御一家による宮中祭祀が大事。


恐れ入りますが、入力ミス等は後日対応させていただきます。

御多忙中、大変失礼致しました。
高天原に帰るのは無理です。 (ケイシ)
2017-04-06 11:29:52
いつもありがとうございます。
国民の税金で無駄に贅沢をする今上や美智子妃は、さっさと天に帰りなさい。
皇祖皇宗の神々のおられる高天原(タカアマハラ)は、無理でしょうけど。
KUONさま (BB)
2017-04-06 12:11:58
ありがとうございます。

記事に追加転載させてくださいませ。
KUONさま、ついでに質問です (BB)
2017-04-06 12:33:17
新しき 貴(とうと)きいのちの あゆみここに はじめまさむか 御靴(おんくつ)まゐらす


この歌の「新しき貴きいのち」の意味が、解りません。

仏教の輪廻転生思想なら解りますが、神道に死が新しき命への旅立ちという概念がありましたかしら?

天におわす我らが父のもとで得る、新しい命というキリスト教的感性で詠まれた歌なのかな、とふと思ったので・・・・・。
言わない 言わない (桃色月見草)
2017-04-06 13:51:41
絶対言わない
ヤバイ
なんて

ましてやあの当時
小学生の普通の子供だった
私だって知らない言葉
ストラグるとピュリファイは中国人? (シルビー)
2017-04-06 14:40:40
BB様の記事と、皆様のコメントを拝読して、思い出したのは、
ケント・ギルバート氏の新刊、
「儒教に支配された中国人と韓国人の悲劇」(講談社+α新書)の一部分です。

以下、抜粋です。

日本人の道徳規範は武士道(p140)

一括りに「東アジア文化圏」などといいますが、中国と韓国、そして日本の文化には、大きな隔たりがあります。
確かに日本にも儒教は伝わりました。それは、仏教が伝来する以前のことです。そして、日本人は、儒教の精神を上手に取り入れながら、独自の文化を発達させていきました。仏教精神も取り入れ、伝統的な神道などにうまく吸収し、江戸時代には、武士道という倫理・道徳規範として確立させます。
(中略)
日本人の公の心、秩序、名誉、勇気、潔さ、惻隠の情といった高潔な精神は、この武士道に集約されるということです。日本人は、儒教の教えのよい部分だけを選んで、武士道に上手く採り入れた、といってもいいでしょう。
逆に、中国で生き残った儒教からは、「仁・義・礼・智・信」といった道徳的な思想が抜け落ちてしまいました。これには、もはや偽善的な意味しか残っていない。そのため中国では、皇帝を筆頭とする支配者層から見た場合、庶民は単に管理する対象でしかありませんでした。朝鮮に至っては、両班制度から見ても分かるように、庶民とは搾取する対象でしかありません。
一方、日本では、「仁・義・礼・智・信」といった儒教の精神を引き継ぎ、道徳心を大事にしてきました。江戸時代以降の武士道は、支配者層であった武士が自らを律する道徳規範として成立しましたが、庶民はそんな武士を尊敬し、憧れも抱いていたので、やがて日本人全体の精神として、生活のなかに浸透していったのです。

日本が儒教に毒されなかった背景(p141)

では、なぜ同じ儒教に影響されながら、日本が中国や韓国と違った独自の文化を生み出すことができたのか-一つには、日本は建国以来、一度も王朝交代が起きていないことが影響していると思います。すなわち、日本には、過去に誰一人として侵したことが無い「絶対的な公」、つまり、「天皇・皇室」が存在するということです。天皇という圧倒的な存在に敬意を払えない日本人がいたとしたら、日本人としてまともな教育を受けられなかった人か、中韓の「呪われた儒教」のような思想に毒された人でしょう。
それに加えて、もともと日本人に根付いていた行動原理の影響も大きいと思います。
つまり、「話し合いで物事を決める和の精神」が、日本人にだけあるのです。
(ここまで)

いや~つまり冨美さんは日本国のためではなく、支配者層へ娘を嫁がせるため、加えて自分達一族の利益のためだけに皇室とストラぐったのですね。
だから、クーデターに遭ったら?なんて発言も飛び出すのか~。
そして、その娘は中国式に庶民を管理の対象としてとらえているのでマスゴミを使ってのやりたい放題。
ピュリファイしていなくてもそう言って騙す騙す。

二人とももののみごとに日本人離れした方々です。
化けの皮は徐々に剥がされていくことでしょう。
Unknown (KUON)
2017-04-06 15:27:23
BBさま

私もこの一首引っかかりがあります。初見で違和感が。

少し調べさせていただきます。
KUON様 (BB)
2017-04-06 15:53:55
お手数をおかけします。
Unknown (右巻男)
2017-04-06 16:27:24
国士・西村眞吾氏のキリスト教批判の論考がありますので、ご参考に。

http://www.n-shingo.com/jiji/?page=1310
夜叉 (名無し備忘録)
2017-04-06 16:56:15
いよいよ共謀罪成立に向けての国会審議になりましたな。実質的自民党の補完政党の共産党が犬らしくキャンキャンと喚くがざまあだ。これが成立すればアカに繋がる夜叉夜鷹美智子屁以下の仲間も木っ端微塵だね。

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