今年2月、文科省は、次の小中の学習指導要領で、歴史用語などを変更することを発表しました。たとえば「聖徳太子」の名は没後の呼称なので、歴史学界で用いられる「厩戸王」の名を併記するとしました。とくに中学校の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」とするとのこと。
また、江戸時代の「鎖国」という言葉も、長崎などで外国と交易しており、完全に国を閉ざしていなかったので、実態に即して「幕府の対外政策」と表記にすると公表しました。
ところが翌3月、文科省はこれらを撤回し、元に戻すことを検討しているという報道がなされました。文科省はその理由について<最近の歴史研究などを反映させた変更だったが、一般からの意見公募で、「表記が変わると教えづらい」といった声が教員などから多く寄せられた>(3月21日付 日経新聞)ためだといいます。
正直、驚きました。
なにしろ、歴史の専門家ではなく「一般人」の意見によって、歴史研究の成果が教科書に反映されなくなってしまうというというのですから。「教えづらい」という表現からすると教師の方からの意見かもしれませんが、だとするとその意見を言った方は、最新の研究成果を子供たちに教えることよりも、自分たちが「教えやすい」という点を優先しているとも取れ、これもまた長年教師をしている私としては驚きでした。
歴史に限らず、すべての教科書は、新しい研究成果が反映され、少しずつ変化(改善)していくものです。新しい学説が有力になり、それが定説化すれば教科書にも反映されるのが当然でしょう。少なくとも私はそう理解してきました。
ところが今回の騒動ではそうした流れが、「素人の意見」によって、ひっくり返ったわけです。それがいかにおかしなことか、今回は「鎖国」を例にとって紹介しきたいと思います。
かりに江戸時代へタイムスリップして、人びとに「江戸幕府は、鎖国政策をとっていますね」とたずねても、きっと皆は首をかしげることでしょう。なぜなら「鎖国」いう言葉は当時、使用されていなかったからです。
そもそもこの語は、来日したケンペルが日本について記した『日本誌』を、志筑忠雄が『鎖国論』と題して翻訳出版したのが最初です。
それは、1801年のことでした。1801年といえば、江戸幕府が成立してからもう200年近く経っています。江戸後期ですね。しかも「鎖国」という言葉は、一部の知識人以外に普及しませんでした。
余談ながら、この志筑忠雄は西洋の研究をおこない、ニュートン力学やケプラーの諸法則、ガリレオの地動説を紹介した人です。
このなかで彼は、西洋物理学を説明するさい「重力」だとか「加速」、「遠心力」といった今でも使われている語を造り上げたといいます。たいした才能ですね。
しかし残念ながら「鎖国」という語を訳出したのは、失敗だったと言わざるを得ません。「国を鎖(とざ)す」という漢字が、「江戸時代の日本は海外と交流を断ち、世界の発展から取り残された」といった誤ったイメージを形成してしまったからです。