日本近現代史がわかる最重要テーマ20
満州事変は、1931年(昭和6年)9月、関東軍による鉄道爆破から始まった。
関東軍は、当時中国東北地方「満州」に駐留していた日本軍で、日本が経営する南満州鉄道およびその沿線を守備することを主な任務としていた。
関東軍の石原莞爾作戦参謀、板垣征四郎高級参謀らは、9月18日夜、奉天(現瀋陽)近郊で南満州鉄道を爆破。これを中国軍による攻撃として直ちに関東軍を出動させ、翌日のうちに南満州の主要都市を占領した。石原、板垣らによる謀略だった。
彼らは、かねてから全満州の軍事占領を計画しており、それを実行に移したのである。東京の陸軍中央では、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東条英機編制動員課長、渡久雄欧米課長などが、石原らと連携し、関東軍の活動を支援する方向で動きはじめる。彼らは、陸軍中央の中堅幕僚グループ「一夕会」に属していた。一夕会は、会員40名前後で、小畑敏四郎、山下奉文、鈴木貞一、武藤章、田中新一など、後に陸軍を動かすようになる幕僚たちが加わっていた。石原・板垣も一夕会メンバーだった。
当時の政府(若槻礼次郎民政党内閣)のみならず、南次郎陸相・金谷範三参謀総長ら陸軍首脳も、当初、事態不拡大の方針だった。だが永田らの中堅幕僚グループは、それに抗して関東軍の行動を支持していたのである。
一般には、満州事変は、関東軍に陸軍中央や内閣が一方的に引きずられたと思われがちだが、実は、関東軍と陸軍中央の一夕会系幕僚の連繋によるものだった。
一夕会は、1929年(昭和4年)に結成され、その中心人物は永田鉄山だった。
永田鉄山の構想
永田は、早くから次期世界大戦は不可避であり、日本もそれに何らかのかたちで巻き込まれると判断していた。 そしてこう考えていた。国家総力戦になると想定される次期大戦に対処するため、国家総動員の準備と計画が必須である。それには国家総力戦を支える経済力の強化とともに、資源の自給自足が不可欠だ。だが日本には自給自足のための資源が不足しており、不足資源は近隣の中国に求めざるをえない。また必要な軍需資源は中国(とりわけ満州・華北・華中)のそれをふくめればほぼ自給しうる。そして現に日本の勢力圏となっている満蒙を完全に掌握することは、中国資源確保への橋頭堡となる重要な意味をもっている、と。
一夕会は、このような永田の構想に強い影響を受けていた。その主要メンバーでは、満蒙の完全掌握のため、満蒙領有が秘かに検討されていた。来るべき国家総力戦にむけ、不足する資源を中国から確保するため、その足がかりとして満蒙の政治的支配権を獲得しようとするものだった。関東軍の石原らも満蒙領有を考えていた(石原は日米世界最終戦争論という独特の考えをもっていたが、大きくは永田の構想の影響下にあった)。
そのために一夕会は、陸軍人事の刷新、満蒙問題の武力解決などを取り決め、それによって国家総動員に向けての軍政改革などを実現しようとしていた。
陸軍人事の刷新とは、当時宇垣派が実権を掌握していた陸軍を改革するため、一夕会が事実上陸軍中央の人事を掌握し、陸軍を動かすことを意味した。そのため荒木貞夫・真崎甚三郎、林銑十郎ら反宇垣派将官を擁立しようとしていた。なお宇垣派とは、1920年代政党政治期に長く陸軍大臣を務めた宇垣一成を中心とするグループで、この頃の陸軍主流派を構成していた。南陸相・金谷参謀総長も宇垣派だった。
このような方針から一夕会は、まず陸軍中央の実務ポストを掌握する工作に着手する。その結果、課長以下の実務ポストの人事を掌握する陸軍省補任課長に一夕会員を送り込むことに成功。
満州事変直前の1931年(昭和6年)8月には、多くの会員が重要実務ポスト(各課の課長もしくは班長)に就いていた。こうして、石原らによる満州での武力行使を、陸軍中央でサポートする態勢が、すでに作られていたのである。
若槻内閣と陸軍首脳の連繋
事変発生当初、若槻内閣は、国際的平和協調の外交方針から、事態を拡大しないよう陸軍首脳(南陸相・金谷参謀総長)に要請した。国際的平和協調とは、具体的には、当時の東アジアの国際秩序(ワシントン体制)を尊重することだった。南・金谷ら宇垣派は、もともと内閣の意向を尊重する姿勢であり、その要請に従い関東軍に事態不拡大を指示した。
ただ、宇垣派陸軍中央首脳部(局長・部長以上)も、当時の日中間の緊張関係のなかで、満蒙の既得権益を守るためには、ある程度の武力行使はやむをえないと考えていた。
したがって、事変直後、朝鮮軍(朝鮮に駐留する日本軍)が、関東軍の要請により独断で満州に部隊を派遣したさいには、事後的にそれを承認した。関東軍の動きを支援する一夕会系幕僚の強い働きかけを受けたからである。
関東軍が朝鮮軍に出兵を要請したのは、南満州占領のためには関東軍だけでは兵力が不足するためだった。関東軍は事変開始翌日には南満州の主要都市を占領した。
若槻内閣は朝鮮軍の独断越境に驚いたが、容認姿勢となった宇垣派陸軍首脳との信頼関係の継続を重視し、結局それを認めた。明治憲法下では内閣は軍に対する指揮命令権をもたず、関東軍をコントロールするには、宇垣派陸軍首脳との連繋が不可欠だと考えていたからである。
またその後、関東軍は、現地の中華民国地方政府(張学良政府)を否定して、独立新政権樹立の動きを示した。それを永田ら一夕会系幕僚が支持すると、彼らの強い圧力を受けた陸軍首脳はそれも容認した。当初新政権樹立に反対していた若槻内閣も、朝鮮軍の無断越境時と同様、結局陸軍首脳の判断を容認した。
ただ、この時の独立新政権は、後の満州国とは異なり、中国の主権を前提とした自治的な独立政権だった。したがって若槻内閣は、独立新政権が、ワシントン体制(中国の領土保全を定めた九ヵ国条約を含む)が許容しうるギリギリのラインだと考えていた。
このころ宇垣派陸軍中央首脳部も、武力行使が始まった以上、一時的な南満州占領、親日的独立自治政権の樹立(中国主権を前提)までは、やむをえないと判断していた。
動きがとれなくなった一夕会
だが、若槻内閣や宇垣派陸軍首脳(南陸相・金谷参謀総長)が、関東軍や永田ら一夕会系中堅幕僚に引きずられたのはここまでだった。11月に入って、関東軍は北部満州(北満)の黒竜江省省都チチハルへの進撃を企図した。だが、ソ連との衝突を危惧する軍中央首脳部は、これを阻止すべく、臨時参謀総長委任命令(臨参委命)を発動した。
本来、出先の軍司令官は天皇に直属しており、参謀総長といえども関東軍司令官を直接指揮命令することはできなかった。臨参委命とは、参謀総長が出先の軍司令官を直接指揮命令できる権限を天皇から委任されたもので、これにより関東軍司令官は参謀総長の指揮下に入った。これは、関東軍ら出先機関への陸軍中央の統制力を強化するための処置だった。
北満は旧ロシアの勢力圏で、なお中東鉄道などソ連の権益が存続していた。若槻内閣も、国際的な考慮から、関東軍の動きを止めるよう南陸相や金谷参謀総長に強く求めた。
南陸相・金谷参謀総長は、この臨参委命によって関東軍のチチハル占領を阻止した。関東軍は、中国側の馬占山軍との戦闘経過のなかで一時チチハルに侵入するが、陸軍中央からの命令によってすぐに撤退を余儀なくされる。
また陸軍中央は、同様に関東軍の北満ハルビン出兵要請も認めなかった。
だが関東軍はチチハル占領断念後、方向転換し、さらに張学良政権のある錦州に進撃しようとした。陸軍中央は、この関東軍の動きも臨参委命によって押しとどめた。錦州はイギリス権益の関与する北京・奉天間鉄道(京奉線)の沿線に位置した。 関東軍の錦州侵攻についても、若槻内閣は、南や金谷に、その阻止を強く要請していた。
実はこの時、これまでとは違ったレベルでの、陸軍中央首脳部と一夕会系中堅幕僚層の意見の相違が表面化する。
陸軍中央のなかで、南・金谷のみならず、杉山元陸軍次官や二宮治重参謀次長、小磯国昭軍務局長、建川美次作戦部長も、チチハル・錦州占領には強く反対した。彼らはすべて宇垣派で、対ソ・対英考慮からだった。彼ら陸軍首脳部は、関東軍司令官以下主要幕僚の更迭も辞さずとの強い姿勢を示した。陸軍中央首脳部の断固たる姿勢に、関東軍はやむなくチチハル進撃、錦州攻撃を断念したのである。
だが、永田ら一夕会系中央幕僚たちは基本的に関東軍の動きを支持しており、当初から北満をふくめた全満州の事実上の支配を考えていた。また、張学良政権の覆滅は当然のことで、したがって錦州攻撃も容認さるべきとの姿勢だった。 南満軍事占領と新政権樹立までは、永田ら一夕会系中央幕僚たちは、建川・小磯ら宇垣派中央幕僚上層の一部を巻き込み、ついには南・金谷も動かし事態を推し進めてきた。だが、永田ら一夕会系中央幕僚も、北満チチハル占領や錦州侵攻の問題では、陸軍首脳部を動かせなかったのである。この時点で、関東軍や一夕会系中央幕僚は、動きが取れない状態となった。
また、石原ら関東軍は、前述のように独立新政権の樹立(中国主権下での)を主張していたが、その後、日本の実権掌握下での独立国家の建設(中国の主権を否定)を策するようになる。これは元来石原らが考えていた満蒙領有の一つのバリエーションだった。したがって、関東軍は、陸軍中央から認められていた新政権樹立の工作を続けながら、独立国家(のちの満州国)建設の準備を進めた。永田ら陸軍中央の一夕会メンバーも、関東軍の独立国家建設方針を容認していた。
だが、南・金谷ら陸軍中央首脳部は、関東軍の独立国家建設方針を認めず、この面でも関東軍や一夕会系中央幕僚は、それ以上事態を進めることが困難な状況となっていく。
一般には、陸軍中央や内閣は、関東軍にひきずられ、なすすべなく既成事実を認めさせられたと思われがちだが、彼らは一旦は関東軍を抑え込んだのである。
若槻内閣総辞職前後の策謀
このまま事態が推移すれば、次の定期異動(4月)で、永田・石原をはじめ一夕会主要メンバーは枢要ポストから一斉に外される可能性があった。それは彼らの企図の失敗を意味した。しかし、12月11日、若槻内閣が突然総辞職し、事態は急速に変化する。
10月末、民政党で若槻首相に次ぐ位置にあった安達謙蔵内相は、満州事変に対処するため、政友会との協力内閣(連立内閣)案を若槻首相に提案した。
安達は内相として、職務上陸軍の動きなどの情報を警視庁からえており、当時の事態に強い危機感をもっていた(ただ安達の協力内閣案の真の意図が、軍を抑えようとするものだったのか、軍と協力しようとするものだったのかについては議論がある)。当初若槻は安達の意見に賛同していたようであるが、政友会との連立に否定的な井上準之助蔵相や幣原喜重郎外相ら閣僚の強い反対をうけて協力内閣案には否定的となった。安達はそれを了承せず、閣議出席を拒否し若槻内閣を総辞職に追い込んだ。当時首相には閣僚の罷免権はなく、閣僚が閣議出席を拒否すれば、政権運営が不能となり総辞職するしかなかったのである。
若槻内閣・南陸相下で、動きを封じられていた関東軍や永田ら一夕会にとって、この内閣総辞職は絶妙のタイミングだった。それゆえ、この時の安達の不可解な動きの背景には、一夕会からの何らかの働きかけがあった可能性が考えられている。たとえば安達派の有力者中野正剛は一夕会メンバーと交流があった。
1931年(昭和6年)12月13日、元老西園寺公望らの奏薦によって犬養毅政友会内閣が成立。一夕会が擁立しようとした将官の一人、荒木貞夫教育総監部本部長が陸軍大臣となった。
この時永田は、政友会の有力者小川平吉に、次のような書簡を出している。
陸相候補として、南や金谷は、宇垣派の阿部信行前陸軍次官を推すかも知れないが、阿部では今の陸軍は収まらず、絶対に適任ではない。荒木貞夫教育総監部本部長や林銑十郎朝鮮軍司令官なら陸軍内部でも衆望があり適任だ、と。
宇垣派の阿部を退け、荒木か林を陸相に、との趣旨である。永田ら一夕会は、宇垣派の陸軍支配を打破し、荒木らを擁立することによって、陸軍を一夕会の意図する方向に動かそうとしていたのである。小川は犬養への書簡で、この永田の意見を、陸軍要路の極めて公平なる某大佐からのものとして伝え、自らも荒木を最適任としている。
荒木の陸相就任で潮目が変わった
政友会へは一夕会関係で永田・小川のルートだけではなく、鈴木貞一から党内有力者の森恪にも働きかけている。永田ら一夕会は、政友会への政治工作によって反宇垣派の荒木陸相実現をはかったのである。この荒木の陸相就任は重要な政治的意味をもっていた。荒木は陸相に就任するや、皇族の閑院宮載仁親王を参謀総長にすえるとともに、翌年1月には、盟友の真崎甚三郎台湾軍司令官を参謀次長におき、以後真崎が参謀本部の実権をにぎることとなる。真崎もまた一夕会が支持していた反宇垣派将官の一人だった。
荒木・真崎は、2月には、一夕会メンバーの小畑敏四郎を作戦課長に就かせ、軍務局長には山岡重厚を任命。4月、永田鉄山が情報部長、山下奉文が軍事課長に就任。小畑が在任わずか二ヵ月で運輸通信部長に転じ、後任の作戦課長には鈴木率道がつく。彼らはすべて一夕会員だった。そして宇垣派の杉山、二宮、建川、小磯らは中央から追われ、宇垣派は、すべて陸軍中央要職から排除された。陸軍における権力転換がおこなわれたのである。
一方、荒木陸相就任直後、陸軍中央で、「満蒙」(北満を含む)は、逐次日本の「保護的国家」に誘導するとの「時局処理要綱案」が決定された。中国主権下での新政権樹立から、中国の主権を否定する独立国家建設へ、満蒙政策の大きな変化だった。また、関東軍の全満州占領方針も陸軍中央によって承認され、チチハル、ハルビンの占領をはじめ関東軍による北満支配が実施される。
そして間もなく、犬養内閣は、満蒙は「逐次一国家たるの実質を具有する様之を誘導す」との、「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定した。独立国家建設方針が内閣の正式承認をえたのである。その直前、すでに満州国建国宣言は、関東軍主導のもと前黒竜江省省長張景恵を委員長とする東北行政委員会によってなされていた。
こうして、永田・石原ら一夕会が意図した全満州の占領と独立国家建設は、陸軍中央の、さらには政府の容認するところとなったのである。またこれ以後、一夕会系幕僚が事実上陸軍中央を動かすことになっていく。
プロフィール
(かわだみのる)日本福祉大学教授。1947年生まれ。名古屋大学教授を経て、現職。専攻は政治外交史、政治思想史。著書に『柳田国男の思想史的研究』『昭和陸軍の軌跡』『浜口雄幸と永田鉄山』など。「文藝春秋SPECIAL 2015春」目次
大人の近現代史入門 最重要テーマ20
・満州事変 永田鉄山が仕掛けた下克上の真実(川田稔)
・昭和恐慌 高橋是清は格差を拡大した(武田晴人)
・張作霖爆殺事件 軍閥中国は「イスラム国」状態だった(広中一成)
・国際連盟脱退 松岡洋右も陸相も「残留」を望んでいた(井上寿一)
・五・一五事件 エリート軍人がテロに走るとき(別宮暖朗)
・二・二六事件 特高は見た「青年将校」の驕り(佐藤優)
・軍部の暴走 誰なら陸軍を抑えられたか(大前信也)
・日中戦争 蒋介石が準備した泥沼の戦争(北村稔)
・三国同盟 「幻の同盟国」ソ連に頼り続けた日本(田嶋信雄)
・日米開戦 開戦回避 チャンスは二度あった(佐藤元英)
・真珠湾攻撃 戦略比較 山本五十六は石原莞爾に勝てなかった(星野了俊)
・原爆投下 ヒロシマ・ナガサキこそ戦争犯罪だ(宮崎哲弥)
・ポツダム宣言 日本は「無条件降伏」ではなかった(五百旗頭真)
・東京裁判 戦争裁判の遺産と限界(日暮吉延)
・GHQ占領 日米合作だった戦後改革(福永文夫)
・人間宣言 天皇・マッカーサー写真の衝撃(眞嶋亜有)
・再軍備 海上自衛隊発足の立役者は野村吉三郎(有馬哲夫)
・日韓歴史認識 和解が今後も進まない三つの理由(木村幹)
・沖縄返還 米新資料が暴く沖縄返還交渉の真相(春名幹男)
・尖閣・竹島・北方領土 領土問題 原点は講和条約にあり(小川聡)
特別座談会
・世界史の中の昭和史(半藤一利、船橋洋一、出口治明、水野和夫)
70年代生まれの戦争論
・対「イスラム国」戦争が戦後を終わらせる(白井聡)
・小林秀雄はなぜ反省しなかったか 宿命としての大東亜戦争論(浜崎洋介)
・「昭和天皇実録」皇族たちの暗闘(浅見雅男)
・三島由紀夫 死後四十五年の宿題(小川榮太郎)
・超強力クライアントGHQとの戦い 交渉のプロが見た「日本国憲法」の作り方(青木高夫)
・日本を滅ぼした「二つの顔」の男たち(保阪正康)
・東大、慶応、一橋 カタヤマ教授が解く 近現代史入試問題(片山杜秀)
・8・15 安倍談話が語るべきこと(三浦瑠麗)
・事実関係無視の論敵に勝つ歴史論争術 南京・慰安婦論争 本当の敵はアメリカだ(渡辺惣樹)
・戦後日本を揺るがした世界十大戦争(菅原出)
・大人の近現代史入門年表
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