金銭補償が盛り込まれなかったことは、解雇ルールの運用を裁判官に丸投げする現状の法制で利益を得る集団が、徹底的に反対したためである。裁判に長い時間をかけられる大企業の労働組合にとっては、解雇無効の判決を勝ち取った後、会社側との和解交渉で得られる金銭補償の額に、法律で上限を設けられたくない。他方で、裁判ではない労働審判では、平均20万円弱の解雇補償金(労働政策研究・研修機構編『日本の雇用終了』)で済ませている中小企業の経営者にとっては、法律で下限を設けられたくない。この大企業労働組合と中小企業経営者との「奇妙な利益の一致」から、多くの中小企業の労働者にとっては「福音」となった筈の、真の労働契約法が実現されなかった。
企業別に組織された日本の労働市場では、欧米のような労使間の階級対立よりも、企業内の正社員と企業外の非正社員、大企業と中小企業の労働者間の利害対立の方が、より深刻である。労働審議会は特定の団体間の利害調整の場でしかなく、そこに参加しない非正社員や中小企業の労働者の利益は無視され易い。むしろ総理直轄の会議で、社会全体の観点から解雇ルールの基本的な方針を定め、それを基に国会で十分な審議を行う必要がある。
「カネさえ払えば解雇できる」への誤解
事前型と事後型の金銭補償とは何か
解雇の金銭補償について、「カネさえ払えば解雇して良いと法律で定めた国はない(従って、日本もそうすべきではない)」という説明が厚生労働省によってなされているが、これは、誤解を生みやすい。まず、米国や英国では、そもそも国は解雇等の個別労使紛争には介入しないため、金銭補償についての規定がないのは当然である。但し、人種・宗教・性別等の「差別」による解雇には、人権問題として断固介入する。また、法律はなくとも、企業は労働組合との事前協定で、一時帰休の条件として金銭補償を行うことが一般的であり、事実上、政府もこれを容認している。
他方、ドイツやイタリア等では、労使紛争で解雇無効の判決となっても、企業側が一定額の金銭賠償をすれば解雇できるという規定がある。日本でも法律上の規定はなくとも、解雇無効の判決後には、職場復帰ではなく、金銭補償で和解する場合が一般的である。このように、現状の解決法を追認する事後型の金銭補償方式は、過去の労働審議会で検討された経緯もあり、目新しいものではない。
しかし、この解雇無効判決を前提とした事後型の金銭補償では、裁判に訴えられない中小企業の労働者の救済にはならない。これに対して、「事前型」は、判例法の「解雇権濫用法理」における、解雇の必要性、解雇回避努力、被解雇者の差別禁止、労働組合等との協議等の四要件と並んで、所与の水準の金銭補償を、解雇の有効・無効を判断する基準に含めるものである。これにより、労使双方にとって事前の予測性が高まるだけでなく、それが労働審判の補償金の水準にも反映される可能性が大きい。金銭補償を「カネさえ払えば解雇できること」と批判するのは大企業の恵まれた労働者の立場であり、現に十分な補償もなしに解雇されている中小企業労働者の厳しい現状を無視したものといえる。