福島第一原発事故に伴う避難指示が、県内の4町村で相次いで解除された。放射線量が特に高い区域を除き、新たに3万人余りが住み慣れた地に戻れるようになった。

 だが、事故から6年がたち、避難者の境遇や思いは複雑だ。戻る人や、戻らないと決めた人だけではない。「戻りたくても当面は戻れない」「迷っている」といった声も多い。

 当たり前の日常を奪われた人々の暮らしを再建し、コミュニティーを作り直す道のりは、長く険しい。避難者たちが悩みながら選んだ多様な生き方を、国民全体で支える。それを土台にしなければならない。

 ■「ゼロへのスタート」

 飯舘村から福島市に避難している渡辺とみ子さん(63)は、解除を受けて、近く元の自宅でカボチャの栽培を始める。土壌や放射能の状況を確かめるための試験的な栽培で、地元での農業再開を仲間らと模索する。

 「生きているうちは本格的には無理だろうけど、まかぬ種には実もならない。やっていれば、だれかが引き継いでくれるんじゃないかと思ってね」

 福島市で家を買い、カボチャの栽培や加工販売で生計を立ててきた。村には時折、通うことになる。夫と「10年後ぐらいには戻りたいね」と話しているが、確信はない。

 飯舘村の避難者の多くは近隣に身を寄せており、村民のつながりが比較的保たれている。ふるさとに戻りやすいと見られてきたが、最近の住民調査では「戻りたい」と「戻らない」が3割ずつと割れた。

 戻らない人には、「避難先で新たな生活を始めた」「避難解除されても医療や買い物など生活基盤の復旧が不十分」との声が多い。除染後もなお残る放射能への不安も根強い。

 菅野典雄村長は言う。「ゼロからではなく、ゼロに向かってのスタート。長い間、世代を超えて不安や生活苦と闘っていかなければならない」

 ■すれ違う行政と住民

 避難解除は、国が時期を示し、自治体が受け入れる形で進んできた。一足早く解除された5市町村では、戻った住民は平均で1割余り。避難が長引いたところほど、帰還率が低くなる傾向もみられる。

 自治体には「避難指示が続くと、ふるさとを未来につなげることが困難になる」(宮本皓一・富岡町長)という危機感が強い。公設民営型の商業施設をつくったり、地元に戻る人に引っ越し代を補助したりと、呼び戻しに必死だ。

 一方、避難を続ける人への支援は縮小する方向だ。避難指示を受けた人への慰謝料の支払いは来年3月分で終わる。住宅の無償提供も避難解除後、段階的に対象地域が狭められている。

 指示区域外からの自主避難者も、住宅の無償提供が今年3月末で打ち切られ、条件つきの家賃補助に切り替えられた。

 避難者団体などからは「帰還か移住かの『踏み絵』を迫るのか」といった反発がやまない。住民説明会や議会との協議が重ねられたとはいえ、解除は避難者にとっては行政が決めた区切りでしかない。戻る人ばかりに目が行きがちな行政の姿勢が、その他の住民を遠ざけていないだろうか。

 避難者一人ひとりの状況を把握し、自立にたどり着けない人には、避難先で住宅や就労の支援を丁寧に続けるべきだ。

 ■つながり断たぬ工夫

 離れた地で暮らしながらも、ふるさととのつながりを保ちたい人は少なくない。

 富岡町からの避難者でつくるNPO「とみおか子ども未来ネットワーク」は、若者が年配の人に半生や町での暮らしをインタビューし、文章にまとめる「聞き書き」を続けている。

 3月、東京都内での交流会。女子大学生が揺れる気持ちを打ち明けた。「富岡に戻って復興の仕事をするか、一歩引いたところから関わりを放さずに人生を送るか、悩んでいる。ただ、若い人たちのつながりを絶やさない活動はしていきたい」

 復興のために戻るという高齢の男性が語りかけた。「こんな状況だから、離れていく人は責められない。でも、ふるさとをずっと心に持っていてほしい」

 地域の再生に長い年月がかかる現実を踏まえれば、住民のつながりが切れないようにする取り組みも大切になる。

 被災自治体の復興計画づくりに携わる丹波史紀・福島大准教授は「行政は今後のまちづくりで、当面戻らない人も関われる仕組みを整えるべきだ」と話す。避難者が各地で集まる、墓参りや祭りの時期に里帰りして先に戻った住民と交流する、といった活動を提案する。

 国や自治体に求められるのは、原発事故の被害者たちを支え続ける姿勢だ。平穏な生活環境や人間関係を取り戻そうと、一人ひとりがそれぞれの足取りで歩んでいく。そんな復興をめざしたい。