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>微笑ましい一晩だったな。
永遠に刻むぞと息巻いて始めた54年の検証は、各部の長を列記してみたら、案外、みんな存命で元気。A谷氏も元気。記憶を辿った書き込みも、ちりばめられる事実誤認に頬がゆるむ。<
ばかか?
長生きが仏法の証明か?笑止千万だ。人間はいかに生きるかが勝負だ。乞食になっても法華経に傷をつけず、若死にだろうと広宣流布の途上に綺羅星の如く輝いては消えて行った多くの無名の戦士がいる。いや、もう、ほとんどの広布の影の功労者はこの世にいない。これが現実だ。
>聖教若手氏が支離滅裂な主張で急にいきり立ったかと思うと、そこから、仲間の身から出た錆のう○こ旋風。54年のできごとは、こんなに牧歌的だったのかと自身の記憶を疑う程だったよ。<
はっきり、うんこって書けば。
>君たちが54年を振り返るのに決定的に欠けているのは、何も記憶違いや事実誤認だけではない。反逆・退転・除名になった人間に手玉にとられた、惨めな歴史だ。魔に学会を食破られ、師匠を守れなかった罪は重い。それには、心から賛同する。しかし、35年の歴史が証明しているのは、最も悲惨だったのは反逆・退転の輩に絡めとられ、一緒に踊った人間たちであるいう事実だ。調べてみろ。みんな見事に死んでるから。<
人間は、みな、死ぬんだ(笑)。
死なない人間は見たことないがね。
>後から「あいつは戦わなかった」などとあげつらうのは簡単だ。安全地帯からいくらでも叫んでいればいい。<
それで、仏罰で死ぬんかいな。
>しかし、54年を本当に支えたのは、砂をかもうと、泥をすすろうと、先生のつくった学会の中で戦った父・母だ。
反対に一番、卑怯な奴。それは師匠のつくった学会の中で這いつくばることをやめた人間だ。
簡単に言ってやろう。君たちが尊敬している20歳の3年後、7年後を想像してみろ。この中に3年後、7年後に責任を持てる奴がどれだけいる。
もっと言ってやろう。今の自分を見ろ。そして、このまま続けた、君たちの3年後、7年後を想像してみろ。結局、20歳も君らに退路をどんどん塞がれているんだよ。<
それは、脅迫だな。
問題は境涯の問題であって、人の生き死に、病気の有無じゃない。
除名者や退転者が死ぬなら、竹入はまだ生きている。
人の寿命は、その人の定業もある。過去世の福運もある。
願兼於業もある。
>池田先生が御元気で、池田先生と御会いする機会が少しでも残っている時に、君たちは最も遠くに向かっていくんだ。しかも、悪人としても善人としても、後世に何の名も残さない、小悪人と共にな。
それも自己責任だ。好きなだけやるがいい。しかし、それで君たちが青春をかけてきたものは成就したのか。今も日顕はまだのうのうと惰眠を貪っている。仇はとれたのか。<
第二次宗門問題は、本部の腐敗の鏡だ。
本質は、昭和54年問題に矮小化は出来ない。
師匠を祭り上げた後に、師匠を裏切るという定見のなさが招いた幹部の毀誉褒貶だ。
先生を神格化し、凡夫の権威に縋る。
そして、宗門の攻撃に、師匠に手の平を返す。無様だ。
人間なんだよ。
大聖人も三代も人間だ。
問題の本質は、正にそこにある。
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