過去のオマージュではなく、現代の街とともに躍動する2017年のシティポップ。クイーン・オブ・シティポップ、土岐麻子の最新作『PINK』は、エレクトロニックミュージックを軸にコンテンポラリーなポップスとしての洗練を極めたアルバムだ。都会の孤独や渇きを癒やし、潤す、その甘美な歌声は、ハイレゾ音源の質感やレンジの広がりが聴き手をどっぷりと浸れる奥深い世界へと誘う。そんな彼女のシティポップ観や都会の色としてイメージするピンクの色彩で描かれた新作の作品世界について、さらにはハイレゾを含めた音へのこだわりについて、話を聞いた。
取材・文 / 小野田雄 撮影 / 大森克己
シティポップとは、歌詞の世界を含めて、街のスピードに合う音楽
土岐さんは数々の素晴らしい作品を通じて、シティポップの女王とも評されていますが、ご自身でシティポップをどういう音楽としてイメージされていますか?
私にとってのシティポップは、歌詞の世界を含めて、街のスピードに合う音楽だと思っています。そのスピードというのは、歩く速度だったり、車や電車の速度はもちろん、流れている時間も自然が多いところと人がたくさん集まっている街では違って感じると思うんですけど、街で体感するタイム感に合うかどうかということがまずひとつ。それから歌詞において、光と陰がある街での生活を鼓舞するものであること。私は東京で生まれ育っていますけど、自立して独り暮らしをするようになってから、街には人がたくさんいるのに、つねに独りぼっちでいるような、独特な孤独感があって、そんな瞬間に聴く山下達郎さんや吉田美奈子さんの音楽は、その孤独を転換して、自由な気分を味わわせてくれる気がして、私もそういう音楽を作りたいなって。
そして、シティポップは70年代後半から80年代にかけて、日本の好景気を背景に生まれた豊かな音楽でもありますよね。
そうですね。当時の作品は、サウンドのクオリティもぐっと上がって、広がりのある音でレコーディングされて、曲も歌詞もすべてが上昇している感じというか、好景気な時代の気分をそのままま録っていますよね。私はそうした作品を幼いころから聴いていたのでしっくりくるんですけど、好景気の時代を存分に体験したわけではないので、当時の気分を形にしようと思ってもできないし、形だけ作れたとしても、それは正直な表現ではないんですよね。だから、やっぱり、時代が変われば、気分が変わるし、ルーツに回帰するのではなく、いまの気分を作品に閉じ込めたいなって思ったんです。
エレクトロミュージックを土台にしながら現代的にアレンジしたシティポップ
つまり、以前のような生音主体の音作りではなく、エレクトニックミュージックを土台にした最新アルバム『PINK』は現代のシティポップを意図した作品であると。エレクトロニックミュージックは以前から好きで聴かれていたんですか?
私は影響を受けすぎないように、自分の音楽と近い作品ではなく、自分がやらないような音楽を無意識のうちに選んで聴いていて、そのなかにエレクトロニカやヒップホップもあって。アルバム『PINK』を作るにあたっては、よく聴いていたドイツのエレクトロニカデュオ、ファンクストラングのアルバムがマインドの部分で自分と近いものを感じて、以前の作品にも参加していただいた(プロデューサー)トオミヨウさんだったら、私の気分に近いものを作ってくれそうだなって。それで声をかけさせてもらったんです。当初は打ち込みでお願いしますという打ち合わせも特にせず、いままでどおり、生のドラムとベースを入れるつもりで、スケジュールを立てていたんですけど、直前になって、生のドラムを入れるより、エレクトロニックミュージック主体の不思議なグルーブ、街のひといきれを感じる空気感をそのまま活かそうということになり、それ以外のストリングスやホーン、ギターなんかをダビングしたんです。
そして、ハイレゾ版を聴けばよくわかるんですけど、ダンスミュージックのフォーマットを借りつつ、この作品はあくまでポップスであって、リズムのアタック感や音圧をそこまで押し出していませんよね。
それはよかった(笑)。低音が出すぎると、俗っぽくなりすぎてしまうので、今回はミックス段階で最初にベースの音を決めて、それを基準に作品全体の低音のバランスをとったんです。私からのリクエストとしては、とにかくサウンドを聴いてほしいアルバムではあるんだけど、それに歌詞が負けちゃいけないと思ったので、歌詞がつぶさに聴こえるような音作りにしてほしい、と。ただし、ボーカルを前に出しすぎると、書き割りとその前に立っている人という作品になってしまうので、街を表現したデジタルな世界に歌が溶け込んだ作品にもしてほしいと、難しい注文をさせてもらいました。だから、要所要所の語尾とか消えそうになる母音の発音を注意深く立体的にしてもらって、ポップスらしく聴ける作品になっていると思います。
アナログとデジタルが融合した最新のレコーディングに挑戦
さらに言えば、土岐さんのボーカルが醸し出すアナログ感とデジタルなトラックが違和感なく共存していますよね。
レコーディングでは、エンジニアさんが歌のブレス箇所を編集したり、きれいに整えてくれるのですが、編集しないほうがいいときもあったりするんです。今回の場合には、その都度みんなで話し合って、音の細部を詰めていきました。用意したマイクも4本を歌い比べて、それこそ、音がつぶさに録れるという新製品のマイクも試してみたのですが、今回の作品世界にはどうしても合わなくて。表題曲の「PINK」以外は同じ真空管のマイクだったのですが、その真空管が壊れかけていたので、マイクの状態は一日一日変わるものの、腐る直前の肉がおいしいというように、壊れる直前のその真空管が自分の声に合っていたので、騙し騙し使って、なんとか、アルバムを通して、そのマイクで歌いきることができました。
ハイレゾで聴くと、アナログならではの歌の艶やあたたかみが際立っていますし、それこそ、1曲目の「City Lights」は肉声のアカペラとデジタル処理したコーラスのレイヤーも実に繊細なタッチですよね。
この曲では機械のゴスペルを意図して、機械処理したコーラスはトオミさんがキーボードを40分くらい打ち込んで作ったものなんですけど、元の歌は鼻歌のような不規則さで録ったものだったので、そこに機械的で正確なコーラスが寄り添っているところは、アナログとデジタルが融合した今回のアルバムを象徴していると思います。
土岐さんは、CDはもちろん、アナログもハイレゾ音源も両方リリースされていますが、その両方が共存しているところが現代の音楽だと思いますし、今回のアルバムの大きな特徴だと思います。そんな作品に『PINK』というアルバムタイトルをつけたのは?
まず、「PINK」という表題曲が先にあったんですけど、その曲の歌詞の世界は意図せず、偶然出てきたものだったんですね。いちばんの歌詞で“19歳”とか“17平米9万1000円”とか、そういう語感の言葉が出てきて、19歳にして、そんな部屋に住んでいるということは、この人はがんばっているんだなって(笑)。何の仕事しているんだろう? どうして、高い部屋に住んでいるんだろう? 見栄張っているのかな? とか、そうやって自分が出したキーワードからドラマをつないでいったら、この曲では人肌の色としての“PINK”が浮かびあがったんです。
生まれてから死ぬまでの間に、人間は誰かの肌に触れたいと思うものですけど、なぜ触れたいかを考えると、肌の向こう側に愛情だったり、安心があることを信じているからじゃないかって。そう思いつつ、「PINK」という曲ができあがったとき、今回のアルバムはそういうタッチで1曲1曲書いていきたいなって思ったし、すべての曲が出揃ったとき、アルバムタイトルは、やっぱり、『PINK』がいいんじゃないかって。『PINK』は人肌であり、そして、物質の向こう側に求める何かの色でもあって、みんな、そういう『PINK』を求めて、無理してでも都会に住んでるのかなって思ったんです。
ハイレゾで聴くとより立体的に楽しめる作品を作っていきたい
ご自身ではハイレゾ版の『PINK』は聴かれましたか?
今回のアルバムはいろんな環境で聴いてみたんです。車でも聴きましたし、数百円のイヤホンや高音質のイヤホン、スタジオの大きいモニタースピーカーやパソコンの内蔵スピーカーなんかでも聴いたんですけど、どんな環境で聴いても楽しめる作品にはなっていると思います。ただ、今回はその世界にぐっと入り込んで、曲それぞれに出てくる主人公の一瞬一瞬をともに生きてほしくて、そのために解像度の高いプライベート空間にしたかったんです。今回の作品は、細部におもしろい仕掛けもあったりするので、そういう意味ではハイレゾだったり、より良いリスニング環境で聴いてもらうのが合っているアルバムだなと、私は個人的にそう思います。
楽曲や歌詞のクオリティだけでなく、この作品で試行錯誤した音質へのこだわりもまたシティポップがシティポップであるための絶対条件なのかもしれませんね。
例えば、ラジオ局は放送する際にそれぞれの局で音のバランスが違うんですよ。音のバランスが変わるとフォーカスされる部分が変わるので、曲の聴こえ方や印象も変わってくるし、その違いは音楽の楽しみ方の幅でもあるんですけど、個人的に、スタジオで聴いている音に限りなく近い音源が製品になるのはうれしいことですね。ただし、高解像度で聴かれるということは、場合によってはあらが目立つということでもあるので作り手としては怖くもあるんですけど、ハイレゾで聴いたとき、よりよく、より立体的に楽しめる作品を作っていきたいなって思いますね。
土岐麻子によるハイレゾレビュー
わ、とてもいいですね(笑)。ハイレゾ版は、私が「こう聴こえてほしい」というイメージに近い聴こえ方をしてます。例えば、1曲目「City Lights」の肉声とデジタルが重なっているアカペラのパートで、いちばん低い、声というより音に近い箇所が一筋のラインとしてはっきり聴こえたら、おもしろいなって思っていたんですけど、意図したとおり、そのラインを追って聴けるのがうれしいですね。それからこのアルバムは2曲目「PINK」のストリングス・パートとか、音の情報量が多くなる箇所が多々あるんですけど、音のレンジが広いハイレゾではスペースが生まれて、音が伸びやかですし、抑揚がついて、よりドラマチックに聴こえますね。
過去何度か会っているベニーは、同じような感覚を共有する仲間のようなアーティストです。この作品は、90年代の機材を使って作ったら、結果的に80年代っぽい作品ができたということなんですけど、ヘッドホン(MDR-100A)で聴くハイレゾは彼がヘッドフォンを聴きながら作り上げた世界、一音一音の意図がわかっておもしろかったです。
私が生まれた76年リリースのこのアルバムは気づいたら家でよくかかっていた作品なんです。そのハイレゾは技術的なところやより具体的なところが聴きわけられて、特にワイヤレスヘッドセット(MDR-EX750BT)で聴くと、スタジオで作業するスティービーが目に浮かぶ、そういうドキュメンタリー的な感動がありましたね。
ハイレゾ音源とは
CDよりも情報量の多い、高解像度(=ハイレゾリューション)のデータ音源のこと。CDに収録されている音楽は、通常44.1kHz/16bit(サンプリング周波数/量子化ビット数)で収録されているが、それよりも4〜8倍のデータ量をもち、96kHz/24bitや192kHz/24bitなどで記録された音楽データである。元はアナログである音楽をデジタル化する際に、より細やかにデータ化することで、アーティストの息遣いやメッセージをより臨場感高く楽しむことができる。近年ではハイレゾで作品をリリースするアーティストも増え、mora(http://mora.jp)などハイレゾを配信するダウンロードサイトなどで購入することができる。
土岐麻子(ときあさこ)
Cymbals のリードシンガーとして、1997 年にインディーズ、1999 年にメジャーデビューを果たす。2004 年のバンド解散後、土岐英史氏(実父)を共同プロデュースに迎えたジャズ・カバー・アルバム『STANDARDS ~土岐麻子ジャズを歌う~』をリリース。ソロ活動をはじめる。本人出演/歌唱が話題となったユニクロTV-CM ソング『How Beautiful』をはじめ、NISSAN 「新型TEANA」TV-CM ソング『 Waltz for Debby』、資生堂「エリクシール シュペリエル」CM ソング、『Gift ~あなたはマドンナ~』など、自身のリーダー作品のみならずCM 音楽の歌唱や、数多くのアーティスト作品へのゲスト参加、ナレーション、TV、ラジオ番組のナビゲーターを務めるなど、“声のスペシャリスト”。オフィシャルサイトhttp://www.tokiasako.com/