”救済主義”って中核派のみんなが否定的に言うけれども、”救済主義”を貫けた人間は世の中には殆どいない。
組織として考えるとゼロや。
世の中を見渡したら、生きづらくて救済を求めている人々はいるけれども、救済できる組織なんてないやろ。
一般的に、宗教なんか、心理的に救済する代わりにお布施を強いて、結果的にゼンゼン救済してなかったりするやん。
そう考えると、リアルな意味で”救済主義”を貫ける人間なんておらんねん。
そして、”救済主義”についてもう少し考えると、富という意味で救済をしたところで、自分の富は枯渇してまうよなあ。
そうすると、”救済主義”を貫いた人間というのは、富という意味での救済ではなくて、知恵という意味で救済しとることになる。
なんか悩んどる人がいるとすると、
「ああ、それは自分の経験からすると、こういうことなのではないか?」
って言ってあげて、それで解決できたら、幸せやん。
そんで、それに対して対価を要求し出したら”救済主義”ではなくなってしまうし、対価を要求せずに、自分の信念として、”救済主義”を貫いたら、それでええやん。
・・・・なんか問題あるの?
また、労働運動重視路線も私はおかしいと思う。
自分らがやりたい闘争だけをやるための詭弁や。
”救済主義”を貫いて、労働運動だけでなく、市民運動でやっていったら、仲間なんてどんどん増えるよ。
けど、マルクスが言ったかとは思うんやけど、人間は労働を苦痛に思ってやっている。
そうすると、労働をしている人間はそれだけ苦痛に思うことも多いから、”救済主義”で仲間をごっそり引き入れることだって可能や。
だって、労働で困っとる人がおるとしたら、
「・・・それ、こうやったほうがええんちゃうの?」
と言う、そんな仲間ができたら、労働運動なんてすぐ広まるやろ。
まあそんなことを言うと、カタブツの中核派どもは、
「そんなんで、資本家に迎合してどないする!」
って言うやろけど、
「・・・それ、こうやったほうがええんちゃうの?」
と言い合える、そんな仲間が過半数を超えたときに、ふと気づいて、資本家に迎合しようとは思わん行動に出るのとちゃうの?
なんでそんな、柔らかい考え方ができんのか、私にはフシギでしかたがない。
東部地区の会合で、なんだかで、比較的若手が
「そんなめんどくさい会議ではなくて、私はもっと行動をしたい!」
みたいなことを言ったら、元教員のババアが
「・・・じゃあ、あなたはなにをするの?」
と聞きやがった。
私はそれは論理のすり替えで、違うやろ!と思ったけれども黙っとったら、若手は
「・・・自分は名簿回りをする。」
とか言って収まってもた。
暴力団・社寺仏閣から日本共産党や中核派まで、あらゆる組織もヒトも、
「自分らはこうありたい」
と言って、それは現実とはゼンゼン違う。
現実と理想とはギャップがあるねん。
そこを埋めるために、「自分はなにができるか?」が問われとるわけやけれども、その先が、暴力団・社寺仏閣から日本共産党や中核派まで、あらゆる組織もヒトも、自分の目上の者に対してどのようにヒラメになり貢献できるか?という発想に陥っとるわけやねん。
元教員のババアが
「・・・じゃあ、あなたはなにをするの?」
と言ったのは、目上の者に対してヒラメになる発想であって、完全な間違いで、目下の者の考えを理解して、
「私は、あなたのためにこうできると思う」
と言うべきやったと私は思うし、そう発想を変えてかなアカンと思う。
「・・・じゃあ、あなたはなにをするの?」
なんて聞いたヤツが元教員なんてゾッとする。
コイツはおよそ40年の間、なにを生徒に教えてきたというのか。
それで、そんな発想に変えようとしたら、中核派が躍起になって否定する”救済主義”の問題になるねん。
なんで”救済主義”が否定されるのか、私にはガチでワカラン。
いや、労働運動で既得権益を作り出したと思うとる連中にとっては、”救済主義”を唱える連中が出てきたら、ガチで革命を起こせる集団になってまうかもワカランから、革命を起こされんために、敢えて叩いとるんとちゃうか?と思うよ。
けどそれって、叩く方向がちゃうよなあ。
・・・けど、極左の中では、そんな叩き方は、「内ゲバ」と称して、よく行われてきた。
内ゲバほどの反革命行動はないことを、リアルに革命を起こしたいならば、みんなもっと理解せなアカンよなあ。
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