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はじまりは、
「いつも頑張ってくださる一期さんにお礼をしたいのですが」
彼の主である少女の、そんな一言からだった。
一期一振と彼女が出会ったのは丁度梅雨のころ。
白雲がほんの少しの気まぐれで、その身の隙間から日差しを若葉へと贈った晴れ間の日であった。
厚賀山にて敵の手中にあった一期を助け出し、傷ついた刀身を清め、修繕したのが彼の主である少女だったという。一期にその記憶はおぼろげにしかなく、はたと自らの気を取り戻したときには床の上であった。
力強い太陽の光が水たまりをジリジリと焼き、辺りに土の匂いが立ち込めていた。それをいまだ雨の気配を残す風が慰めるように撫でるのである。
「お加減はいかがですか?……一期一振さま」
その瑞々しい風に吹かれ、三つ編みのおさげを二つ揺らす黒髪だった。
照りつける日差しを柔らかく受け止め、光る黒目がちな双眸だった。
微笑みを称える白い肌に、折り目正しい装束が清らかな姿に、傷ついてもいないのに心の臓がぎゅうと痛んだことを思い出す。
そんな少女が一期の主であった。
(今思えば、一目惚れか……)
人たらしで有名な主を持っていた彼が、こうも簡単に心を奪われてしまったとあっては笑いものなのかもしれないが、時折苦しいほど痛むこの胸の内を一期は存外気に入っていたのである。
確かに痛みはときに矢が刺さるように鋭く、あるいは石で殴られるように鈍くもあるのだが、その痛みの後には必ず、彼の瞳に映る世界に何かしらの魅力を見つけることができていた。
日の光を透かす白雲が美しいこと。
細い雨でしとりしとりと青葉を叩く音が心地良いこと。
あるいは、兄弟友人たちの笑顔がとても尊いものだと気が付くこと。
すべては御物であったときには見つけられなかった代物ばかりであった。
この胸の痛みを永遠に手放したくないと、思えるほどであったのだ。
彼女をとりまく、すべてのものが魅力的に見える魔法にかかっているような心地。
「……お礼、ですか?」
そんな魔法にかかっていた折の、少女からの申し出だったのである。
静かに、この想いに浸れていれば良いのかもしれない、と近侍に励んでいた矢先のことであった。
柔和な微笑みの少女がじつと一期を見上げると、はて困ったと青年は目を泳がせた。
近侍として尽くす以上の幸せを考えもしない青年であったのは、ほんの少しでも少女を求めると望みもしない欲が次々と湧いてくるような気がしたからであったのに。
だからと言って、心憎く思う少女の申し出を無下にするのは彼の良しとするところではなかった。
だから、
「……手を」
本当に些細な、我がままをひねり出すのである。
「お手に触れても……よろしいでしょうか?」
我ながらなんて幼稚なことを言いだしたのだろう、と後から顔が熱くなる。
しかし、少女はそんな一期の複雑な心境をよそに
「そんなことで良いの?……わたしので良ければ、どうぞ」
差し出された右手に、思わず青年はひるむのである。
まじまじと見つめると、一期が思うよりもずっと小さな手であった。
「そ、それでは……失礼いたす」
手袋を外して、そっと壊れ物に触るように指を絡めた。
(う、わあ……)
そしてやはり、彼が思う以上に小さな少女の手だったのである。
早鐘を打つ胸は簡単に舞い上がる。そのうち両手で彼女の手を握り始めた。
「楽しいですか?」
やわやわとした青年の手つきにこそばゆさを覚えた少女がクスクスと笑いながら一期を見上げると、
「小さくて、柔らかくて、あたたかで……」
蜂蜜を溶かしたような笑みを浮かべて
「……幸せだ」
なんて、ため息まで吐くのである。
思わず少女は目を丸くするのだ。するとその視線に気が付いた一期が慌てて手を引っ込めて
「も、申し訳ない!……このような、ぶ、無礼を……!」
冷や汗をかきながら平伏するのである。
「そ、そんな、顔をあげて一期さん!」
今度は少女が慌てながら一期の手をとり、
「一期さんが楽しそうで、わたしも楽しいです、から……」
少々頬を赤らめながら、笑うのである。
それからだ。
日に一度、少女と一期の『お礼の時間』ができたのは。
手を握るだけ、ほんのわずかなその時間。
しかし、一期にとっては何物にも代えがたい貴重な時間であった。
梅雨の終わりのころにはじまったその時間。
心躍る瞬間でもあり、しかし、自らの心の中で一番熱いところを冷やしておかなければならない時間でもあった。
そんな、ある日。
それは夏も盛りの、ある晴れた日であった。
「少し、近づいてもよろしいでしょうか」
また、自らは何を言い出したのかと思わず口を押えるのだが後の祭り。
いつの間に、こんなにも欲張りになってしまったのかと夏の暑さのせいではない汗がしたたった。
「良いですよ」
そしてそれをあっさりと了承してしまうのが、彼の主であった。
「……あなたは、もう少し警戒心を持った方がよろしいのでは?」
「え、一期さんにですか?」
「まあ、いえ……はい、なんでもありません」
煮え切らない青年の態度に少女は首を傾げるばかりであったが、それでもこの日から
ほんの少し、少女と青年の距離が縮まっていく。
ほんの少し、ほんの少し。
ある曇りの薄暗い日から、膝がこつんと触れ合って。
ある夜明けの涼しい日から、肩がこてんと重なって。
もちろん、手はずっと繋いでいて。
「一期さんの手は白いままですね」
いくつもの、囁き声のような内緒話が積み重なって。
「顔はちょっと日に焼けていて」
「格好がつきませんな」
「ううん……素敵ですよ」
その燃えるような夕焼けの日から、少女を膝に乗せる一期の姿があった。
そうして、
「もう少し……近づいてもよろしいか?」
ある日の日暮れ後。
秋も深くなって、これから長い夜が始まっていくときのことだった。
「はい、どうぞ」
どんどんわがままになってしまう自らに気が付いていた。それに知らないふりをして。微笑みかけてくれる少女つけこんで。
そうなってしまうだろう、と分かっていたはずなのに。
だから、心の奥底に熱が点ることだけは押しとどめていたというのに。
もう、熱いも冷たいも分からなくなっているのである。
それを誤魔化すように、彼はささやかな力で膝の上の少女を抱きしめた。
「幸せ、です」
それだけは、心からの言葉であった。
そっと目を閉じて、彼女の繊細さと香りを感じる。
青年の手で撫でているはずの少女の髪は柔らかすぎて、こちらが撫でられているような不思議な心地になる。うなじから香るのはきっと、彼女のお気に入りである花の石鹸だろう。
「一期さん……あのね、一期さん」
すると一期の腕の中でもぞもぞと身じろぐ少女が彼の耳に囁いた。
「今度はね、わたしが一期さんの近くに行っても良いですか?」
彼は驚いて少女の瞳を覗き込んだ。
澄んだ水底の黒のような少女の目に、青年の揺れる蜂蜜の瞳と上気した情けない頬が映り込むのだ。
「し、しかし、これ以上近づいても、何も……」
「ふふ、一期さんったら」
一期はそこでようやっと、
「分かってるくせに」
楽しそうに笑った少女の顔が存外大人びていたことに気が付いたのである。
もしかすると、この心の奥底の熱情は
「……よろしいのですか?これ以上など、私は幸せで……溶けてしまうやも」
己のひとりよがりではなかったのかもしれない、と自惚れそうになって、首をふる。
「そうですね……一期さんが溶けちゃったら、わたしがまた打ち直しますね」
しかし、沈みそうになる彼を引き上げる少女がいたのである。
すると、青年の瞳に映る少女の桃色の頬も、潤んだ瞳も、はにかんだ唇が瑞々しいのも、すべてが熱情の証であるように思えるのである。
「あはは……それなら、安心ですな」
そして、それはきっと確かな証であるのだ。
はあ、と一度息を吐き切って、青年と少女は向き直る。
「……主殿」
一番星が、輝きはじめた。
きっと昼間の白い月ももうすぐ金色に輝くことだろう。
「お慕い申し上げる」
紫色のような紺色のような、言葉にするには少々難しい、そんな空の下でこつりと額を合わせる青年と少女がいた。
「私も」
恋をしただけ、それだけのことを互いに確かめるためにとても長い時間を使ってしまったけれど
「私も、一期さんが大好きです」
もうこの先の、唇を重ねた先の、明日には
温かな幸せがあるだけなのだろう。
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