| 朝鮮の歴史 | |||||||||||||||||||||||||
| 印藤 和寛 | |||||||||||||||||||||||||
朝鮮史のはじまり 朝鮮の歴史は、よく「半万年(五千年)」の歴史と呼ばれます。日本よりもずいぶん古い歴史があるのですから、朝鮮の文化の重厚さもなるほどとうなづけます。また、日本の歴史を考える上で、朝鮮の歴史が切っても切れない関係にあるのも、すぐお隣ですから当然です。
(1)古朝鮮考古学の発掘成果によると、紀元前一千年紀に入るころには、朝鮮北部から中国東北部にかけての地域で青銅器文化が発展し、しだいにひろがっていました。この青銅器文化は、朝鮮独自の特徴を持ち、その遺物、遺跡からすると、ロシア領沿海州、中国山東半島、日本の九州に及んでいます。無文土器 琵琶形銅剣(韓国国立中央博物館) 『三国史記』『三国遺事』(12・13世紀の高麗時代につくられた朝鮮に現存する最古の歴史書)によると、大昔、朝鮮という国が生まれましたが、君主は天から降った神の子と地上の熊の化身の子孫で「檀君」と呼ばれました。その場所は、現在の中国領ハルビン付近とも、白頭山とも、妙香山とも言われ、また、ピョンヤン(平壌)の東の郊外には昔から檀君のお墓だと言い伝えられてきたところがあります。
(2)古代中国と朝鮮朝鮮は古代以来中国文明の大きな影響を受けてきました。『三国史記』によると、殷王朝が滅ぶとき賢人「箕子」が朝鮮へ来て、中国の文明を伝えたとされているのもそのことを示しています。中国が秦・漢古代帝国によって統一されるころは動乱の時代で、朝鮮は漢の武帝によっていったん滅ぼされました。そこに楽浪郡などの四郡(ほかに臨屯・玄莵・真番)が設置され、そのうち楽浪郡が長く残って、後にその南の一部は帯方郡となります。邪馬台国の卑弥呼の使いはここに行ったのです。しかし、このような中国古代帝国の支配は紀元後313年五胡の侵入によって崩れ去り、朝鮮北部から中国にかけては高句麗が強い勢力を持つようになります。ピョンヤンを流れる大同江の南側には遺跡があって、日本の植民地時代に発掘され漢の楽浪郡の跡だとされましたが、これについては現在でもなお議論が続いています。朝鮮の歴史は、日本の植民地時代に独立運動を抑えるため、独自の特徴ある歴史が全く消し去られ、無いことにされてしまいました。それは現在も日本での考え方の中に生き続けています。李朝実学派の歴史観から始まる朝鮮「国学」の伝統をふまえた朝鮮の歴史は、まだこれからその真実が明らかにされていくことでしょう。 *支石墓の分布ヨーロッパでいう「ドルメン」。巨石を組み立ててテーブル状に組み立てた墓。文献で言う古代「朝鮮」王朝(古朝鮮)の時代に、朝鮮北部や中国東北地方を中心にして日本の九州まで広がった、特徴ある古墳の形です。(分布地図)*南北朝鮮、中国、日本にまたがる「支石墓」の分布地図は、『朝鮮をどう教えるか』(解放出版社)に載せていますので、そこで確かめてください。 北方式支石墓(韓国江華島)・(韓国春川市) (問い)歴史の教科書で朝鮮の最初がどう書かれているか調べて、その書き方で朝鮮の歴史がよくわかるものかどうか、考えてみましょう。 朝鮮から日本へ
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| 乙支文徳 |
(問い)隋の煬帝が高句麗遠征の準備を始めた607年と、唐の太宗が高句麗を攻撃した645年に、倭(日本)でどのような出来事があったか調べて、それが当時の朝鮮や中国とどのように関係しているか考えてみましょう。
三国時代の百済と高句麗は、最後には唐によって滅ぼされてしまい(668年)、唐の安東都護府がいったん朝鮮に設置されますが、それはすぐに撤退します。こうして、朝鮮南部は新羅が三国を統一し、北部には渤海が勢力を広げて、ともに貴族文化が栄えることになります。
| *高麗青磁 最初中国の宋の影響を受け、やがて翡翠 色のうわぐすり(釉薬)、象嵌の文様によっ て独自の発展を遂げ、東洋陶磁の美の一 つの頂点を極めた。 |
*高麗版大蔵経 世界のお経を集め、木に彫って出版した。 現在でも仏教を研究する際の基本となっ ており、1251年に完成した八万枚の版 木が伽耶山海印寺(慶尚南道)に保存さ れている。また、高麗時代の仏画や梵鐘 は多数日本に伝えられている。 |
13世紀に世界最初の金属(銅)活字による書物の出版が行われ、以来19世紀に至るまで独自の活字印刷技術が発展して、周辺諸国の人々をうらやましがらせた。(ヨーロッパでグーテンベルクが活版印刷をはじめるのは、15世紀のルネサンス時代のことです。)
朝鮮の活字印刷は、ちょうど近代のタイプ印刷のように、政府の公文書の正式な形式として使われました。従って、大量の印刷物の普及につながった西欧の場合とは違い、限られた範囲の工芸品的な文書や書物の制作に役立ったものです。その技術は近代にまで及び、20世紀初頭にも、美しい朝鮮活字印刷の書物が作られています。
豊臣秀吉の朝鮮侵略の際、この活字は日本にももたらされ、一時日本でも朝鮮活字による本の制作がおこなわれましたが、江戸時代にはこの技術は消えてしまいます。明治はじめ、長崎の本木昌造は、朝鮮の活字をも参考にして、日本で最初の近代的活字印刷を始めることができたのでした。
こうして、新しい社会が形造られようとする機運の中で、将軍の一人李成桂が朝鮮王朝を開きます。
(問い)昔から日本では、「神風」が吹いたことによって「蒙古襲来」を防ぐことができたと言われてきましたが、四十年間をこえる高麗とモンゴルの戦いが、この日本への「元寇」の結果とどのように関係するか考えてみましょう。
安堅「夢遊桃源図」天理大学図書館蔵
朝鮮通宝 世宗時代につくられた朝鮮の貨幣で、良質精巧なことで知られる。
1 集賢殿という役所を設置して優れた学者たちを結集しました。彼らによって「訓民正音」(後の朝鮮文字ハングル)が作られ、発布されます(1446年)。
2 議政府という合議機関の力が低下して、国王が六曹という六つの行政官庁を直接指揮するようになります。
| 現代のソウルの地図 |
3 豆満江・鴨緑江に沿った北部国境領域が確定され、また、南では倭寇の本拠地対馬への攻撃(1419年)をおこなって、中国(明王朝)・日本(室町幕府)とのとの対外関係が整備されます。
4 安堅の絵画・朴堧の音楽が朝廷の人々を感動させます。また、金属活字による印刷もますます精巧なものになっています。
首都漢城のありさまを見れば、川(漢江)を南に見て、北の背後にはけわしい山をひかえ、城壁で囲まれた市街の外側にも、山や谷を取り込んだいくつかの山城をもつ、古代高句麗以来の固有の伝統が生きています。
この時代にはまた、朝鮮独自の農業方式--乾燥農法(dry farming)を主体にしつつ、日本とは違って不安定な梅雨時の降雨をも利用した田植えをもおこなう--が確立し、全土に普及していきました。
*景福宮の宮殿は1592年に焼失しましたが、1870年に再建され、現在もソウルにあります。安堅の絵は、日本の鹿児島で長く伝えられてきており、豊臣秀吉の時期に日本にもたらされたものと考えられます。
| 混壱疆理歴代国都之図(部分) 龍谷大学図書館蔵。右側が朝鮮、 その下の小さな島国が「島夷」日本。 当時の地図から「東国」朝鮮の 自国意識がわかる。 |
国王のもとでの中央集権的官僚国家が、朝鮮でいち早く成立して繁栄したのに対し、当時の日本では、室町時代の一時期を除いては、南北朝から戦国へ、分裂と混乱の時代が続きます。この頃の北九州や瀬戸内の豪族の中には、朝鮮や中国の海岸で「倭寇」と呼ばれる海賊となる人々もありました。
しかし他方、日本海沿岸の豪族や西国各地の大名は、朝鮮の進んだ文物を取り入れようとして、朝鮮の朝廷に朝貢するという形で貿易することを願ったのです。15世紀、十三湊(とさみなと。現在の青森県十三湖)の安藤(安東とも書く)氏と思われる豪族が、みずからは「日の本将軍、夷千島(えぞちしま)王」と名のって朝鮮に朝貢しています。
また、当時は独自の王国だった琉球(現在の沖縄)は、朝鮮とも盛んに交易するかたわら、東南アジア全域との貿易で繁栄していました。16世紀にはいると、やがてそこに、見知らぬ南蛮船--ヨーロッパの船が姿を現すようになるのです。
その頃、16世紀に朝鮮から日本へ「灰吹法」という新しい銀の精錬技術が伝えられ、大森(石見)・生野(但馬)・多田(摂津)などの銀山が栄えて日本は当時世界有数の銀の産出国となりました。
他方、仏教は山の中の寺院で独自に維持されるにとどまり、また、古来の巫(「ふ」。朝鮮語で「ムーダン」、神がかりになって踊りながら神のお告げを人々に伝えるシャーマン)に対する信仰は、女性の間や非公式の場で根強く受け継がれていきます。
このような支配階級は、国王の下での官僚として文班・武班に分かれて仕えることが期待されることから、「両班(ヤンバン)」と呼ばれました。また、「両班」の下には技術者などの「中人(チュンイン)」がおり、一般民衆は「常民(サンミン)」で、さらに下には「賤民」があって、僧侶や巫、白丁(ペクチョン)と呼ばれる人々はそこに位置づけられました。
(問い)韓国の社会、朝鮮人家庭の特徴として、老人・年配・年上の人を敬うこと、公式の場での男性優位(男尊女卑)の傾向を挙げる人がいます。それはなにからくるのか考えてみましょう。
1 朝鮮全土の民衆が山城にたてこもり、「義兵」となって日本側と戦ったこと。各地の「士林」がリーダーとなったのはもちろんのこと、僧侶や女性などの活躍も語り伝えられています。
2 李舜臣(リ・スンシン)の率いる水軍が閑山島沖海戦などで日本水軍を打ち破り、制海権をにぎったこと。朝鮮水軍では、「亀甲船」という新型軍船が活躍しました。
3 中国明王朝が援軍を派遣して北から圧力を加えたこと。
日本軍の中からは、朝鮮の文化を慕って朝鮮側に加わり朝鮮人となった人々もたくさん出ました。沙也可(さやか)という日本の武人が金忠善と名のり、その一族は今も大邱(テグ。慶尚北道)の近くに残っています。
当時、朝鮮の「士林」の優れた精神文化は日本の先進的な知識人にとってはあこがれのまとでした。千利休が山崎(京都府大山崎町)に造った茶室「待庵」には朝鮮建築の影響が大きく、京都の「楽焼(らくやき)」も朝鮮から渡来した工人の手になると言われます。朝鮮の朱子学はこの後藤原惺窩によってはじめて日本に広められ、朝鮮に攻め込んだ日本の武士たちは朝鮮の陶磁器を、書物を、金属活字を、芸術作品を、奪い合ったのです。
鹿児島県苗代川には、この時連れてこられた人々の子孫が日本人となって住んでいて、第14代の沈寿官さんらがそこで「薩摩焼」の伝統を守っています。
耳塚(京都市)
日本武士軍は朝鮮側捕虜の耳や鼻を削いで秀吉のもとに送り、手柄の証明にしました。
亀甲船
妙喜庵茶室「待庵」(外側から ・内側から)(京都府大山崎町)
(問い)司馬遼太郎『故郷忘じがたく候』を読んで感想を述べあってみましょう。
| 宋時烈(ソン・シリョル)像 |
| 鄭夢周 (チョンモンジュ、号は圃隠)像 李漢喆作 |
| 1880年(中国清の年号で光緒6年庚辰)李漢喆が肖像画を写し、洪英植が題を書きました。そこには「員船館にて」や「海隣論世の室」の言葉もあります。 |
父王は問います、「なぜ人や動物をむやみに殺すのか」。王子は答えます、「お父さんが私を嫌っているから、それに、ああどうしたことだろう、いつもしかってばかりいるお父さんがこわくてこわくてたまらない。私はそれで心がおかしくなってしまっている」。
床の穴に寝起きしてうろつく王子も、時には正気に戻って、儒教の古典を暗誦することもあるのです。
父王はついに王子を呼びだし、自殺を迫ります。「私が先に死ねば王朝が滅ぶ。おまえが先に死ねば王朝は救われる。おまえが死ぬ方がよい」。
父王の服のすそをつかんで「早く殺して」と泣き叫ぶ王子を、父王は小さな米櫃(こめびつ)に閉じこめ、二十二日後王子はその中で息をひきとりました。英祖は後にこのことを深く悔やみ、そして、この悲劇の王子「思悼世子」の遺された子どもが、次の国王正祖となったのです。
| 金弘道「水原行幸図」(部分)。18世紀 国王の行列とそれを眺める人々。 |
当時の朝鮮では「常平通宝」という銅銭が大量に流通し、貨幣経済が進みます。租税の取り方も、個人単位に課税するのではなく、土地の面積をもとに徴収する「大同法」というやりかたが全国でおこなわれ、地方には江景・元山・三浪津など新しい都会が生まれ、農民や商工業者の中からも裕福な新興勢力が現れてきます。こうした人々から、科挙を受験して都に上り官僚となる人が多数出るようになります。
ハングルが普及し、パンソリ(朝鮮の楽器に合わせて唱いながらする物語)『春香伝』や『沈清伝』がハングルの書物となって広まります。民衆の間から仮面劇も発達します。
| 『春香伝』刊本 |
『春香伝』は、全羅北道南原(ナムウォン)を舞台に、両班の青年李夢龍と妓生(キーセン)の娘、成春香が身分を超えた愛を貫く物語です。実学の巨匠の一人朴趾源(パクチウオン)は『熱河日記』の中の「両班伝」という小説の中で、両班という身分を笑い飛ばし、痛烈に批判していますが、これらは当時の朝鮮社会の変化を表しています。
| 丁若鏞 |
この頃、国王正祖の厚い信任を受けた大学者の一人が丁若鏞(チョン・ヤギョン。号は茶山。1762-1836)で、実学の最高峰と言われます。
丁若鏞は貧富の差が激しくなった当時の社会に対して、国王のために「閭田(りょでん)制」という農業政策を提案します。「閭」という共同体の人々が一緒に働き、その成果を労働日数に応じて平等に分配するというその考えは、後の西洋の「空想的社会主義」に通じるものとも評価されます。彼は、19世紀に入ると、天主教(キリスト教)弾圧に伴って南部の海岸に流されますが、そこにもまた教えを請う人々が集まったということです。
やがて旧体制の行きづまりから、平安道農民戦争や晋州民乱など民衆の反乱が起こり、その中に、禁止されていたキリスト教や、「人すなわち天」の教義を掲げて新しく起こった「東学」という教えが広まっていきます。まさに、朝鮮の中から、新しい時代に向けた動きが始まっていたのです。
(問い) 『春香伝』の物語を聞いて、朝鮮人なら誰でも知っているこの物語の結末(ソウルで出世して高い地位に昇った李夢龍が国王の命令で地方の政治を監視する暗行御使となり、乞食の姿でソウルから南原にもどって悪代官の屋敷に乗り込み、「このしるしが目に入らぬか」と身分を明かして、とらえられていた春香を助け出す)が、日本のどんなお話に影響を与えたかを考えましょう。
| 毛利藩が用意した豪華船で瀬戸内海を行く朝鮮通信使一行。 |
このことがもつ意義は次の三つです。
1 朝鮮と日本がお互いに完全に対等なパートナーとしての外交関係を持つただ一つの国であったこと。後に、日本が幕末に開国する際には、この朝鮮との関係が、タイクン(大君。将軍は外国に対してはこう称した)と諸外国との外交関係の基準とされました。
2 江戸時代の初期には朝鮮と日本の貿易は巨額にのぼり、朝鮮の木綿(「モンメン」と読む)が大量に日本に輸入され、やがて日本でも国産化が進むこと、また、高麗人参は最高の貴重薬とされ、他方、大量の銀が対価として朝鮮に入ったこと。(年によっては、日本で産出する銀のうち8%が朝鮮に支払われることがあった。)貿易の実務に従事したのは対馬藩の人々で、対岸朝鮮の「倭館」(プサンにあった貿易居留地)と往来していました。後に明治時代になっても、対馬の小学校では朝鮮語が教えられていたのです。
3 毎回400名を越す大使節団が、日本にとっての文化交流の大きな機会になったこと。儒教の国、国王の下の統一王朝国家、学問にもとづく官僚制の朝鮮使節団は、日本の知識人にとっても、庶民にとっても、あこがれと興味、好奇心のまとでした。上下をあげての使節団の見物に、また交流に、人々が殺到したのはこのためです。日本の学者のねうちもこの時の朝鮮人の評価によって定まり、彼らは自分の藩や学派の名誉をかけて競い合いました。
「人参代往古銀(にんじんだい・おうこぎん)」 当時日本で朝鮮貿易専用に特別に鋳造された良質な丁銀(銀80%)
1811年(朝鮮の純祖11年、日本の文化8年)に来日した通信使に対しては、対馬で国書交換の儀式や接待が行われました。
従来からも、通信使の改革を考える動きはありました。日本側が朝鮮使節を首都の江戸まで迎えるのに対して、日本の使節は釜山までしか行かないこと、また、対馬から江戸までの送迎の応接に巨額の費用がかかることがその理由です。
江戸時代後期には、朝鮮・日本とも財政にゆとりがなくなったことから通信使は延期され続けていました。また、日朝貿易が衰退し、財政困難におちいった対馬藩が、自分の藩の中での儀式実施によって幕府のお金を受け取り財政の助けにしようとしたこともあって、対馬での儀式が行われることになったのです。(これを「易地聘礼」と言います。)
朝鮮では、実学のリーダー李瀷が「朝・日の使節がそれぞれ互いに都にまで往来し、無駄やごまかしをはぶくことができれば、気持ちも通じ合い、信頼も深まる」と述べています。しかし結局、雨森芳洲が日本と朝鮮のきずなをしっかりとまもった時代の後、改革はなされないままで終わります。この間朝鮮でも朝鮮独自の考え方を主張する「実学」が発達し、一方日本では、「国学」と呼ばれる日本独自の伝統を重視する考え方が広がりはじめました。
こうして、1811年の後は、1876(明治9)年になって朝鮮修信使が東京に来日するまで、日本と朝鮮の使節往来はとぎれてしまいます。朝鮮も日本もおたがいの事情が分からないままに、新しい時代を迎えることになってしまうのです。
もちろん日本ではその間にペリーがやって来て、幕府は欧米諸外国と国交を結ぶことになりますが、そのモデルとなったのも朝鮮外交の形式でした。一方、幕末には天皇の政治的役割が復活し、「攘夷」の風潮の中で、「皇国」「神国」日本を主張する自国本位の考え方が広まっていきます。
(参考 『近代日鮮関係の研究 下 』朝鮮総督府中枢院(田保橋潔著) 昭和15年)
(問い)学校や自分の町の近くに江戸時代の「朝鮮通信使」のあとが残っていないか調べてみましょう。
(問い)1876年に朝鮮修信使が東京に来たのには、どのような経過があったか調べてみましょう。
もう一度、上の鄭夢周(チョンモンジュ、 号は圃隠)肖像画(光緒 六年庚辰、1880年、李漢喆作)を見て下さい。
| 洪英植 |
1880年のこの年、朝鮮王朝を背負うべき若きエリート洪英植(ホン・ヨンシク)は26歳、また、金弘集(キム・ホンジプ)を正使とする第二回修信使が日本へ派遣され、米国との国交樹立をも模索しつつ、8月11日に釜山へ帰着したばかりでした。(日本では明治13年に当たります。)
国王高宗は、この直後から、新しく統理機務衙門を設置し、洪英植をふくむ「紳士遊覧団」60余人を日本に派遣留学させ、堀本少尉を招聘して新式軍隊「別技軍」を編成、また、技術者や学生38人を清国天津機器局に派遣しました。こうして、「開化」への第一歩が踏み出されることになります。
その中心に、閔泳翊(ミン・ヨンイク)・洪英植・金玉均・朴泳孝(パク・ヨンヒョ)らがいました。
「清の元号」と開化、儒教に基づく東アジアの册封体制―従来の国際関係と近代国家の外交、これらについて、「海隣」の「閔氏員船館」でどのような「論世」が行われたかは明らかではありません。しかし、その彼らの精神的バックボーンこそ、高麗朝の旧臣、「東方理学の祖」鄭夢周なのでした。
(問い)上の閔泳翊は1884年に瀕死の重傷を負いました。洪英植・金玉均・朴泳孝がその後どうなったかについて調べてみましょう。1882年と1884年、1894年のことは教科書にも載っています。
日本の明治維新の時の、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰・西郷隆盛などと比較してみるのもおもしろいでしょう。
参考文献
梶村秀樹 『朝鮮史』 (講談社現代新書)
申采浩 (矢部敦子訳) 『朝鮮上古史』 (緑陰書房、1983)
信太一郎 『朝鮮の歴史と日本』 (明石書店、1989)
梶村秀樹・印藤和寛 『朝鮮史のあけぼの』 (三一書房、1998)
Bruce Cumings 『Korea's place in the sun:
a modern history』 (NewYork:Norton,1997)
Vincent S.R. Brandt 『A Korean village
between farm and sea』 (Harvard University
Press,1971,reprinted by Waveland Press,Inc.,
1990)
辛基秀・仲尾宏 『図説 朝鮮通信使の旅』(明石書店、2000)