【虐殺される同胞を観る日帝植民地下の隣国「新聞報道」-朝鮮日報・東亜日報-】
【工藤美代子・加藤康男『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった』2014年の,虐殺否定を「空想した虚説」】
【安倍晋三「戦後70年談話」に通じる関東大震災虐殺「否定」の立場】
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=「本稿(1)」目 次 =
①「同胞よ,帰ってこい-1923年 朝鮮日報,東亜日報の震災事件報道(上)」(『統一日報』2015年9月2日の解説記事)
②「日本人諸君は静聴深思せよ-1923年 朝鮮日報,東亜日報の震災事件報道(下)」(『統一日報』2015年9月9日の解説記事)
③「関東大震災92周年追念式 虐殺矮小化許されぬ…反ヘイトで講演会」(『民団新聞』2015年9月9日)
④ 支離滅裂「論」だけの「朝鮮人虐殺はなかった」説を唱える工藤美代子-ブログ『工藤美代子/加藤康男「虐殺否定本」を検証する』の解説や批判-
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⑤ 統計数字の初歩的なトリックで虐殺犠牲者数を極小化( http://kudokenshou.blogspot.jp/2015/02/003.html )
1) 朝鮮人虐殺数を減らすためのトリック(工夫)
工藤夫妻(工藤美代子/加藤康男)が書いた『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(旧名『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』)の基本的な主張への批判は,既述 の ④ までにに済ませてある。「朝鮮人暴動は実在した」のだから,これを制圧させるための日本帝国臣民側の対応はあっても「朝鮮人虐殺はなかった」という主張は「手品」に過ぎなかった。
ところが,工藤夫妻は『なかった』のなかでもうひとつおかしな主張をおこなっている。「統計的に考えると,朝鮮人虐殺の犠牲者はこれまでいわれてきたほど多くないはずだ」というものだ(同書第6章「トリック数字がまかり通る謀略」)。「朝鮮人虐殺はなかった」といわずに,虐殺犠牲者数を割り引く説はもっともらしくもみえる。つぎのようにいっていた。
関東大震災では10万人以上が地震やそれに伴う火災によって死亡した。朝鮮人にも地震で死んだ者がいたはずである。だとすると,東京近県(東京府と神奈川,埼玉,千葉の各県)の朝鮮人人口から,「保護検束」「収容」された数と,地震で死んだと推測される数を引いた残りの人数が,殺された朝鮮人の数になる。その数はこれまで言われてきたほど多くはないはずだ。
なるほど一理ある解釈・主張である。工藤夫妻はこの見立てに従って細かい計算を重ね,ついに「殺された “朝鮮人テロリスト” の数は 810人」という結論を導き出した。だが,この説も初歩的な手品でしかない。ここではこの主張のキモ(カナメ)となる最大のトリックだけを指摘しておく。問題は,地震で死んだ朝鮮人の人数の割り出し方である。
地震による死者数が多くなるほど,虐殺による死者数は少なくなるので,これは重要である。工藤夫妻は,地震で死んだ朝鮮人の数を「1960人」と推測する。工藤夫妻は東京近県の朝鮮人人口を9800人としているから,ばかにならない規模の数字である。
そこで工藤夫妻は,地震による死者の多くが朝鮮人が多く住む下町界隈,とくに本所区と深川区で亡くなったと指摘し,両区の日本人の死亡率が15%だから,粗末な住居に住んでいた朝鮮人の死亡率はもっと高いはずだと仮定する。
「そこで,15パーセントより多目の20パーセントを対人口死亡率とし,被災基礎人口9800人に乗ずれば1960人という数字が死者,行方不明者として算出される」 (『なかった』287頁)。これが工藤夫妻の算出方法である。
さらに,関東地方の朝鮮人人口から,収容された(つまり震災直後を生き延びた)朝鮮人の数を引き,さらに刑事事件で明確に被害者とされている233人を引き,さらにこの地震による死者1960人を引くと,「殺された朝鮮人 “テロリスト” は810人」という数字になっている。
虐殺の犠牲者であることが明らかな233人を差し引くのは,彼らは刑事裁判で被害者と認定されているのでテロリストではない,という工藤夫妻の主張による。だが,工藤夫妻が自分で最初に設定した問いは「殺された朝鮮人の数」であり,「殺されたテロリストの数」ではなかった。
さりげないそうした《おかしな操作》は,殺された朝鮮人の数を千人台に上らせたくない意図があるためだと思われる。そもそもすでにみてきたように,殺された朝鮮人がテロリストであるという主張じたい破綻している。工藤夫妻は殺された朝鮮人の数を,確定した233人+推定810人=1043人だと主張していると受けとるほかない。
工藤夫妻の計算に戻ろう。「被災基礎人口」とは,東京近県(東京府・神奈川・埼玉,千葉の各県)の朝鮮人人口(推定)を指している。さて,この説明のなにがおかしいか説明しておく。
2) 工藤夫妻の「計算のトリック(カラクリ)」
関東大震災による死者数は10万5千人である。これを東京近県の当時の日本人の人口約800万人に当てはめれば,一般の死亡率はせいぜい1%超ということになる。なぜ,朝鮮人だけは同じ地域で死亡率が20%にも上るのか。なんらかのトリックが介在していることはすぐに分かる。
カギは,本所区と深川区という地名にある。実はこの両区は,関東大震災時の死亡率の高さで第1位と第3位を占めていた(2位は横浜市)。とくに第1位の本所区の死亡率は22%で,2位の横浜の 6.6%,3位の深川区の 2.4%と比べても突出している(数字は『関東地震(1923年9月1日)による被害要因別死者数の推定』による)。
なぜか。本所区には有名な陸軍被服廠跡があって,ここで3万8千人が火災旋風によって命を落とした。関東大震災全体の死者・行方不明者10万5千人のうち,36%が本所区で亡くなっていた。
つまり工藤夫妻は,この両区の突出した死亡率を関東全域に拡大して当てはめ,関東全域での地震による朝鮮人死者数を「推測」するという「計算」をおこなっている。つまり,極端に,地震を原因とする死者数を増大させているゆえ,これはメチャクチャな話である。
実際には「関東大震災」といっても,地震・火災による死者を多く出したのは東京の中心部と横浜市だけである。関東全域で15%とか20%の死者が出ていたら,日本人の死者数だって10万5千人では済まない。
たとえていえば工藤夫妻の計算は,東日本大震災時に津波によって大きな被害を出した陸前高田の数字を東日本全域の人口に当てはめて,東日本大震災全体の死者数を「推測」するようなものなのである。
工藤夫妻は,地震による死者を多く出したのが下町界隈だったことや,下町には他の地域に比べて相対的に朝鮮人が多かったという,それじたいは疑いようのない事実に読者の注意を向けさせて,計算のおかしさに気づかないようにしておき,このトンデモな数字を読者に信じさせることに成功している。
工藤夫妻はほかにも,死者数を割り引くために,細部にわたってチョコマカと,おかしな設定や条件を計算に紛れこませている。計算してみたところでは,朝鮮人の地震による死者数は100人から,どんなに多く見積もっても500人以下である。そうなると,工藤夫妻の主張に反して,「朝鮮人虐殺の犠牲者は数千人」というこれまでの通説は十分に成り立ちうる。
--以上,工藤夫婦が関東大震災直後に発生した朝鮮人被虐殺者数を算出・推定する方法(トリック)に関しては,まず「結論さきにありき」の基本姿勢でもっておこなわれている。このことを最初によく踏まえておく必要がある。
あとはこの意図に即して,できるかぎり無理やりにでも押し通せる範囲内で,その犠牲者数を最小化していく努力ばかりを必死になって工夫していた。
はたでみていても,それはそれは,涙ぐましいまでの必死の努力であった。しかし,なぜそこまでして,関東大震災直後に発生していた朝鮮人虐殺事件の歴史的な意味を,その犠牲者数の面から故意に緩衝させたいのか,不思議なくらいに不自然であった。
⑥ 出版物として許されないルール違反を乱発( http://kudokenshou.blogspot.jp/2015/01/004.html )
1) 文献引用・参照のデタラメ:その1
工藤夫妻(工藤美代子/加藤康男)が書いた『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(旧名『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』)は,至るところに細かいトリックをしかけている。本来,出版物として許されないルール違反をおこなっている箇所もある。
もっとも問題なのは,史料の引用に際して(略)とも示さずに内容の一部を,こっそり省略していることである。朝鮮人暴動実在の証拠という文脈で引用されている史料16本の引用に限っても,そのうち7本で「こっそり省略」をおこなっている。そこでは(略)と示されていないために,原文と照合しないかぎり分かりえない「内容が隠蔽」されている。
しかもそのことを,なんと凡例では「(略)と記した箇所以外にも読みやすさや紙幅の関係から省略した部分がある」と,あらかじめ居直っている。こんな凡例はみたことがない。「紙幅の関係」であれば(略)とだけ明記すればよいことである。
それだけではない。なかには,原文では噂の話をその省略によって事実と誤読させたり,朝鮮人への迫害の場面を省いたりして,原文の論旨を完全にねじまげているところもある。長くもない引用中に(略)の箇所と「こっそり省略」の箇所とを合計8箇所も入れてあったり,ブツ切りにした段落もある(→ 147頁。孫引き元とおぼしき『現代史資料6』177頁の原文とつきあわせてみよ)。
もはや「改変」と呼んでもいい事態である。論争的な歴史ノンフィクションで引用の原文を(略)と明示せずに省略するなどありえない作法である。さらには,権威のある資料を「出典」として文末で示しつつ,しかしその実のところでは,原典にまったく書いていないことを書き連ねてもいる。たとえば,『なかった』336頁において工藤夫妻は,以下のように書いている。
「ところで,こうした上海仮政府と地下水脈で通じていたテロ集団にも,路線をめぐる党派争いがあった。2) 他著が書いてないことを「書いていると書く」工藤夫妻:その2
その結果,集団はいくつかの分派に分裂しながら,個々にテロ計画を練って日本内地襲撃を狙っていたものと考えられる。だが,いずれの分派も目標日の第1は摂政宮の御成婚当日,それも摂政宮そのものを目標としていた。
ところが,分派それぞれの事情から,資金や実行部隊の確保,逃走ルートの確認等の準備がばらばらで統一を欠いていた(坪江汕二『朝鮮民族独立運動秘史』日刊労働通信社, 1959年)」。
上海仮政府とは上海に拠点を置いた朝鮮独立派の臨時政府のことであり,摂政宮とは当時の皇太子,のちの昭和天皇のことである。中国に拠点を置く朝鮮人抗日組織各派が,それぞれに摂政宮襲撃の準備を進めていたというのである。『朝鮮民族独立運動秘史』(以下,『秘史』)という本にそう書いてあるという。
その『秘史』は,朝鮮総督府の治安官僚をつとめた坪江汕二が戦後に書いた非常に史料的価値の高い本である。その本のなかに,朝鮮人抗日組織が関東大震災前後の時期に摂政宮襲撃に向けて準備していたと書いてあるという。ところで,この点は本当か。
だが実は『秘史』にはそんなことはまったく書かれていない。関東大震災に言及しているのは1箇所だけだ。「関東大震災の報道は,とくにかれら(満州の朝鮮人抗日組織各派)に誇大に伝えられ,これを契機として日本の国力の後退を夢想し,運動戦線の統一と強化をはかろうとする気運が強まっていった」という一文が,そのすべてである。その前後にも,摂政宮襲撃だの逃走ルートだのという話はまったく出てこない。
出典が明記されていても,その内容が本当に原典に書いてあるとは限らないというのでは,いったい,なにを信用して本を読みすすめればいいのか。ルール違反もここまで来ると,これをそのまま販売しつづける版元の見識の問題にまでなる。
そもそも,ペンネームが変わるというのではなく,著者そのものが交代するなどという話も前代未聞である。しかも,後書きで「取材・執筆を共同でおこなってきた関係から」著者名義を変えたなどという,ほとんど意味をなさないいいわけがなされているだけで,この著者交代についてなんの説明もない。
出所)画像はタバコ大好きな小谷野敦,http://matome.naver.jp/odai/2140559720112428401/2141905877924819803
3) そのほかの稚拙さ
この本には,トリックというより単なる稚拙な誤りも,きりがないほどにたくさんある。
a) 東京・音羽町を舞台にしたエッセイを横浜の話と思いこんで繰りかえし言及する(『なかった』57頁)。
b)「50本の巻きタバコが入る箱くらいの大きさの爆弾」という意味の原文を「爆弾50個」と読み変える(343頁)。
c) 中国の安東県(現在の丹東市)を韓国・慶尚北道の安東市と誤解する(同上。この点は中国や朝鮮・韓国に関する基礎知識の欠落を意味する)。
d) 中国に存在する朝鮮人抗日組織が震災後の9月19日に朝鮮でのテロの準備を始めたという〔あとの情報である〕特高情報を,その3週間前の9月1日に彼らが東京でテロを「おこなった」〔さきに挙げられる〕証拠として,かかげている(344頁)。
⑦ まとめ-工藤美代子・加藤康男コンビのマジックショー,その役割は「犯罪的」としかいいようがない-( http://kudokenshou.blogspot.jp/2015/01/005.html )
以上にように,この本,工藤夫妻(工藤美代子/加藤康男)『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』は,いくつかのトリックを組みあわせただけの中身なのであって,これをきちんと検証してみれば,誠実に受け止めるべき発見がなにひとつない。
しかし,こんな本であっても,悪しき政治的な役割は十分に果たしてきた。ネット上では,工藤夫妻にならって震災直後の「朝鮮人暴動」記事の画像をアップしては「朝鮮人が暴れた証拠だ」と叫ぶネトウヨがあふれ,事情をしらない人を迷わせている。
ネット上には,関東大震災直後に発生していた「歴史の事実」=「朝鮮人虐殺を否定する妄言」が大量に流通している。だが,そのほぼ唯一のネタ本が,加藤康男著『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった!』(WAC,2014年)である。
旧版,工藤美代子名義の『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』を出した産経新聞は,これを活用して震災時の虐殺についての歴史教育を攻撃するキャンペーンを張り,東京や横浜の教育委員会は実際にそれに屈してきた。
負の歴史もまた,私たちの社会の大事な財産である。目先の気持よささえ追求できればなんでもいいという考えで歴史的事実をねじまげ,オカルト・レベルの陰謀史観に置き換える行為ほど,日本の歴史を軽んずるものはない。
日本の歴史を安っぽい漫画レベルに塗り替える行為は,漫画のような安っぽい政治と社会をつくることにしか貢献しない。その先にあるのは亡国である。
ましてや,工藤夫妻のマジック・ショーの目的は,被害者を加害者に仕立て,犠牲者の数を不正な手段で割り引かせようとするところにあり,とうてい許しがたい。産経新聞がユダヤ陰謀論を主張する本の広告を載せたことについて謝罪したそうだが,一方でなぜこのような本を出版して恥じないのか。
関東大震災直後に発生した朝鮮人虐殺の問題については,その犠牲者数の論点も含めて,こういう説明がその歴史的な本質を理解するためにも必要である。
在日朝鮮人の被害者数はよく分からない。公的機関が調査を怠ったというだけでなく,妨害までしたからである。⑧ 安倍晋三「戦後70年談話」に侵略の文字を入れさせるのに苦労した北岡伸一国際大学学長
一般に,その死者数は6000余といいならわされている。上海在住の朝鮮独立運動家・金 承学の,事件直後における決死的な各地調査の累計数が6415人に達しているからである。
当時,東京・神奈川だけで,ほぼ2万人の朝鮮人がいた。事件のあと,当局は,朝鮮人保護のためとして徹底した朝鮮人の「全員検束」をおこなった。
この粗暴な検束の対象として確認された人数が関東一円で1万1千人である。少なくとも,九千人が姿を消している。これが,殺害された人数である可能性があるという。
一部犯罪者傾向のある少数者の偶発的犯罪ではない。恐るべき,一民族から他民族への集団虐殺というほかはない。なにゆえ3世代前の日本人(私たち)が,かくも朝鮮人に対して,残虐になりえたのだろうか。
当時,「混乱に紛れて,朝鮮人が社会主義者と一緒に日本人を襲撃しに来る」「朝鮮人が井戸に毒を入れてまわっている」「爆弾を持ち歩き,放火を重ねている」などの,事実無根の流言飛語が伝播し,これを信じて逆上した自警団が,朝鮮人狩りに及んだとされている。ではなぜ,そのような流言が多くの人の心をとらえたのだろうか。
歴史的には,朝鮮併合が1910年,最大の独立運動である3・1事件が1919年である。3・1事件には,200万人を超える民衆が参加し,7500人の死者を出す大弾圧がおこなわれた。
関東大震災が発生した1923年は,多くの日本人にとって,朝鮮独立運動の記憶生々しい時期に当たる。「不逞鮮人の蜂起」「日本人への報復的加害」の流言飛語は,それなりのリアリティをもつものであった。
註記)「震災時の朝鮮人虐殺から90年」『澤藤統一郎の憲法日記』2013年9月1日,http://article9.jp/wordpress/?p=1102
--「『朝鮮人虐殺はなかった』はなぜデタラメか-関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネット上の流言を検証する-」が『20分でわかる「虐殺否定論」のウソ』という題名でもって,工藤美代子・加藤康男風に料理・改作された「朝鮮人虐殺を否定」論を批判している。
註記) http://01sep1923.tokyo/lies-in-20min/はじめに忙しい人のために5分で説明/ この記述の参照も勧めておきたい。
ついでに上記の文章からは,こういう段落も引用しておく。つぎの ⑧ にも関連していく内容がある。
もうひとつ,紹介しておきましょう。
「東京は無政府状態に陥り,そのなかで朝鮮人が井戸に毒を入れたなどというデマが広がり,多数の朝鮮人が殺されるという悲劇が起こった。その数は千を超えるといわれている。治安維持のため,戒厳令が布かれたが,責任を果たすべき警察や軍隊が違法な行動をした。朝鮮人のほかに多くの中国人も殺された」(北岡伸一『日本の近代5 政党から軍部へ 1924~1941』中央公論新社,1999年)。
出所)画像は,http://www.tv-ranking.com/detail/34473.php
北岡伸一さんも東大名誉教授で,保守系の歴史学者として有名な人です。最近では,安倍首相の肝いりでつくられた「安保法制懇」で座長を務め,集団的自衛権行使容認のために粉骨砕身していたことが記憶に新しいところです。こちらでは,その後の研究を反映して,軍や警察の責任についても言及しています。
保守派(右派)の学者としてはほかに,有馬 学・九州大学名誉教授が『「国際化」の中の帝国日本』(中央公論新社)の中で,防衛大学学長を務めた猪木正道・京大名誉教授が『軍国日本の興亡』(中公新書)の中で,鳥海 靖・東大名誉教授が『もう一度読む山川日本史』(山川出版社)の中で,それぞれ朝鮮人虐殺に言及しています。リベラル派・左派の学者についてはいうまでもないでしょう。
要するに歴史学の世界では,「関東大震災時に多くの朝鮮人がデマによって殺された」ことじたいは,右翼とか左翼といった政治的立場を超えて,誰も疑うことのできない「常識」なのです。(殺された人の数や行政の関与の度合いについての認識は幅があるでしょうが)。
註記)http://01sep1923.tokyo/lies-in-20min/article1/
1) 身の程しらずにも「戦後70年談話」
2015年8月15日「敗戦記念日」,安倍晋三首相が発表した「戦後70年談話」のなかには,侵略ということばが入っていないわけではなかった。
だが,安倍は当初,このことばを入れるのを非常に嫌がっていた。この1点の意味は,関東大震災を契機に発生した朝鮮人大量虐殺事件において殺戮行為がなかったかのようにいいたがる,そして,それが実際にあったとしても「暴動を起こしたから殺されたに過ぎない」のだ〔それでも大問題であるが〕というふうに,改竄していたヘリクツにまで通底する内実がある。
従軍慰安婦問題に対する安倍晋三の立場は,以上の指摘がもっと端的に当てはまる歴史的な話題となっていた。この慰安婦問題には「強制性などなかった」といいはるのが,安倍の立場であった。またそれゆえに,この問題に関して,日韓両国間での「歴史の深刻な問題ではない」と強弁するところまで,つっぱしっていた。
要は,安倍晋三自身が認めたくない「歴史の問題」は,もともと「存在しなかった歴史」だといいはる。彼はそういった態度に終始してきたに過ぎない。
さて,安倍「戦後70年談話」は,明治以来の日本帝国はいいこともやってきたという観点に拘泥している。
百年以上前の世界には,西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が,広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に,植民地支配の波は,19世紀,アジアにも押し寄せました。これはまるで,司馬遼太郎『坂の上の雲』の政治家版である。ただし断わっておくが,司馬は生前,この『坂の上の雲』だけはテレビ劇画化させない決心していた。
その危機感が,日本にとって,近代化の原動力となったことは,間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て,独立を守り抜きました。日露戦争は,植民地支配のもとにあった,多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
出所)http://www.geocities.jp/pilgrim_reader/confront/angle_2.html
ところが,遺族がNHKに押し切られてしまい,この国営放送局用の「動く紙芝居」として脚本化されていた。いうなれば「全国民的的な明治理想物語」の番組制作・放映に向けて悪用されていた。
韓国・朝鮮や中国にとって「日露戦争は,植民地支配のもとにあった,多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけまし」といったいいぶんは,日本〔帝国〕に人間:政治家が「なにを寝言をいっているか」という反発しか起こさない。
日露戦争のときまですでに韓国(大韓帝国)は,日帝の植民地にされる道程に追いやられていた。だから,安倍晋三のように「司馬〈亜流〉の稚拙なアジア史観」を誇らしげに唱えるのは,韓国・朝鮮や中国から猛烈な批判を招来させるだけであって,実に愚かな発言であった。
アジア諸国にとって大東亜戦争(広くは15年戦争とかアジア・太平洋戦争とも呼称される)は,日本軍が侵略してきて軍政を敷き,統治・支配していた戦争の時期であった。安倍晋三の口から吐き出されていた文句は,アジア諸国がいったい,どのような目に遭わされてきたかという「歴史の事実」の展開とは無縁のものであった。
その意味では「日露戦争は,植民地支配のもとに〔日本の敗戦以降まで〕あった,多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました」という決まり文句は,二重の意味で倒錯している。安倍の独りよがりな,それも「アジア史無理解」だけが鮮明になっていた。
念のため断わっておくが,a) ベトナムは現在,日本に対して親日的な雰囲気をもっているが,これは,戦後過程において日本が政府開発援助(Official Development Assistance, ODA)を,盛んにおこなってきたこのよい効果の現われである。そもそも第2次大戦中,日本はベトナムにどのような仕打ちをしていたか。
大東亜戦争において1944年10月から1945年5月の時期であった。日本軍が軍事的に支配したベトナム北部に大規模な飢饉が襲った。40万人から200万人もの餓死者を出したといわれる。また,b) 最近におけるフィリピンの対日関係姿勢は,中国の海洋侵出に対応できる警備力・軍事力を皆目もたないがために,日本と集団的自衛権関係までを期待するまで困窮した,フィリピン側における国際政治情勢を反映させていることをしっておくべきである。
旧日本軍は,配給用の米をベトナムから略奪し,そのうえに軍事物資の麻の栽培を強制してベトナム人約200万人を餓死させたのである。1944~1945年におけるベトナムの人口は 2,500万人近くであったから,人口の10分の1近くが,日本軍の飢餓軍政によって殺された。
とくに1944年の冬が記録的な厳寒になったために,死者が増大する原因にもなっていた。日本の軍政は戦局の悪化に気をとられ有効な対策をとらなかった。
参考文献)早乙女勝元『ベトナム “200万人” 餓死の記録-1945年日本占領下で-』大月書店,1993年。
旧日本軍が第2次大戦時,アジア地域で人びとを殺してきた実績は,ベトナムだけではない。その戦争ために百万人単位で犠牲者を出した国家として,フィリピン以外に中国(千万人以上だが)・インドネシア・インドがあった。
2) 安倍晋三の本心
「安倍戦後70年談話」は,「旧日本帝国は侵略などしていない」〔米欧帝国主義諸国のほうこそアジア・アフリカを侵略していたじゃないか〕といった本心を,隠そうにも隠せないような文句を連ねた見解を作文していた。しかも,これを「〈談話〉という形式」でもって公表した。そうした創作になる文章では結局,その「お里がしれてしまう内容」以上にはなりえない。
要は,東京裁判史観を認めたくないこの国の首相である。その割りには,ポツダム宣言をろくに読みこんでいないと告白していた。それでいてこの人は,なにをいってもしょせんは「戦後レジーム」を否定するといいながらも,実際のところではそれを少しも排除できていなかった。
安倍晋三はその程度に限定された歴史理解に埋没している自分自身をまともに意識できていない。にもかかわらず,自分自身の上っ面だけでは,21世紀の現在に向けてなにかをいったつもりでいる。いずれにしても「帯にもタスキにも短し」のような器量=政治家として力量(本領)しかもちあせないのが,この日本国の首相なのである。
アジア諸国にとって日本帝国主義は,大東亜戦争の初期だけでも観察・回顧すればすぐ分かりうる特質でもあったように,米欧帝国主義諸国にとって替わって登場した〈亜流・強盗帝国主義路線〉のモノまねに過ぎなかった。
安倍晋三の立場においては世界史の基本認識からかけ離れた発想がめだつ。第2次大戦が起こらなくとも,いつかはアジア・アフリカ諸国は,独立へ立ち向かうほかない道程を歩んでいったはずである。
仮に〔歴史にイフないけれども〕,大日本帝国が第2次大戦に勝利していたら,この地球のアジアの広い地域に「生き神様である天皇裕仁が支配者となった大野蛮帝国地帯」が実現したかもしれない。しかし,そのときはそのときであらためて遅くない日に必らず,この日帝に対する独立運動が起きてくる「歴史の必然的な経緯」が予定されていたはずである。
そもそも,立憲主義の政治理念など平然と無視し破壊している最中である〈いまの安倍晋三〉に,旧大日本帝国は「アジアで最初に立憲政治を打ち立て,独立を守り抜きました」などと聞かされた分には,第3者の片腹まで痛くなる思いにさせられる。悪い冗談はたいがいにすべきである。
最後に総合雑誌『世界』最新号・10月に掲載されていた諸論稿になかには,安倍「戦後70年談話」が「つぎのようにいっていた段落」が,
なんと6カ所で〔もちろん異なる何人かの寄稿者たちの文章中で〕紹介されていた註記)。もちろん,安倍晋三が用意した談話のなかでもとくに問題ありの段落だとして紹介されていたのである。要は,ヴァイツゼッカー大統領の文句を,ただ底も浅く,物まね・流用したものであった。日本では戦後生まれの世代がいまや,人口の8割を超えています。あの戦争にはなんらかかわりのない,私たちの子や孫,そしてその先の世代の子どもたちに,謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。
しかし,それでもなお,私たち日本人は,世代を超えて,過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持で,過去を受け継ぎ,未来へと引き渡す責任があります。
註記)『世界』2015年10月,49頁,60頁,66頁,75,80頁。
ヴァイツゼッカーの演説『荒れ野の40年』(1985)についてはその全文を一読すればすぐに感知できることだが,安倍晋三によるその「流用的な密輸入の部分」が,「いかに軽薄な意味あい」しかもたないかを感得できるはずである。
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