ぼくが大学生じゃなくなってから、早いもので2週間が経ちました。
晴れてこれから社会人。今はいちばん自分と向き合わなくちゃいけない時期なのに、ぼくは自分の未来に目を背け続けています。
ひたすらにブログを書き続けることが自分と向き合うことだと思っていたけど、そうじゃない。
ぼくはただ止まるのが何よりも怖いと思っているから、ここ最近はただひたすらにブログを書き続けていた訳で。
前に進み続けているように見えて、実際は同じ場所で足踏みを続けているだけでした。
ちょっと立ち止まって、ぼくが今いる場所を改めて確認してみると、ぼくは一歩も進んでいなかった。
ただ、キーボードを打つ手が止まることが怖かっただけ。
これじゃあ単純に自分と向き合うことから逃げているだけだし、それを続けてもぼくは何も変わっていけないよ。
ふと、こんなことを思ったので、ぼくは一度立ち止まって自分と向き合う時間を作ることにしています。
今は色々な理由があって本当に気が気じゃないんだけど、正直ちょっと面倒臭いとも思っているんだけど。
一日にほんの少しの時間でも、ただ足踏みしながらブログを書くことはやめて。
自分と向き合って、今の自分が考えていることを紙に書き出してみる。
その過程で思ったこと。
ぼくにとっての洋服って?
ぼくはどうしてこんなに洋服が好きなんだろう?
どうしてこんなにたくさん洋服を買ってしまうんだろう?
ぼくはぼくと向き合ってみると、やはりいちばんに出てくるのは洋服に関すること。
ぼくの人生において、洋服がそれだけ多くの割合を占めているのはどうしてだろう?
その理由を、ぼくは自分と向き合いながら探ってみました。
今感じていることを全て紙に書き出して、嘘偽りなく。
すると不思議なことに、ぼくが洋服を好きな理由がだんだん、明確になりました。
そして、自分が真っ白な紙に書きだした答えを見て感じた。
ぼくがこの先、自分と向き合って真に成長していきたいのであれば、ぼくはもう洋服を買うべきじゃないのかもしれない。
これまでずっと洋服が好きだったけれど、もう洋服を好きでいることは辞めた方がいいのかもしれない。
自分でも驚くことに、こんな答えが出てきました。
ぼくにとっての洋服って。
今日は、そんなぼくの内側に迫った記事を、ありのままの気持ちで書いてみたいと思います。
ぼくにとっての洋服ってどんなもの?
最初にぼくがぼくに問うたこと。
「ぼくにとっての洋服ってなんなの?」
これに対する答えが、3つほど出てきました。
・自分をカッコ良く見せてくれるもの
・自分に自信を与えてくれるもの
・その日の気分を上げてくれるもの
もちろん趣味のひとつでもありますが、ぼくが洋服を好きな理由は主にこの3つ。
ひとつひとつを見てみても、これらの理由は全て矢印が自分の内側に向いています。
例えばこれが「女の子にモテるため」だったなら、その矢印は外側に向いていることになると思うんです。
なぜなら洋服を着る理由が外的要因にあるから。
ぼくのそれは、不思議なことに全て内的要因から来るものでした。
もちろん「女の子にモテるため」も、数パーセントはあるんだろうけど。
好きの理由が内側に向いているのは、自己肯定感が低いから
で、ぼくが洋服を好きな理由はどうして全て内側に向いているんだろう?と考える。
そうしたら、その答えはすぐに出てきました。それはもう考える必要もないくらいすぐに。
ぼくが洋服を好きな理由が内側に向いているのは、ぼくの自分に対する自己肯定感がものすごく低いから。
この理由に限ります。
前にも何度かこのブログでも書いたことはありますが、ぼくは自分を認めてあげる気持ち・・・自己肯定感が圧倒的に低いです。
何をしているときも自分を許してあげることができない。
自分の行動にも自信を持てず不安になるし、自分のことが嫌いなのかもしれません。
特別、自分の顔が嫌いとかじゃないのは確かです。
むしろぼくは自分で自分のことを「超フツメン」だと思っているし、ごく普通な顔立ちに嫌気が差したことはありません。
というか顔じゃない。
自分の内面を許せなくて、その上自信を持てない。
自分の行動には本当に自信を持てなくて、いつも不安な気持ちを抱えています。
ブログを始めてからはいくらか他人の目を気にすることは減ったけど、いくらかマシにはなったけれども。
どれだけ人に褒められても、どこか自分を認めてあげることができない。これはどうしてなんだろう?
ぼくが洋服を着るのは、自信の鎧をまとうため
ぼくは洋服が大好きです。
大好きな洋服を着ているときだけは、自分のことを少しだけ好きになれるから。
部屋着でいるときよりも気分が少しだけ上がって、自分に自信を持てるから。
それでも、ぼくにとってはお気に入りの洋服を着ているぼくよりもカッコ良く見える人がいる。
ぼくには、洋服に興味すらなくても、自分に自信を持って堂々としている人の方が100倍カッコ良く見えるんです。
例えその人の服装が死ぬほどダサくても。
自信に満ち溢れている人ほどカッコいい人はいない。
そこに容姿や服装なんて全く関係なくて、あるのは自己肯定感の高さだけ。
こんなことを、ぼくは自分に自信を持って胸を張りながらイキイキしている人に会うたび思っていました。
そして、そんな人に会うたび感じていた違和感の正体が、ついさっき自分と向き合って考えたことで浮き彫りになった。
自分に自信を持っている、自己肯定感の高い人は例え裸であっても自信という頑丈な鎧を身にまとって生きている。
けれどぼくにはそれがない。
だからぼくは、それをカバーするために必死で洋服を着ているんだ、と。
ぼくは自分に自信がないから、お気に入りの洋服という鎧に力を借りて外を出歩いているんだ。
自分に自信がある人が持つ鎧の頑丈さと、自分に自信がないぼくとの差を埋めるために洋服を着ているんだ、と。
ぼくは自信という鎧を持っていないから、洋服を着てその力を借りているに過ぎないんです。
洋服という仮の鎧をなんとかまとって生きている。
人が本当に身に付けるべき、自信という本当の鎧をぼくは持っていないからだ。
洋服が好きなぼくだから、洋服好きを辞めるべきなのかもしれない
実を言うと、今までもその事実には薄々気付いていました。
それでもぼくは自分から逃げ続けていた。
というか、「自信がないなら洋服にそれを借りればいいじゃん」と思っていました。
けれど今回、改めて自分と向き合う時間を取ってみて感じたこと。
この先ぼくがもっと自分を高めていきたいのなら、強い人に成長したいなら。
もうぼくは洋服という仮の鎧に頼ることは辞めた方がいいのかもしれません。
洋服にある程度の力を借りるのはいいけれど、これから先もそれに頼り続けるのは少し危険かもしれない。
ちょっと、今のぼくは洋服に依存しすぎている気がしているんですよね。
自分に自信を持つ方法はたったひとつで、他人から認めてもらう経験を積み重ねること。
ぼくはその経験が少ないから、大好きな洋服から自信を借りています。
洋服を好きな理由の矢印こそ内側に向いているけれど。
やっぱりおしゃれをするからにはどこか周りに認めて欲しい思っている気持ちがあるのも事実です。
でも、おしゃれな格好をして周りに認めてもらおうとしたところで、それには終わりがない。
なぜならそこで評価されているのは外見であって、それを追求し続けるなら一生服を買い続けなければならないから。
これって裏を返せば、自分自身に自信を持てるようになれば洋服を買う数って劇的に減ると思うんですよね。
洋服という仮の鎧に頼る必要がなくなって、自信という本当の鎧さえあればそれで十分だから。
ぼくが周りに流されながらフラフラと生きるなら、洋服の力を借りたままでいい。
けどぼくは違う。ぼくは自分の意思で自分の人生における決断を連続的に下し続けながら生きていかなければならない。
というか、そうやって生きていきたい。
安定なんてクソくらえで、不安定だって自分の人生を自分で決めたという満足感を持ちながら生きていたい。
それなら、そんな厳しい道で戦っていくのに洋服という鎧はもろすぎる。
自信という真の鎧を持っていないと、この先の人生においてぼくの成長はないものだと思うんです。
だからぼくは、もう洋服に自信を貰う選択を辞めるべきなのかもしれない。
何よりも洋服が好きなぼくだけど、ぼくはもう洋服という趣味を手放すべきなのかもしれません。
自分と正面から向き合って、服装ではなく自分を変える
自分に自信を持っていれば、洋服を買う数は劇的に減る。
これは絶対に本当だと、ぼくは信じています。
ぼくはこれから、もっと自分自身を認めてあげる、そして認めてもらうために生きていかなければなりません。
じゃあ自分自身を認めてもらうためにはどうすればいいか?
それはもう、いくら掘り下げたところで他人に認めてもらう経験を増やすしか方法はありません。
じゃあ他人に自分を認めてもらうには?
これも他に選択肢はなく、積極的に新しいことに挑戦して結果を出すこと。
そのために最初の一歩を踏み出す勇気を振り絞ること。もう本当にこれしかない。
来月の頭、ぼくは友人と一緒にヒッチハイクで旅行することを決めました。
これをやる本当の理由も、ぼくが自分自身を認めてあげるため。
そして他人に認めてもらう結果を出すためなのかもしれません。
とにかく今のぼくに必要なのは、新しいことに挑戦するために必要な最初の一歩を踏み出す勇気を振り絞ること。
そのためには、その道を選ばざるを得ない状況に自分を追い込むことが必要です。
他の選択肢をなくしてしまう。いうなれば、洋服に自信を借りるという選択肢をなくしてしまうのもひとつの手。
今年に入ってからぼくがやたら洋服を買うようになったのは、いよいよ1人暮らしを始めた背景があったからかもしれません。
ついに実家を出て独立し、大学を卒業して就職もしない。
自分の人生を自分で決める必要があったそのときに、ぼくは自信がなくて洋服を買うことで逃げていた。
裸の自分で戦うことをせず、洋服の鎧を身にまとって本質から目を背けながら生きてきた。
最近のぼくが自分で自分のことを思考停止しているなと感じる原因も、おそらくここにあるはずだ。
だから決めた。
ぼくは一度、洋服を買う数を減らしてみることにします。
そしてとことん自分自身と向き合う。物理的には無理だけど、自分とひざを突き合わせてとことん向き合う。
持っている洋服も、本当に気に入っているもの以外は。
生活に最低限必要な量を超える分は手放してみようかな。
ぼくはこの記事を公開した翌日(3月30日)からクラウドファンディングに挑戦します。
クラウドファンディングに挑戦するのと同時に、自分の服も何らかの方法で売って、それも活動資金に充てていこう。
一度、洋服を大量に買う癖をやめてみる。
それでもって、本当に好きな服と必要な服以外を手放してみる。
自ずと裸の自分自身に直面せざるを得ない環境に自分を追い込んだら、ぼくは変わっていけるかな?
ここにきて、最近ぼくが頭の中でうっすらと「私服の制服化」を企んでいた理由が明確になってきました。
私服の制服化とは文字通りで、私服を制服のように着ること。
例えそれが全く同じ服であろうと、本当に気に入った服であれば苦にはなりません。
もちろん衛生面も考えて、ずっと同じ服を着る訳じゃなく。
あくまで同じデザインの服を複数買ってそれを着回すって話です。
洋服を変えるんじゃなく、自分を変える。
私服の制服化をしたら、自ずと自分自身とシンプルに向き合うための環境に身を放り込むことになります。
そこでぼくは自分を変えることができるかな?
ぼくにとっての洋服って。
現時点での結論は、「ぼくに自信を与えてくれるもの」という位置付けです。
それが、洋服から離れることでどう変わっていくだろう。
ぼくは、一度服好きを辞めるべきなのかもしれません。
完全に辞める必要はないけれど、今はちょっと洋服に依存しすぎているのかな。
少しだけ洋服と距離を置いて、自分自身と向き合う機会を増やしていこう。
ぼくにとっての洋服って。
本当の答えは、自分と徹底的に向き合った後で浮かび上がるのかもしれません。