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枢軸特急トルマリン=ソジャーナー 異世界逗留者のインクライン 作者:リーフレット

第二巻 彗星発、永劫回帰線

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千億光年の夜景(ア・バード・ビューズ・ナイト)⑨

 ■ 蜂狩大空襲

 祥子が呼び込んだ宇宙規模の陰気は、地下に埋もれた彗星の破片と共鳴し、都市直下型地震を誘発した。山王駅周辺では電線が波打ち、ビルの外壁が剥がれ、ガラスの破片がは勤通学中の人々に降りそそいだ。地震の規模はそれほど大きくないが、蜂狩山系の構造上、揺れが震度五程度に増幅される。この付近は百万年前まで低い丘だった、そこに東西方向から強い圧力が加わった。造山運動の結果、蜂狩山脈は隆起し、大阪湾が沈降した。蜂狩山の大部分は硬くて安定した花崗岩で出来ているが、褶曲により破壊されて脆くなった。そして長年の浸食作用によって砂山のように崩れやすくなっている。山の天気は変わりやすい。地震の影響か黒雲が広がっている。続けざまに縦揺れが襲う。ついにオタフク岩が軋みはじめた。

「ぐずぐずしていると崩壊するわ」
 ハーベルトは脱線したままTWX666Ωに近寄り、台車の下に潜り込む。暗証キーを入力して備え付け工具箱を開けた。
「ハーベルト。何やってんだよ。潰されるよ」
 祥子の忠告を無視して作業を続けている。その間も微震が続き、乗務員たちはヒヤヒヤものである。地球が呼吸しているように地面が波うつ。
 もぞもぞと這い出るなりハーベルトはとんでもないことを口走る。
「自爆装置を起動したわ。60秒以内に退避して」
 言い終わらぬうちに、機関車が火を噴いた。ハウゼル列車長や運転手たちは複雑な表情をしている。
「祥子、先生も早く!」
 ハーベルトは翼を持たない乗務員をお姫様抱っこする。
「何をしているの?」
 微動だにしない彼らにハーベルトが促す。ブレーズ機関手が涙ぐむ。
「だって……」
 機密保持のためとは言え、思い出深い列車を爆破するには忍びないのだろう。
「察してください。列車を失えば走らせることもできない」
 呆然と立ち尽くす彼らの背中をハーベルトが押した。
「前に進みましょう。代替は幾らでも新造できます」

 残り30秒を切った。祥子がハウゼルたちの気持ちを代弁する。

「ひどいよ。ハーベルト。何も壊さなくたって! ALX427ψに引っ張ってもらえばいいじゃないか」
 ぴしゃりとハーベルトが拒絶した。
「連合は今も敵だという事を憶えておいて。時間がないの」
 彼女は強硬手段に出る。ダイマー能力で上昇気流を呼び起こす。二の足を踏んでいた者たちは有無を言わさず、その場から離された。「ハーベルトー」
 祥子は逆風にめげず、力の限り羽ばたいてTWX666Ωを目指す。

「自爆装置の解除ぐらいボクでも出来る」

 無断で重巡ノーザンプトンと交信。ホムンクルスからダイマー共有聴覚経由で解除方法を教わる。
「余計なことを!」
 ハーベルトが引き返そうとした瞬間、祥子もろともTWX666Ωが爆散した。その劫火は祥子の肉体を焼き尽し、しかるべき在りように再構成した。
 エメラルドグリーンの光が藤野祥子の横顔に似る。
「祥子――!」
 ハーベルトの呼びかけを火球は無視した。
 ”うるさい! ボクはお前に指図されない。お前がボクを聞き入れなかったように”
 それは緑色の竜巻となって大阪湾の奥へ消えた。
「大変なことになったわ」
 ハーベルトは浮かぬ顔で次善策に取り掛った。

 ■ 大阪湾 

 大波がノーザンプトンを木の葉のように翻弄する。留守を預かる望萌は遮蔽装置の出力を設計限界ぎりぎりまで高めた。ありとあらゆるエネルギーを確実に消耗させる熱力学第二法則。それをコード1986は頑として拒んだ。栄枯盛衰は万物の宿命であるが、モノには限度というものがある。世界が丸ごと瞬殺されるという事は時系列的な変化の否定につながる。それは裏返せば宇宙創造ビッグバンの恒常化に他ならない。だから物事には緩慢な滅び=寿命が設定されているのだ。

「――ッ! フィラデルフィアが焼き切れてもいい。もっと振り絞って!」
 望萌は承知の上でホムンクルスたちに無理強いする。
「できないとは申しません。閣下が一番嫌いな言葉ですから」
「そうね。前を見ろ。よく出来た傀儡だわ」
 艦が前のめりになり、舳が海面下に沈んだ。と思えば、鎌首をもたげる。大波を被るたびにダメージが蓄積していく。
「いずれ落ち着くわ。世界は安定を好む。それまで持ちこたえて!」
 バキバキと関節を鳴らすように力場が悲鳴をあげる。
 船の外では相反する主義主張が覇権争いを続けている。

 ヤンガードライアス彗星の破片から派生する力は大前提じたいを破壊する。コード1986の自然治癒力は太古の昔に飛来した異物を何とか消化しようと耐久してきた。
 せめぎ合う力は時に拮抗する。コヨリはフラウンホーファー財団の電算機資源システムリソースを駆使していくつかの安全地帯を算出した。彼女はその一つに留まっている。機体の真下はオノコロ島の北端。鶺鴒海峡せきれいかいきょうと本土の中間点に純粋ハイパー核の鉱脈がある。動画を逆再生するようにエメラルドグリーンの破片が次々と海面から飛び出してくる。一片は十メートルはあろうかという巨大な正八面体。磨き抜かれた表面はとても自然の造形とは思えない。

 コヨリのセスナ・サイテーションが大きく旋回してハイパー核に接近する。
 コヨリは優しく語り掛ける。
 手を伸ばせば届きそうな距離に野望達成の全てがある。
「ファントム・ジェーン・スー。もう少しで時間を克服する術が手に入るわ。六千年を飛び越えて、未来に脱出したあんたに会いにいくよ」
 両親を通り魔に惨殺されたコヨリにとって、ジェーン・スーは姉も同然だった。犯罪被害者遺族にすら一定の非を求める社会において、「何の落ち度もない」と庇ってくれたのは、嫌われ者のジェーン・スーただ一人だった。

 その彼女ですら枢軸に追われ、タイムカプセルに引き籠ってしまった。
 開封は当該世界の混乱を招く。それを中和するべく、コヨリは運命量子色力学キューシーディーに心血を注いだ。QCDこそが、恒久平和を唯一達成する手段なのだ。
 そして6000年という歳月はいかなドイッチェラントいえども、風化させてしまうだろう。
 人類史上、それだけ永らえた単一国家は未だかつて存在しない。そして、手を取り合って平穏な日々を送るのだ
「あんたがトマホーク・コモディティアンから学んだ叡智が永遠の安息をもたらす。もうすぐよ」
 八面体が重力に逆らって浮遊している。自転しながらキラキラと輝くさまは人類を善導する運命の歯車を暗喩している。
 あと一歩で無限の可能性が手に入る。
 そこに翡翠色の火砕流が加わる。
「祥子?」
 ”そうだよ。ボクもジェーン・スーの所へ連れて行って。ハーベルトには愛想が尽きたんだ”
 力強い声が機内に響いた。
 降ってわいた幸運に、沼田コヨリは震える手でカロリーメーターを握り、ハイパー核の掘削を開始した。

 ■ 工場跡地

 聖イライサニス学園予備管理施設棟。コンクリートアーチの建物は書類上はそう呼ばれている。つまり早い話が廃墟だ。雑草が生い茂り、苔むした石垣がぬめっている。崩落を防ぐために屋根の穴は修復され、最低限必要な耐震補強工事が済んでいる。

 ここには航空機製作所があった。駐留米軍が物資保管所として接収し、学園に払い下げられたという。
 戦後の発展は過去の痕跡を覆い隠してしまう。
 だが、ハイパー核の揺らめきは、忘れ去られた記憶に生命を吹き込んだ。
 絡み合ったツタを見えない力が解きほぐし、苔がみるみるうちに溶け落ちる。コンクリート壁のひび割れが塞がり、埋もれていた鉄片がひょいっと組み合わさる。そして、廃墟だった場所が往時の姿を取り戻した。
 学園は広域避難場所に指定されている。正門が開かれ、着の身着のまま大勢の市民がなだれ込んできた。大半が高齢者である。その中に武鳥明菜たけとりあきなの姿があった。

「こんなところに駅が出来たんだねぇ」

 老人たちは加齢による注意力の低下もあって、線路上の蒸気機関車に気づかない。よしんば、分かっていても静態保存されているのだろうと解釈している。まるでタイムスリップしてきたかのように駅舎も貨車も終戦直後の旧態に復した。
 明菜は人ごみの中に在りし日の同級生を見つけた。
「あれっ? キヨちゃん? キヨちゃんじゃないの?」
 呼び止められた方は自分の事だと気づいていない。
「待ってよ。キヨちゃん。わたしよ。武鳥明菜。わからない?」
 明菜は息を弾ませながら追いかける。丈の長いインド綿のスカートから鶏ガラのような足が見え隠れする。
「? 失礼ですが、おばあさん。わたしのことでしょうか?」
 おかっぱ頭でセーラー服に防空頭巾を被った娘が振り返った。
「んまァ! オバアチャンとは何事ですか! よそよそしい」

「ご用件はなんでしょうか。些末事でしたらお引き取りください。私達少国民は寸刻を惜しんで報国に尽くさなければいけないのです。今も戦地では兵隊さんが――」
 あろうことか、キヨは声を荒げる明菜に説教を始めた。騒動を聞きつけた軍人が駆け寄ってくる。カーキ色のジャケットに膝上丈のタイトスカート。襟章からしてドイツの武装親衛隊将校らしかった。騒ぎを見守っている老人たちは忘れていた記憶を掘り起こした。それにしても、半世紀前の人物がなぜここにいるのだろう。旧ドイツ軍といえばコード1986の欧米においてタブー視される存在だ。戦争を知らない子供たちの扮装だとしても悪ふざけが過ぎる。
「そこ、私語は厳禁だ。さっさと持ち場に戻れ!」
 軍服姿の若い女が二人をしかりつけた。
「持ち場? 何のことだい?」
 明菜はキョトンと狐につままれた顔をしている。女性将校は眉を吊り上げ声を荒げた。ホルスターに手をかける。
「寝ぼけるな。ここは川中島重工業である。きさまら、私がハーベルト・トロイメライ・フォン・シュリーフェン中佐であると知って愚弄しているのか?」
 すると、老人たちの一人がビシッと姿勢を正した。
「川中島重工。失礼いたしました中佐どの。自分たちはお国のために高射砲を組み立てておるのであります」
 まるで魔法をかけられたみたいに避難者たちは工場の生産ラインに並んだ。かつて、自分が就いていた担当部分を思い出したようにテキパキと流れ作業を開始する。
「ハーベルト、これは何のコント?」
 吹雪が首をかしげる。
「茶番劇でも何でもないわ。お年寄りたちは大真面目よ。みんな、蜂狩大空襲でひどい目にあった人々。空爆直前まで川中島重工の蜂狩工場で高射砲生産に従事していた。リベンジしてもらわなくちゃいけない」」
 ハーベルトはセーラー服を着た白骨死体に一礼した。ホムンクルスたちが掘り起こしたものだ。
「松永キヨさん。お願い致します」
 すると、白いスカーフがふわりと風に揺れた。異世界逗留者の目には凛々しい顔をした少女が羽ばたいていく様子がありありと浮かんだ。
「蜂狩はありとあらゆる空爆の実験台にされたのよ。生産拠点破壊を目的とした通常爆弾によるピンポイント爆撃。居住地を目標とした焼夷弾による面攻撃。挙句は原爆の模擬弾投下訓練すら実施された」
 ハーベルトはコンクリートアーチに渦巻く怨念を代弁してみせた。
「ひどいことをするのね。でも模擬弾ってかわいいじゃない。ハリボテみたいなの?」
 吹雪がうっかり口をすべらせた。ハーベルトはキッと睨み返す。
「パンプキン爆弾よ。この世界の長崎に投下されたプルトニウム型原爆と同サイズ、同重量の実弾」
「じゃあ、犠牲者が出たの?」
 ハッと息をのむ吹雪。
「ええ、その一人が彼女よ」
 ハーベルトは何をいまさらと言わんばかりに白骨を見やる。
「――!」
 女教師が二の句を告げずにいると、ブレーズが工場に駆け込んできた。
「ハーベルト。コヨリが純粋核を持ち逃げするわ」
 口角泡を飛ばしてオノコロ島の最新情報を伝える
「勝ち逃げさせない。完成した順に高射砲を並べてちょうだい」
 ブレーズはハーベルトの具体的な指示を仰ぎながらホムンクルスを監督する。
「本当に三式12吋高射砲だけでコヨリを倒せるの? 懐疑派は祥子まで加えて鬼に金棒よ」
 大阪湾上で孤軍奮闘中の望萌が不満を漏らす。
「祥子はまだまだ子供よ。TWX666Ωが爆散した際、祥子はリンドバーグの壁に取り込まれてしまった。キヨさんと違って本気ガチの殺し合いを体験していない。軍靴の足音を身近に感じていた世代には到底かなわない」
 ハーベルトはセーラー服姿の白骨を見やる。
「わかったわ。何か手伝えることはない?」
 ノーザンプトンは手持ち無沙汰な様子だ。
「そうね。上空の303飛行隊に介入して。異世界兵器の持ち込みはダメでも地元産の武器は許容されるみたいだから」
 ハーベルトは背後から撃たせることにした。
 ハイパー核の揺らめきとコード1986の自然治癒力が懐疑派の航空部隊に戦争の記憶を被せた。
 工場内にサイレンが鳴り響く。
「来たわ!」
 ハーベルトの号令一下、高射砲が一斉に屹立する。
「B29だ。あん畜生め! 恨み晴らさでか!!」
 白髪交じりの男が給弾装置の電源を入れる。彼は焼夷弾によって親兄弟を失っている。
 蜂狩市にはかつて三種類の爆弾が使われた。広範囲を焼き払うための焼夷弾、爆発によって多量の鉄片をまき散らす破砕弾、そして軍事目標破壊のための通常爆弾。
 遠くから風を切る音が聞こえてきた。
 ”ハーベルト! キミには死んでもらうよ!!”
 大音声だいおんじょうが空襲警報を聾する。
 M47A2百ポンド焼夷弾が投下された。六発ずつのナパーム弾が翼下の爆弾架から離れる。続いてM76焼夷弾が落ちる。五百ポンドの大型マグネシウム焼夷弾だ。
「フン。ダイマー能力者の敵ではないわ」
 ハーベルトが重水素弾を振り向ける。マグネシウムは重水を吸着するため、一気に爆発力が増す。地上に届く前に引火。高高度に閃光が連なる。
 ”まだまだこれからッ!”
 雲を貫いてE28クラスター焼夷弾が降ってきた。六角形のM50子爆弾110発をぶちまける。非常に燃えやすいテルミット剤を含んでいるが、硬すぎて木造一戸建てなら貫通してしまう。
 過剰なまでの破壊衝動。
 ハーベルトのダイマー能力はそこに敵の弱点を見出した。
「人はそれを憤怒というわ。狂わしいまでの怒りを帯びている」
「どうやら私の出番のようね」
 ホームから邨埜純色の声がした。いつの間にかALX427ψが入線している。
「待って。慈悲で中和するには強すぎる。まず、憤怒には憤怒をぶつけてやるわ。こっちに考えがある」
 ハーベルトは老人たちを煽った。憤怒とは理屈を超えた敵愾心だ。理解する必要なない。ただただ相手を憎悪対象にする。
 人々の間からシュプレヒコールが次々と沸き起こった。憤怒は、個人の枠を超えた怒りを集積する。社会の悪に対して、自分の利害をこえて感じる憤り――公噴ともいう。「一億火の玉だ」「鬼畜米英」そういった総意がエメラルドグリーンの空に突き刺さる。
 コヨリのセスナ・サイテーションがハイパー核を収容しようとした刹那――。
「なっ?――」
 感情の奔流が機体を弾き飛ばした。ハーベルトが斉射を命じる。
「今よ!」
 高射砲が吼えた。B29の編隊が崩れ、総崩れになる。
 そのうちのいくつががハリネズミのごとき射線をくぐり抜けた。
 五百ポンド級破砕弾M41が炸裂。このままでは破片となって市民の頭上に飛散する。
 往生際の悪いコヨリは、懐疑派の航空戦力を盾にしてオノコロ島への最接近を試みた。
 だが、その進路上には――。
 警報アラームがコクピットに鳴り響く。
「F-15?! 空対空ミサイル?!」
 ビジネスジェットとマッハ2.5級の制空戦闘機では月とスッポンだ。誘導弾の赤外シーカーから逃れる手段はない。
「クッ。これまでか。『集団』、回収をお願い!」
 機体が爆散する寸前、コヨリの精神は軌道上の彗星にダウンロードされた。
 小型機の残骸や破砕弾が頭上の脅威となって襲い掛かる。
「あとは任せて!」
 純色のQCDが本領発揮した。ALX427ψの先頭車両から細長い光が伸びていく。
「憤怒には慈悲よ!」
 柔らかな光が傷ついた街を抱擁した。

 ■ 大阪湾上 重巡ノーザンプトン。

 心地よい潮風がジャズピアノの連弾を運んでくる。甲板上では異世界逗留者たちの怒号があれやこれやとかすびましい。その中に藤野祥子の声はなかった。
「大巫女官大総統に大目玉を食らうのは覚悟の上よ。ああでもしなければ状況は動かなかった」
「一両編成いくらすると思っているんです? 機関車だって再設計から始めなきゃならない」
 ハウゼル列車長とハーベルトが角を突き合わせること自体がハラハラドキドキのハプニングショーだ。異世界逗留者たちは肝を冷やしながらも興味津々に決着を見守っている。
「いくら白紙委任状を得ているからって、あんまりです。新型車両の開発で地方自治体が七つは傾きますよ」
「財政破綻がたった七州程度でよかったじゃない。あのまま純粋ハイパー核を渡していたら取り返しのつかないことに……」
「簡単に言ってくれますけどね。フラウンホーファーの財政支援によるところも大きいんですよ」
「日独伊芬枢軸基幹同盟には予算も資源も人材もあるわ」
「モノの問題じゃないです。これからもしょっちゅう列車を壊されたんじゃ、乗員の士気に関わります」
「どうして? おニュー(死語)の列車もいい物よ」
「あのねぇ」
 ハウゼルの物言いにハーベルトは苛立っていた。
 いつから枢軸は理屈でなく感情が主権を持つようになったのだろう。秩序を維持するためには多少の荒っぽさが許される。士気など個人的な感情の範疇だ。冷徹な戦況の前にいざとなったら私人だの公人だの言っている余裕はない。決して基本的人権をないがしろにしていいわけではないが、秩序と公益が先に立つ、と枢軸各国政府が唱えている。
 最近の列車長はとみに連合っぽくなった。私が疲れているせいだろうか、とハーベルトは無理やりに自分を納得させた。
 それでも彼女は懸念する。いずれ、絶対正義だと信じられていた価値観が真逆の倫理観と衝突するようになる。
 いや、すでに、そうなりつつある。
 ALX427ψが去ったあと、エメラルドグリーンのエネルギー体は国立研究所ペーネミュンデに捕獲された。彼女を人間に還元すべく研究陣が知恵を絞っている。
 蜂狩市民を恐れさせた流星騒動はコード1986が適切に翻訳した。オノコロ島が持ち上がるような天変地異は起きなかったし、UFOもB29も襲来しなかった。せいぜい荒井が毎月購読しているオカルト雑誌にかなり歪曲した「真実」が載るくらいだろう。良識ある蜂狩市民は一笑に付すか眉に唾を付けて読む事になる。それほどまでに現実はゆるぎない。
 結局、すべては1910年のハレー彗星騒ぎ以来のから騒ぎという形に落ち着いた。
直径十二メートルの隕石が大西洋上で分裂し、その破片が大阪湾に落下したのだ。その際に生じた衝撃波が湾岸一帯に物的損害を及ぼした。摂津県内では四千棟の窓ガラスが割れた。負傷者百数十名。幸いなことに死者はない。
「では、次のニュースです。指定暴力団溝口組の組長宅に家宅捜索が……」
 ムーンテレビジョンは抗争の続報を伝えている。
「はいはいはい。形あるものは壊れる。済んだことは仕方がありませんよ」
 望萌がブラックコーヒーを運んできた。ドイッチェラント人にとってはビールと並ぶ生命線である。
 ハーベルトがラテマキアートをクルクルとかき混ぜる。頭上にはハレー彗星が薄く長い尾を引いていた。

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