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オニテンの読書会

思ったことを綴っていこうと思います。

江戸時代の通訳のおしごと 阿蘭陀通詞について 

文化・情報 執筆者 タカギスグル

 映画「沈黙ーサイレンスー」での、浅野忠信さんの演じた通詞(通辞)に興味をもったので、江戸時代の通訳の語学の練習方法や仕事内容について、まとめてみました!

 

 映画「沈黙ーサイレンスー」についての感想は、こちらです。

www.oniten-yomu-book.com

 

《目次》

 

 みなさんは、外国語学習は好きですか?わたしは、苦手ですが、少しずつ英語の勉強を続けています。 録音機器や辞書が、まだ発達していなかった江戸時代、通詞となった人々はどんな勉強をしていたのか興味はありませんか?

 

阿蘭陀通詞とは 日本における外国語の転換点

 江戸時代において、オランダ語を聞いて話し、オランダ文を読んで書く事を職業とした阿蘭陀通詞は、長崎の町人身分でした。通詞の階級は、「口稽古」(を仰せつけられる)→「稽古通詞」→「小通詞」→「大通詞」とあり、能力や年齢によって、階級が上がって行きました。小通詞と大通詞は、「本通詞」といわれる一線級の通訳官になります。

 ここでは、日本における「言語」の転換について、着目せねばなりません。転換とは、ポルトガル語からオランダ語への大転換です。

 1543年、ポルトガル人が種子島に漂着、鉄砲を伝えます。

 1549年、ザビエルが鹿児島に来て、キリスト教を伝来

 これにより、日本人が、ヨーロッパ人とその文化と出会うわけです。この南蛮人との対話に不可欠なものが、「ことば」、ポルトガル語でした。

 日本人が、貿易・布教のためポルトガル語を身につけていくことになります。

 そして、「オランダ」が日本にやってきます。

 1600年、オランダ船リーフデ号が、日本漂着

 1609年、平戸にオランダ商館の設置

 しかし、徳川幕府が、南蛮人排除の方針に転換されていきます。

 1634年、徳川幕府は、長崎にて、ポルトガル人の島を作ります。

 1636年、扇面の型に出来上がった、人口島・出島にポルトガル人を集住させます。

 そして、決定的な出来事が翌年1637年に発生します。

   1637 年 島原の乱

 この島原の乱により、キリスト教禁圧、そしてポルトガル人がマカオに追放されるのです。

 ここで、幕府は、キリスト教の布教に手をかさないことを見極めた上で、幕府はオランダの貿易継続を認めることになり、長崎の出島に、オランダ商館が移転されました。

 こうした、ポルトガル人の追放、オランダ貿易の選択により、ポルトガル語からオランダ語へとの転換を、通詞たちは迫られることになったのです。

 そのため、ポルトガル語と、オランダ語の両方ができる通詞もいた時代が、あったということになるのです。

 映画「沈黙ーサイレンスー」に出てくる通詞も、本来ならポルトガル語を話しているはずですので、こうした時代に影響を受けた人物なのかもしれませんね。

 

阿蘭陀通詞の勉強方法

 阿蘭陀通詞が、どのようにオランダ語を勉強したのか、詳細な内容は残っていないそうですが、彼らが使っていたテキストは残っており、そこから勉強内容を推察することができます。

長崎における通詞のオランダ語学習の段階は、次のようになります。

①スペルを学ぶため、「アベブック」(A-B Boek)などの書によって、文字の書法や読み方を学ぶ

 単語集『阿蘭陀語和解』などで、単語を暗記する

②会話集「サーメンスプラーカ」(Samenspraak)などによって、日常会話を学ぶ

③『和解例言』や『西文規範』などを用いて、作文「ヲップステルレン」(Opstellen)の書き方を習う。

 という順序で学ぶ事になります。つまりは、文字の書き方を学び、単語を暗記、そして、会話集で会話を学ぶと、文章の書き方を学ぶという事になります。なんだか、現代の学校教育と似ていますね。

 言語学習で重要なのは、方法ではなく、それぞれの強度なのかもしれませんね。

 言語学習で「強度」といえば、わたしはこの本を思い出します!

國弘流英語の話しかた

國弘流英語の話しかた

 

 

通詞のお仕事 

 こうして勉学、鍛錬を積んだ通詞の仕事内容について見てみましょう!

 ①長崎奉行・奉行所に対する仕事

 ②長崎会所に対する仕事

 ③出島のオランダ商館に対する仕事

 ④阿蘭陀通詞団に対する仕事

 ⑤江戸番での仕事

 など、阿蘭陀通詞の活躍する場は、様々です。

 

 その主な職務を列記しますと

 ❶語学修行 

 ❷来航船臨検、蘭船入港手続き

 ❸貿易事務(注文書の作成!!)

 などがありますが、その中でも、出島行き遊女との諸連絡などもあり、色ごとまでも、その仕事の範囲内であったようです。

 

 ここでは、阿蘭陀通詞の仕事でも、緊迫の来航船臨検の手順を説明します。

 港に外国船が、現れると、長崎奉行所から、検使船が派遣されることになります。その船が、外国船のうち、禁教・鎖国のもと、入港を許された貿易船なのか、それと入港を拒否すべき異国船なのか、を判断しなければ、なりません。

 ⑴オランダ人と通詞らは、来航船に接近

 ⑵来航船に呼びかけ、応答がオランダ語か、どうか判断

 ⑶オランダ船であるか、旗を確認

 ⑷「一ノ印」と付けられた横文字検問書類を来航船にみせ、返書を受け取る

 ⑸質人(人質)となる二人を受け取る

 ⑹入港許可を与える

 

 という、流れになっているのです。こう考えると、阿蘭陀通詞とは、現代では入国審査や、貿易、そしてコンシェルジュ的な仕事まで、行っていたのですね。

 

 

今回は、江戸時代の通訳、阿蘭陀通詞について、まとめてみました。300年以上前に、外国語を生業にしていた人々の存在は、これからの外国語学習の参考にもなるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

《参考文献》

 

江戸時代の通訳官: 阿蘭陀通詞の語学と実務

江戸時代の通訳官: 阿蘭陀通詞の語学と実務

 

 

ci.nii.ac.jp 

 

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