自分には恋愛感情を関係として発展させる才能がない。と、思っていた。
最近は、できたことがないのではなく、作る努力をしてこなかったのだと感じている。
学生の頃、お洒落や化粧、恋愛に一生懸命だった周囲は別世界の人のようだった。
そういうことに興味を傾けずとも自分は充実していると思っていたし、実際、好きな音楽や本だとか、趣味に没頭する時間が好きだった。
人並みに誰かを好きになることはあった。
同級生たちと違ったのは、相手が手の届かない大人ばかりだったということだ。
成就するはずもない相手だという希望の無さに一種の安心感を覚えて、好き勝手に思いを募らせていた。
年上に惹かれるのは完全に好みの問題だが、恋愛に対する能動性を放棄し続けてきた要因にはこうした好みも含まれるのだと思う。
わたしには自信が無い。
とくに、女としての自信が無い。
親友と呼べるほどの間柄にいつも可愛らしい女の子がいて、年上に惹かれるようになる前、同級生に恋をしていた時代の意中の人は悉く彼女らに夢中になった。
彼女たちのように可愛くなりたい。
そう思うより先に、私は女の子として愛してもらえる存在ではないのだと思った。
恋をすることが怖くなった。可愛い女の子たちと比べられること、女として評価を下されることに耐えられなかった。
異性(とくに同世代)に対して、女として扱ってもらうことを諦めたのは十代半ばくらいの頃だ。
手が届かないほど年の離れた人に惹かれるようになったのもその頃だった。
年齢だとか、立場だとか。障害が多く、どう転んでも関係を発展させられないという事実は、わたしが美少女だろうが醜悪な面だろうが覆らない。
才能の有無によって結果が左右されないことが嬉しかった。(今でこそそれも立ち回り次第だと思うが)
逆に言えば、何の努力をしなくてもいい。女として評価されることが怖かったわたしには、この上ない逃げの口実になった。
完全に好みの問題だとは言ったが、書いてみると年上に惹かれる理由はこうしたところにもあるのだろうと思う。
女として傷つかない安全なところで、好き勝手に一人で恋をして、恋が成就せずとも(結婚できずとも)生きていけるようになる。
ただ、それでいいと思えていたのは学生時代だけの話だ。
十代の頃であれば、年の離れた人といっても二十代や、せいぜい三十代前半。独身が多かった。
でも今は違う。今のわたしと比べて年の離れた人、と言うと、世代的にも家庭を持っている人が多い。
そういった人たちの余裕に惹かれるところがあるのか、ここ数年は妻帯者ばかりを好きになっている。
同じ社会人だ。否が応でも同じステージで女としての評価を下される。
それさえ初めは「思わせぶりな態度でその気にさせられた」と思っていたのだから、笑うに笑えない。
恋愛一つ誰かと共有できた試しのない女が、既婚者相手に勝手に思い上がっていただけだった。
違うことは他にもある。
十代の頃にも年相応の知識はあったが、自慰を覚え、知識と身体の感覚が噛み合ってからは他者と繋がりたい欲求が募っている。
とはいえ、恋愛一つままならないわたしにとって、性交渉などさらに高みにある高次コミュニケーションだ。
前段階も突破できずにいたのだから、それこそ手の届かない次元の話だった。
だが、そういう中でも希に異性からアプローチを受けることがあった。
社会人になってから知り合ったその人には、こうしたコンプレックスや鬱屈した部分の一部をうち明けていた。
異性としてというより、人として感じる安心感から話したような記憶がある。下らない自己嫌悪を真正面から受け止めてくれたことが嬉しかった。
そうしているうち、経験を積んでみたら変わることもあると言われ、全てを委ねた。
他者と繋がりたい欲求と、変われるなら変わりたいという焦燥が強かった。これを逃したら二度とそんな経験はできないかもしれないとも思った。
その人が妻子ある人だと知ったのは、後の話だ。
自分の立場がありながら誘いを持ちかけてきたその人に対してというより、ここまできてしまった自分に呆れた。
あれほど女として扱われることを、評価されることを怖がっていたのに、逃げていたつもりで雁字搦めになっていた。
本当は、女として生きてみたかったのだと痛感した。
わたしには自信が無い。
とくに、女としての自信が無い。
今となっては、私の周囲にいた可愛らしい女の子たちが、彼女らなりの努力をして女の子としての地位を獲得していたのだと思う。
若いうちから彼女らはきちんとショーケースに並び、自身を磨いていた。
一方、わたしは女としてショーケースに並ぶだけの度胸がなかった。努力を放棄した。
相応の結果として今がある。
それでも、女として生きてみたいことに気がついてしまった。
自分だけと、後ろめたさなど一切無い関係を結んでくれる人がほしい。
愛することを許されたい。愛してもらいたい。
どんな風に努力を重ねれば、今更でも、こんなわたしでも、女という性を自分のものにできるのだろう。
もはや諦めるしかないという気持ちと、女であることを諦めきれない気持ちとが堂々巡りしているので整理したくて書き込んだけれど、結局まとまらなかった。