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銀座検定 第16問の正解は
(2) 女性がパンパンと呼ばれることを怒っている
が正解です。
「カンカン」は山本嘉次郎監督の造語であり、
当時の売春婦の蔑称 「パンパン(パンパンガール)」
に対してカンカンに怒っている」という意味が込められ
ているとされています。
当時、高峰秀子さんも意味が分からず、
「カンカン娘ってどういう意味なんですか?」と
作曲した服部良一氏と、作詞した佐伯孝夫氏の二人に
尋ねたところ、
二人とも意味を知らなかったという話が残っていますので、
あくまで、山本監督が感覚で決めた言葉です。
山本監督は、身体を売るまで落ちた女性に対し、
非難し怒っているのではなく、
そうしないと生きられない世情に、悔しくて、
腹を立てているのです。
1947年に『星の流れに』が発表され、その歌詞の
「こんな女に誰がした」が有名になりましたが、
この戦後の暗い世相を嘆いた山本監督の、
心の叫びでした。
こんな時代でした。
http://www.youtube.com/watch?v=CiaMhO40Wt8
星の流れに・・・こんな女に誰がした
『 星の流れに 』は、作詞家清水みちる氏が、
東京日日新聞(現在の毎日新聞)に載った女性の手記を
読んで作詞し、利根一郎が作曲し、菊池章子が歌いました。
手記の内容は、
もと従軍看護婦だった彼女は、奉天から東京に帰ってきたが、
焼け野原で家族もすべて失われたため、「夜の女」として
生きるしかないわが身を嘆く内容であったといいます。
清水氏は、
戦争への怒りや、やるせない気持ち を歌にしました。
込みあげてくる憤りを叩きつけ、
戦争への告発歌を徹夜で書き上げたといいます。
歌詞は次のようです。
星の流れに 身を占って
どこをねぐらの 今日の宿
荒む心で いるのじゃないが
泣けて涙も 枯れ果てた
こんな女に誰がした
煙草ふかして 口笛ふいて
あてもない夜の さすらいに
人は見返る わが身は細る
町の灯影の 侘しさよ
こんな女に誰がした
飢えて今頃 妹はどこに
一目逢いたい お母さん
ルージュ哀しや 唇かめば
闇の夜風も 泣いて吹く
こんな女に誰がした
なんとも、切々と悲しい歌詞です。
ギンタロー。は最初の時は、サラッと読んだのですが、
今は、読み返すたびに、胸が締め付けられます。
さて、この歌、作曲家は、当初、
題を 『 こんな女に誰がした 』 としたかったのですが、
GHQの検閲で認められず、
『 星の流れに 』に変えたということです。
パンパンとは
1945年9月以降の連合国軍による占領統治下、
主として在日米軍将兵を相手にした街中の娼婦(街娼)
のことをこう呼びました。
パンパンガール、パン助も同じ意味です。
パンパンは不特定多数の連合国兵士を客とする者を
指しますが、特定の相手(主に上級将校)のみと愛人関係を
結んで売春をする者を、
オンリーまたはオンリーさんと呼びました。
街娼(パンパン)は、
1946年には日本全国で7万人から8万人がいて、
また、朝鮮戦争の激化した1952年には、15万人近くがいたと
されています。
1956年(昭和31年)の売春防止法施行後は激減しましたが、
ベトナム戦争が激化した1960年代後半頃には米軍基地周辺
に存在しました。
敗戦により、経済的に困窮した日本では、
生きるために止む無く、あるいは金銭を楽に得るために
身体を売る女性が多くあったということです。
特殊慰安施設協会(RAA)とは
戦争中、鬼畜米兵とされ、日本の女性は米国兵に
どんな目に逢わされるかわからない、と教えられました。
内戦があった沖縄では、生きて凌辱を受けるよりと、
集団自決したり日本軍に集団自殺を強要させられた
悲劇が、たくさんありました。
本土への進駐軍の上陸を控え、終戦詔勅の1週間後
1945年8月22日に、早くも、
日本の婦女子を守る防波堤の名のもとに、
進駐軍の性的欲望を満足させるものとして、
RAAは設置されました。
設立資本金1億円のうち5000万円は、 国の保証で
勧業銀行が資金供給しました。
建設資材、什器、衣服、布団が調達され、1,200万個の
コンドームが警察から現物支給されたと言います。
平たく言えば、国営売春施設ですね。
一般の婦女子を進駐軍の狼から守るための方策という
わけです。
そして、新聞には、こんな求人広告が載りました。
「急告 特別女子従業員募集 衣食住乃高級支給 前借ニモ応ズ
地方ヨリノ応募者ニハ旅費を支給スル」
「進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。
年齢一八歳以上二五歳まで。宿舎、被服、食糧など全部支給」
いかがですか。
衣食住は全部保障する、前借もOKだし、旅費も出す。
みんな空腹で、仕事がなく、また、こどもには是が非でも食べさたい
と思う極限状態の母親にとっては、なんともありがたい話のようです。
この新聞広告と、銀座などに設置された広告板を見て、
都心では、1日に300人から600人が京橋区銀座7丁目の
特殊慰安施設協会に応募に来たということです。
応募者の大半は、水商売の経験のない女性で、広告に
引かれてきたものの、仕事の中身を聞いて驚いて去って
行った人もいますが、覚悟を決めて応募した人もいました。
結局、こうして、短期間に全国に連合軍向けの慰安所として
RAAが設けられ、そこでは、総計53,000人~55,000人
の女性が所属していたと言われています。
水商売のプロもいましたが、いいところ出の10代の女性も
多くいました。
戦争未亡人の数は187万人に上ったといわれています。
親子が生きるために、、RAAで働いた人もたくさんいました。
当時の在日連合軍のアメリカ兵は、43万人程でした。
RAAを設置したものの、上陸した連合軍兵士による乱暴や
凌辱は防げませんでした。。
ある統計によれば、米軍が日本に進駐した最
初の10日間で、神奈川県下で1,336件の強姦事件が発生し、
同県では1か月間に最低3,500人が被害を受けたと言われて
います。
民家に侵入して強姦する事件が多発し、開業の前日に慰安所
にマシンガンで武装した100人以上の米兵が乗り込み慰安婦
14名を輪姦したり、小学生が集団強姦されたり、幼児が強姦され
殺されたり、病院に200人を超える米兵が侵入し、妊婦や看護婦
が強姦されたりと、平時では考えられないことが多発しました。
集団でいるとかえって危険なので休校した女子高校も多くあったと
いうことです。
身体の大きな米国兵がマシンガンを持って侵入するのですから、
たまりません。 警察も見て見ぬ振りしかなかったようです。
人道に反する狼藉に、一生を狂わされる人が多かった一方、
RAAの慰安所に暮らす慰安婦たちも、その過酷な状況に、
精神を患い、自殺する人も少なくなかったといいます。
RAAは大阪、名古屋等にも続々と開設され、熱海や箱根の
誰もが知っている複数の老舗旅館も、将校用慰安所になり、
日本人の利用は制限されそうです。
RAAは、慰安所のほかに、キャバレーやビアホールを設置し、
そこで日本人女性と会う仕組みも作りました。
銀座には進駐軍用購買施設(PX)が、現在の和光と
松屋百貨店に設けられ、食糧等を購入に米兵もたくさん集まり
ましたから、SEX需要も旺盛でした。
千疋屋、オアシス・オブ・ギンザ、クラブ・エデン(木挽町の歌舞伎座
別館に開設)は、そういう目的のキャバレーになったそうです。
RAA廃止とパンパン
RAAは、長くは続かず、開設の翌年1946年1月21日に、
前アメリカ大統領夫人の反対と、性病の蔓延を理由に、
GHQの命令で廃止されました。
廃止時に、慰安婦の6割は、梅毒等の性病に羅漢していたそうです。
国を挙げて公認売春組織を作った意味がどのくらいあったかは、
実証が難しいのですが、次の数字があるようです。
強姦事件(婦女暴行)の件数は、RAA廃止前は1日40件、
RAAが廃止された後の1946年前半では1日平均330件。
RAAが廃止され、施設を追い出された女性で、
パンパン(進駐軍相手の街娼)になった女性も多くありました。
ラクちょうお時
街に出た女性たちは、身を守る必要がありました
街のゴロつきの乱暴、MPや警察による逮捕、
「刈り込み」と呼ばれた性病対策を理由とした憲兵隊による
検挙から、身を守る必要がありました。
パンパンのファッションは、一般に、米軍から放出された
布地によるタイトスカート、ネッカチーフ、オキシフルで脱色し
た茶髪、真っ赤なマニキュアであり、煙草を融通しあい、
集団でいることによって境遇が慰められるような集団。
その集団をまとめるアネゴとして、有名なのが、
有楽町を根城とした「ラクチョウのお時」でした。
キップがよく、気遣いもあり、200人の手下を引き連れていました。
1947年(昭和22年)に、NHKの藤倉修一(2008年没)が
小型「マイクをコートに忍ばせ、有楽町のガード下にたむろする
若い女性たちを覆面取材しました。
ラクちょうのお時の声を収録したこの街頭インタビューは、
NHK放送史上に残るものになりました。
女の子① 「タバコ持っていない?」
藤倉 「こんなんのでいいかな?酔っぱらっているね。」
女の子① 「カストリだよ。ピーナッツおごってよ。」
藤倉 「はい、10円。」
女の子② 「おじさん、いい男だね。あたしたちと親類だよ。
有楽街で顔合わせればみんな親類。」
女の子③ 「おしさん新聞社だろ。おれたち新聞社はきらい
なんだよ。おとしまえとっちゃうぞ。」
お時 「あたしは戦災でやかれて両親も兄弟もいないけど
中流以上の子が多いわよ。」
藤倉アナウンサーは、このお時にインタビューを続けていき
ます。
背が高く、顔だちは端正で、水兵風の濃紺のズボンと
薄紫のセーターを身に着け、髪は黄色のバンドで流行風に
束ねていいます。顔をとても美しく、肌は透き通るように白く、
眉毛は濃く、唇は真っ赤に塗っています。
とお時を紹介しています。
お時は、口元を曲げながらこんな風に語りました。
「そりゃ、パン助は悪いわ、だけど戦災で身寄りもなく
職もないわたしたちはどうして生きていけばいいの・・・
好きでサ、こんな商売をしている人なんて何人もいない
のよ・・・それなのに、苦労してカタギになって職を見つけ
たって、世間の人は、あいつはパンすけだって指さす
じゃないの。
わたしは今までに何人も、ここの娘をカタギにして送り
出してやったわよ。
それが・・・みんな(涙声で)いじめられて追い立てられて、
またこのガード下に戻ってくるじゃないの
世間なんて、いいかげん、わたしたちを馬鹿にしてるわよ」
NHK街頭録音 『青少年の不良化をどう防ぐか、ガード下の娘たち』
は、全国にショックと大反響を巻き起こし、
手紙やカンパがNHKに寄せられました。
ところが、その放送の翌日に、ラクちょうのお時は有楽町から
姿を消してしまいました。
ラクちょうお時の写真とされています。
昭和22年4月22日の夜に流されたこの放送を、
19歳のラクちょうお時は、マーケットのおでん屋で耳にしました。
「 ラジオから流れる自分の声を聴いて、わたしはショックを受け
ました。 その声は、まるで 悪魔 のようで、それがきっかけで、
わたしは通りに立つのをやめて職を見つけました。」
昭和23年2月8日、ラクちょうのお時こと西田時子(20歳)は、
ラジオインタビューをした藤倉アナウンサーの家に姿を見せ
ました。
自分が更生するきっかけになったラジオ放送に対するお礼に
事後報告も兼ねた訪問でした。
昭和22年7月には、西田時子さんは市川で事務員として
働き、月給は1,500円。
これは、夜の女の元締め時代の1日の稼ぎ以下だそうです。
その後、昭和23年1月14日夜、西田時子さんは、再び、
NHKラジオ 『社会探訪』 に、『ガード下の女後日談』として
出演し、
「やはり世間の風は冷たくて、しょっちゅうくじけそうになるけど、
頑張ろうと思います。」と話しています。
放送後、市川でもラクちょうお時は有名になり、ぞろぞろと
人がついてくるようになり、マスクとメガネで変装するほどで
あったと言われています。
そして、その後、西田時子さんは世の中の皆さんの前に
出ることなく、
どのような人生を送ったかは、まったく知られていません。
さて、では、銀座検定(GINKEN) 第17問です。
大ヒットした 『銀座カンカン娘』でしたが、
NHKでは歌詞の4番は放送せず、フェードアウトしていました。.
NHKはなぜ、『銀座カンカン娘』の4番を
放送しなかったのでしょうか
(1) 歌が長すぎるから
(2) どの歌も3番までというのが当時のNHKのルールだった。
(3) 4番に特定の商品名が入っていたため
(4) 4番の歌詞を進駐軍(GHQ)が放送禁止としたため
正解は 銀座検定 第18問と一緒にお届けします。