(※『狼と羊皮紙』2巻 ネタバレあり)
先月、映画『沈黙‐サイレンス‐』(以下『沈黙』)を拝見した。
「信仰」とは。また、信仰を持つ者にとっての「神」とは。
私自身は信仰を持たず、映画の内容を現実的に捉えることは難しかったが、それ故に「信仰」という存在を強く叩きつけられた素晴らしい映画だった(原作も拝読したが、かなり昔のことであまり覚えていないので今回は映画準拠で話を進める)。
ただ、今回書くのは『沈黙』についてではなく、ライトノベル『新説 狼と香辛料 狼と羊皮紙』(以下『羊皮紙』)についてである。
前作『狼と香辛料』では中世ヨーロッパ(風の世界観)での経済・商取引が主題だったが、その中で宗教(教会)の存在は非常に重要なものだった。
『羊皮紙』では聖職者を志す青年コルが主人公ということもあり、宗教が作品の主題となっている。
今回は先日発売された第2巻について主に書いていきたい。
修道士オータムにとっての「信仰」
公式サイトでの第2巻のあらすじは以下のようになっている。
港町アティフでの聖書騒動を乗り越えた青年コルと、賢狼の娘・ミューリ。恋心を告げて開き直ったミューリから、コルは猛烈に求愛される日々を送っていた。
そんな中、ハイランド王子から次なる任務についての相談が。今後の教会勢力との戦いでは、ウィンフィール王国と大陸との海峡制圧が重要になってくる。そのため、アティフの北にある群島に住む海賊たちを、仲間にすべきかどうか調べて欲しいというのだ。
海賊の海への冒険に胸を躍らせるミューリであったが、コルは不安の色を隠せない。なぜなら海賊たちには、異端信仰の嫌疑がかけられていたのだ。彼らが信じるのは、人々が危機に陥ると助けてくれるという“黒聖母”。不思議な伝説が残る島で、二人は無事任務を遂行することができるのか――。
これだけを見ると、海賊を相手取った冒険譚のような内容にも見えるし、劇中序盤でミューリもそれを期待している様子だったが、実際の内容は読者の予想とミューリの期待を大きく裏切るものだった。
恐らく、本作の中で最も印象的だったシーンを尋ねたら、多くの人が「島の少女が奴隷商に売られるシーン」を挙げるだろう。
修道士オータムがその売買を指揮しており、そこにある罪、少女の父親の怒りなどを一身に受ける壮絶なシーンである。
「信仰がある故の自己犠牲」と言ってしまえばそれで片付くかも知れないが、そんなに簡単なものでもないだろう。
島全体を守るためとはいえ、修道士が人身売買など絶対に許されるものではない。
オータムは今回の件だけでなく、今まで幾度となく同じ事を繰り返し、その身に罪を背負い続けている。
少女の売買を終え、それを見ていたコルに向けてオータムが放った印象的な言葉がある。
「私は幸いである。神は、あらゆる罪をお許しになるのだから」
当然、言葉通りの「許してもらえるからラッキー」的な軽い意味ではない。
純粋な信仰がある故に、神の教えを信じて、自分が正しいと思うことを愚直なまでに貫けるのであろう。
もし、オータムに信仰がなく、ただ島を守りたいという正義感のみに突き動かされているのだとしたら、罪の意識や重圧に押しつぶされてしまってこれを続けることはできなかっただろう。
また、島の人々にとっては、幼い子供が奴隷に売られるなどということもなかっただろうが、そういった「間引き」をしないことには島はあっという間に滅びてしまっていたはずだ。
オータムを恨みに恨んで生き続けるか、すぐに終焉を迎えるか。
この選択自体もどちらが正しいかなどあるはずもない。
忘れてならないのは、この劇中で「信仰に従って自分の信念を貫き通した善人」という印象を持たせるように描かれたオータムだが、それが本当に正しかったかどうかは、それこそ「神のみぞ知る」ものだということである。
『沈黙ーサイレンスー』との関係性
さて、冒頭にて『沈黙』について少し触れたが、『羊皮紙』2巻と『沈黙』両方を読んだ/見た方であれば、少なからずその共通性を感じることだろう。
「信じる者は救われる」とは現代日本においてはもはや冗談めかして言われる言葉であるが、極端な話をしてしまえば『羊皮紙』も『沈黙』も、この言葉についてひたすらに掘り下げた作品といえるのではないだろうか。
どんなに苦しい目に遭っても信じるものがあるから乗り越えることができる。
しかし、そもそもその宗教に出会っていなければそこまで苦しい目に遭わなかったのではないか。
永遠に答えが出ることのない問いだが、それ故に読者/観客はその作品を読み終えた/見終えた後もずっと自分の中で考えることができる。
本を読んでの感想で「考えさせられた」というのは安直で非常によろしくないものだというのはわかっているが、この両作品で深く考えさせられたのは間違いないだろう。
また、これは単なる深読みに過ぎないのかもしれないが、『羊皮紙』2巻の劇中にも『沈黙』の影響を臭わせるシーンがある。
神はなにをしているのだ。どうしてそこから出てこないのだ。祭壇の上で堂々と広げられている、雪が放つ仄かな光りに照らされた教会の紋章旗を睨みつけても、沈黙しか返ってこない。
「沈黙」という単語が使われているに過ぎないという指摘もあるかもしれないが、この単語の意味するところが両作品とも共通している。
『沈黙』というタイトルは「切支丹たちがこれほどに苦しい思いをしているのに、なぜ神は沈黙したままなのだ」という意味合いで付けられている。
作品のテーマの共通性から見ても、この一節は『沈黙』に対するオマージュを示しているのではないかと踏んでいる。
全てはラストシーンへの布石
このように、今回の『羊皮紙』2巻は、前作『香辛料』を含めても恐らく最も重い内容となっていた。
しかし、前作からのファンであればわかっていると思うが、これらの重厚に作り込まれた本編は、全て最後にコルとミューリ(前作ではロレンスとホロ)がイチャイチャするための布石なのだ。
このように書くと、本編は不要でイチャイチャシーンだけ書いていればいいのではないかという勘違いも生まれそうだが、決してそういうことではない。
たとえ同じ内容のラストシーンでも、本編のシリアスさがなければ、その魅力は半減してしまうだろう。
本編の練りに練られた重々しさがあって初めて、あのラストシーンが輝くのである。
特に『羊皮紙』2巻については、作者の支倉凍砂氏もあとがきにて以下のように書かれている。
道中が重かった分、今回の最後のシーンは、結構お気に入りです。
作者自身もお気に入りのラスト。
その甘々っぷりを存分に楽しませていただいた。
華奢描写の大家・支倉凍砂
その甘ったるさを体中から発しているヒロイン・ミューリとその描写について詳しく書いていこう。
中世ヨーロッパ(風)の世界観とその文体は、ミューリの描写にも深く関わってくる。
たとえばこの文章。
(前略)ここでミューリという温かい湯たんぽのような少女のことを抱きしめ返したら、(後略)
現代を舞台にした作品では絶対に出ないであろう「湯たんぽのような少女」という言葉。
子供の体温の高さを情緒溢れる言葉で表現しており、ロリコン的にも非常にグッとくるものがある。
また、ミューリのその華奢さの表現も支倉氏は卓越している。
以下は霜焼け防止のためにコルがミューリの足に熊の油を塗るシーンである(まずこのシチュエーション自体が大変興奮する)。
皮膚の薄い華奢なミューリの足に油を擦り込みながら、言った。
ヒロインの足の裏の皮の薄さを描写したライトノベルがかつてあっただろうか。
「硬い・柔らかい」という表現は使用せずとも、ミューリの足の裏のふにふにした感触がこちらにまで伝わってくるようだ。
そして以下は、作品の世界観を発揮してミューリの華奢さを表現した"合わせ技"である。
ミューリの細い肩を掴むと、ぐいと引き離した。
ミューリの身体は華奢で、天使のように軽かった。
「天使のように」という表現は、現代が舞台の作品でも使えないことはないかもしれないが、神の教えに身を置くコルだからこそ説得力のある描写といえるだろう。
まとめ
真面目な話からいつもの性的な話まで、読者に様々な考察をもたらしてくれる『狼と羊皮紙』。
今後もその絶妙なバランスとヒロインの圧倒的な可愛らしさを期待したい。