はじめに
金原明彦著「日蓮と本尊伝承 大石寺戒壇板本尊の真実」水声社、2007年8月20日まえがきに、
「本書で明らかにしている事実が、私が日ごろから尊敬し愛してやまない多くの信仰の篤い人々に衝撃を与え、感情的な反感をもたらすのではないかとの心配は、今も私の脳裏から離れていない。それでもなお、たった一つの信念が本書の発行へ向けて私を突き動かした。
それは、「真実」は、いかなる場合にであっても常に正義と善意の人々に有益であるとの信念である。
真に善意の人々にとって新たな真実を知り、受け入れることは、過去を否定することではなくて、その辿り来た道をより深く理解することであり、信念に殉ずる道をより正しく知ることであると思う。いかに意外な事実が発見され、もしそれがこれまでの解釈や方針に修正を迫るものであったとしても、臆することはないのだ。ただ、これまで通り、「真実」に対して誠実でさえあればよい。その誠実さこそが、この新たな「真実」を導いた力なのだから。(中略)
近年、大石寺を外護してきた多くの信徒が大石寺から破門され、その後、「戒壇の大御本尊への参拝」が あたかも免罪符のように取りざたされるに至って、日蓮仏法への信仰のありかたが問い直される時を迎えている。思えば、創価学会員はその当初より、いわゆる形木御本尊を信仰の対境として信仰の実証を示し、多くの人々が蘇生を果たして、日蓮仏法の正しさとその力を現実社会の中で体現・証明してきた。あるいは大石寺宗門は言うであろう、「それは大石寺の血脈に通じていたからだ」と。
しかし、そのように主張する宗門自体が、戒壇の大御本尊を数百年にわたって身近に拝しながら、創価学会が示したごとき仏力の顕示や弘教・拡大を成しえず、大聖人御遺命である広宣流布を果たしえぬばかりか、近づくことさえままならぬ状況であったことをみれば、
御本尊の違いによって力用に差異があるのではなく、どこまでも信仰者の信心の厚薄が、その差異を生じさせるということを雄弁に物語っている。・・・
言うまでもなく、宗教における真偽の問題を文献学的な立場のみで論ずることはできない。
例えば、大聖人が直接記されたものでなくとも、正しく聞き書きされたものは偽書とはいえない。
また、幾多の大乗経典が、始祖である釈迦が直接語り、直接書き残されたもの ではないとしても、それは釈尊の教え、釈尊の真実を伝えようと、時間や空間を超えて釈尊に肉薄した人々によってもたらされた、釈尊の真実の声である。
しかし、だからといって、それを歴史的に釈尊の直語であるとか、権威付けのためだけに大聖人の直筆であるなどと強弁すれば、たちまち捏造・偽作のレッテルを貼られてしまうだろう。
ここに大石寺所蔵の「本門戒壇の大御本尊」について、それが日蓮大聖人の直造であるか否かを問うことは、御本尊としての真偽を問うことではない。
日興上人の書写本尊を例に取るまでもなく、日蓮大聖人の意にかなった御本尊であるか否かということと、大聖人の真蹟か否かということとは、まったくべつの問題である。
しかし、だからこそ、誤った伝承は是正され、正しく認識されることが、より正しい信仰のありかたを知る基盤であり、なにより、祖師である日蓮大聖人に対する誠実な姿勢であると思うのである。
教義解釈に伴った伝承や伝説が、信仰者を鼓舞し求道の心を増進させ、正信へ導く益のあることは認め得ることである。ことに日蓮教団各派において幾多の御本尊式の雑乱がみられる中で、大聖人正意の御本尊式をもって根本本尊と立てられたことには大きな意味と役割があったのも歴史的事実である。
だが、時は新たな段階を迎えている。
私自身、長い間、戒壇本尊を宗祖直造と心から信じてきた一人として、この問題を受け入れることが容易でないことは十分理解しているつもりである。その研究過程においていくたびも襲い掛かって逡巡、それは信仰を人生の依拠とする者でなければわからない重みである。
だがしかし、戒壇の板御本尊が宗祖日蓮大聖人の直造ではなかったにせよ、それが私の信仰を後退させたり、今日までの歩みを否定したりすることにはならない。
それどころか、新たな真実を知った今でも、一信仰者として私は、私自身の実践する信仰が常に私に知恵と勇気とを与えているという実感に支えられているし、その教えの根幹が絶対的普遍性を持っていることを より一層強く確信している。・・・」
以上、私の、多くの複雑な想いの一部が、見事に述べられているようで、引用させていただきました。
金原氏は、本書において、日蓮正宗大石寺に伝わる「戒壇の大御本尊」=日蓮正宗において唯授一人・法水写瓶の法主から末端信徒に至るまでの信仰の唯一の対象となっている「本門戒壇の大御本尊」の造立と伝承の真相を、幾多の文献学的資料や歴史的事実を前提として検証しています。
本尊批判ではなく、あくまで伝承の真相を検証すると断っている。
その前提で、戒壇板御本尊の相貌を書体・図顕形式を、宗祖真筆の御本尊様式から再検討し、真蹟「日禅授与の御本尊」と首題が「完全に一致した」こと、図顕年月偽作の実例をあげ、さらに、戒壇板御本尊の形態と宗祖在世の身延山から宗祖滅後において日興上人の身延山入山時期などの史実、河辺メモその他の文献資料の考察の結果、日興上人初期の御本尊まで分析して、戒壇板御本尊が宗祖の直造ではなく、日興上人の造立でもないことが判明したと結論づけている。
そして、直接的精査作業ができない以上、その時点での著者の推論として、戒壇板御本尊は、大石寺本堂に安置するため、熟練した仏師に依頼して制作され、その後に日蓮直造説が生まれたのではないかとしている。
おわりに、著者は、「・・・私はこの板本尊を本尊として認めないのではない。正しき弘安式の相貌を持った特殊な模写彫刻本尊であり、その点、他の模刻本尊や、書写本尊、形木本尊と変わるものではないだろう。ただし、造立主による下段の腰書きを依拠として主張される宗祖直造や、唯一絶対の根本本尊説・出世本懐説は誤りであり、今後、これを是正して、伴う教学上の問題を解決することが最も重要であろうと考える。・・・
ただし、こうして近年の研究の結果、動かしがたい「事実」が明らかになってきたのであるから、これから後に「事実」を無視することは、信徒に対して不誠実であり、何より、日蓮大聖人に対して余りにも不遜ではあるまいか。
「後世の造立であるが、宗祖の直筆をもとにしており、これまでどおり、この御本尊を本宗の根本としてゆく」と宣言することも可能であろう。一宗の面子も大切ではあろうが、一切衆生の成仏という大事からみれば、より小事である。一時的な混乱はあるだろうが、永い眼でみれば、その信頼は増すに違いないと確信する。
その反対に、事実を隠蔽せんとして「虚構」を構えたり、非理性的な「強弁」「詭弁」を重ねたり、感情的な個人攻撃などをしたならば、その途端に、「本宗には宗祖大聖人への誠実な信仰は存在しない」と内外に宣伝することになるだろう。
ともあれ、もはや、本書に記した多くの事実や疑問点を解きほぐさずに、これまでどおり「宗祖直造説」を主張することは無理である。それは一片の理性がある人であればわかることである。(中略)
大石寺がこの出世の本懐を板本尊に結び付けて理解せしめてきたため、そのように信じてきた人々にとっては、板本尊造立のような何か具体的行為の表出、大聖人による積極的事象を、本状に述べられた「本懐」に期待する心情はわからぬでもないが、「二十七年」は単に弘安二年のみを切り取られてかく述べられたのではなく、二十七年に及ぶ日蓮大聖人の弛まざる闘争*と、その延長線上に興起した熱原法難における門下の自立した信仰を一つの結実として「余は二十七年なり」と発せられた、とみるべきではなかろうか。私はそう確信する。
* 当然、御本尊の図顕、三大秘宝の顕示は、その中に含まれるものである。
しかし日蓮が戒壇板御本尊の如き特別の御本尊を建立されなければならないということにはならない。
「戒壇建立の用意がないはずはない」という意見もあるが、個人授与された宗祖本尊に、日興が後年、「本門寺重宝也」「万年の重宝也」「奉懸本門寺為万年重宝也」等と書き付けて未来本門寺のために準備された事実をみれば、疑念は氷解するのではなかろうか。」
と結んでいます。
大石寺戒壇板本尊については、大本尊ふたたび出現す―隠されていた日蓮大聖人の本懐–玉井礼一郎 (著)( 1986/8)にも詳しいが、WEBでも、犀角独歩氏の、「犀の角のように独り歩め」で、かなり詳細な分析がなされている。とりわけ、「所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について」に詳しい。
ちなみに、日蓮大聖人自伝 玉井 日礼 (著) 1993/4/28において、再販のあとがきに、
さて、その傲慢さにおいて日蓮正宗とは一卵性双生児といってよいほど酷似していた創価学会は、どうトチ狂ったか連日の機関紙上で、エロ・グロ新聞と見紛うばかりの低劣な大石寺批判を展開し、もはや元の鞘に収まることは不可能となり、その教学の柱の一つである「血脈論」を自らの手で押し倒したが、まだ、もう一つの主柱である「本尊論」には手を付けていない。しかし、大石寺と訣別した以上、その「本尊論」まで否定するところまで行きつくことは、当然の成り行きであろう。その大石寺の「本尊論」ないし宗学は、同寺二十六世ニ日寛が大成したものであるが、この日寛教学こそ、石山(大石寺)と創価学会を狂わせた元凶であり・・」
などと指摘している。
その後、創価学会は、日寛上人の御本尊を会員に配布することになり、現在に至っては、日蓮世界宗創価学会として、会則を更新して活動しています。
日寛上人の御本尊(八界本尊)を、模写してトリミングし装飾を加えて印刷した曼陀羅本尊を配布しています。他の教団からは功徳がないと疑問視されていますが、文証・理証・現証にてらして、はたして功徳があるのでしょうか。
創価大学教授の宮田幸一氏は、宮田幸一のホームページ(http://hw001.spaaqs.ne.jp/miya33x/index.html)において、論文として日蓮正宗論などを展開され、例えば、日興の教学思想の諸問題(2)――思想編においては以下のように述べている。
「これらの議論が示すことは、日蓮、日興の思想であっても、現代の文化において受け入れがたいことは、拒否しなければならないということである。その意味で、日蓮、日興原理主義は、文化的世界像の相違により、思想としては説得力を失わざるを得ない。我々日蓮信奉者は、現在の文化的、社会的状況の中で、世界広宣流布をどのようなものとして構想し、そのために何をしなければならないかを、宗教哲学、ならびに宗教社会学の知見を参考にしながら、検討しなければならないと、私は考えている。その中で日蓮系教団が様々な理由で互いに正統争いをしているようであるが、その争いが人類救済を目標とする世界広宣流布にとって意味のあるものであれば、大いに論争すべきであるが、過去の様々な対立を引きずっているだけで、世界広宣流布にとって意味がないものであれば、そんな論争に関わるのは、時間とエネルギーの浪費に過ぎない。私には少なくとも日興の五一相対の議論は今日的意味を失っていると思われる。」
そして、創価学会の立場として、個人的見解として、このようにも述べています。
「曼荼羅本尊の問題ですが、創価学会の立場は、大聖人真筆曼荼羅も歴代書写曼荼羅も十界曼荼羅であるかぎりは、本門の本尊として平等であるという見解であり、私もこの見解を支持しています。私は日興門流の様式に従っていれば、日興の曼荼羅正意説を継承していることを理解しやすいので、特に日蓮正宗の歴代書写の曼荼羅だからといって、拒否する必要はないと思っています。ただこれは会員感情に大きく左右される問題なので、もし日興書写曼荼羅あるいは日蓮真筆曼荼羅がいいという会員が多くなれば、その段階で対応すればよいと思われます。」
しかしながら、 こうした混沌の中で、末端会員の退転もさることながら、「法華経―生命のドラマ (1974年)」の著者で、創価学会教学の中心者であった原島 嵩氏や、 「私が愛した池田大作 「虚飾の王」との五〇年」の著者で、公明党書記長を務めた矢野 絢也氏など、はては、20年にわたって創価学会会長を務めた秋谷栄之助氏(旭日の創価学会の著者)など、創価学会の著名な幹部の一部が退会していく有様を目の当たりにするにつけ、いかに文明が発達しようとも、日蓮大聖人の仰せの通りの末法である様相を厳然と受容しなければならないと感じます。
三流週刊誌やネット上にも、誹謗中傷記事があふれ、日蓮系教団の間でも、不幸な現象につけこんで、その原因は御本尊を偽造しているからだなどと誑かし、信者の争奪戦が繰り広げられています。
しかし、譬諭品に説かれているように、数多くの誹謗中傷合戦の中で、多くの地獄への業を重ねる人たちからも、その中に潜んでいる真実を汲み出して、未来に役立てていかなければならないでしょう。
妙法蓮華経譬諭品第三には、このようにあります。
見有読誦 :あるいはこの「妙法蓮華経」を読誦し
書持経者 :書写し、受持する人を見て
軽賎憎嫉 :軽んじて賎しめ憎み嫉して
而懐結恨 :長い間の恨みを抱く者がいたならば、
此人罪報 :その人の罪報を
汝今復聴 :汝よ、いま、ちゃんと聴け
其人命終 :その人は、 臨終の後、
入阿鼻獄 :阿鼻地獄に入ることとなる
こんな中で、宗祖日蓮大聖人の御書(御金言)に、あらためて立ち返り、信仰とは?成仏(絶対的幸福境涯)とは?御本尊とは?を、整理してみました。
以下に3点、あげてみます。
1:血脈=南無妙法蓮華経=信心
(生死一大事血脈抄での3つの要件などで、以下便宜上このように記載します)
2:御本尊の相貌は、観心本尊抄などにて、具体的に描写されている内容を満たす
その御本尊は、自身の「胸中の肉弾」におわしわす
3:草木成仏口決(有情に題目を唱えられている瞬間においてだけ、即身成仏する:この瞬間に有情の即身成仏も同時に成る)は、即身成仏の方程式の一部
それぞれの御金言を以下にあげます。
1:生死一大事血脈抄
「夫れ生死一大事血脈とは所謂妙法蓮華経是なり、
其の故は釈迦多宝の二仏宝塔の中にして上行菩薩に譲り給いて
此の妙法蓮華経の五字過去遠遠劫より已来寸時も離れざる血脈なり」
(お尋ねの、生死一大事の血脈とは、いわゆる妙法蓮華経のことです。
その理由は、この妙法蓮華経の五字は、釈迦・多宝の二仏が宝塔の中で、上行菩薩にお譲りになったのであり、
過去遠々劫以来、寸時も離れることのなかった、「血脈」の法であるからです。)
「然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ 全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
此の事但日蓮が弟子檀那等の肝要なり法華経を持つとは是なり」
(このように、十界の当体が「妙法蓮華経」であるから、仏界の象徴である「久遠実成の釈尊」と、「皆成仏道の妙法蓮華経」と、我ら九界の「衆生」は、「全く差別がない」と信解して、「妙法蓮華経と唱えたてまつる」ところを、生死一大事の血脈というのです。
このことは、日蓮が弟子檀那等の肝要です。法華経を持つとは、このことをいうのです)
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、
剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し」
(一般的にいえば、日蓮が弟子檀那等が、自分と他人、彼と此れとの分け隔てがなく、互いにとって不可欠であるという水魚の思いをなして、異体同心に南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。
しかも今、日蓮が弘通する法の肝要はこれである。
もし、弟子檀那等がこの心を行動に移していくならば、広宣流布の大願も必ず成就する。
逆に、日蓮の弟子のなかに異体異心の者がいると、それは例えば、城の持ち主が自らの城を壊すようなものである)
「相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経・臨終正念と祈念し給へ、
生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ、
煩悩即菩提・生死即涅槃とは是なり、
信心の血脈なくんば法華経を持つとも無益なり」
(心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念してください。
生死一大事の血脈を、このことのほかには、絶対に求めてはなりません。
煩悩即菩提、生死即涅槃とは、このことなのです。
信心の血脈がなければ、法華経を持っても無益です)また、更に、
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか、地涌の菩薩にさだまりなば釈尊久遠の弟子たる事あに疑はんや、」
「三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを持とは云うなり」(四条金吾殿御返事)
(三世の諸仏の大事である、「南無妙法蓮華経」を念ずることが、「持つ」ということなのです)
経王殿御返事
「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり
日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」
(この御本尊は、日蓮が魂を墨に染めながして書き顕したのである。信じていきなさい。釈迦仏の本意は法華経である。日蓮の魂は「南無妙法蓮華経」の七字以外には存在しない)
2:御本尊の相貌についての文証
如来滅後五五百歳始観心本尊抄
「此の本門の肝心南無妙法蓮華経の五字に於ては 仏猶文殊薬王等にも之を付属し給わず
何に況や其の已外をや但地涌千界を召して八品を説いて之を付属し給う、
其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し 塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・ 釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して 雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う 迹仏迹土を表する故なり、
是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し 八年の間にも但八品に限る、 正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す
此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、
末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」
(この法華経の本門の文底に沈められた肝心の南無妙法蓮華経の五字については、釈迦仏は文殊師利菩薩や薬王菩薩等にもこれを付属しなさらないので、それ以下の一般の弟子に付属する訳はない。
ただ、涌出品から嘱累品に至る八品の間に地涌千界の大菩薩を召し出して、これを付属しなさったのである。
その文底下種の大御本尊の容貌は、御本仏が常住する娑婆世界の上に宝塔が空中に存在し、その中の「妙法蓮華経」の左右に釈迦牟尼仏と多宝仏がならび、釈尊の脇士には上行等の地涌の四菩薩がならび、文殊や弥勒等の迹化の菩薩は本化の四菩薩の眷属として末座に居し、迹化の菩薩や他方の国土の菩薩等や大小の諸菩薩は、下賎の万民が大地にひれふして雲閣月卿のような尊貴の人を見るがごとく控えていて、十方から来集した分身の諸仏は、迹仏迹土をあらわす大地の上に位置している。
このような究極の大御本尊は、釈尊在世の五十余年には全然なかった。法華経を説かれた八年の間でも、涌出品から嘱累品までの八品の間にだけ、これを説き地涌の菩薩に付属した。正像二千年の間には、小乗の釈尊は迦葉と阿難を脇士として建立され、権大乗や涅槃経・法華経迹門等の釈尊は文殊や普賢等の菩薩を脇士として建立された。
これらの仏像を正法・像法年間に造り画いたけれども、いまだ寿量品に説き顕わされた仏は建立されていない。
末法に至って初めて、文底下種・人法一箇の大御本尊が必ず建立されるのである。)
日女御前御返事(御本尊相貌抄)
「爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等・天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を・末法二百余年の比はじめて 法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、 是全く日蓮が自作にあらず 多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり」
(ここに、日蓮はどんなに不思議なことだろうか。正法時代の竜樹、天親等、像法時代の天台、妙楽等でさえ、顕わすことのなかった大曼荼羅を、末法に入って二百余年を経たこの時に、初めて、法華弘通の旗印として顕わしたのである。)
「この大曼荼羅は、全く、日蓮が勝手に作り出したのではない。法華経に出現した多宝塔中の釈迦牟尼仏、十方分身の諸仏の姿を、板木で摺るように摺りあらわした御本尊なのである。
されば首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢.文殊等.舎利弗・目連等坐を屈し.日天・月天.第六天の魔王・竜王.阿修羅・其の外不動.愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚癡の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪ふ悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・加之日本国の守護神たる天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体の神つらなる・其の余の用の神豈もるべきや、 宝塔品に云く「諸の大衆を接して皆虚空に在り」云云、 此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列坐の二界八番の雑衆等一人ももれず、 此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり」
(したがって、首題の「妙法蓮華経」の五字が中央にあり、四大天王は宝塔の四方にそれぞれ位置している。釈迦仏・多宝如来・本化の四菩薩は肩を並べていて、普賢・文殊等や舎利弗・目連等が座っている。更に日天・月天・第六天の魔王や、竜王・阿修羅が並び、その外、不動明王と愛染明王が南北の二方に陣を取り、悪逆の提婆達多や愚癡(畜生)の竜女も一所に座り、三千世界の人の寿命を奪う悪鬼である鬼子母神や十羅刹女等、そればかりでなく、日本国の守護神である天照太神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神々・すべての大小の神祇等、本体の神が皆、この御本尊の中に列座しているのである。それ故、そのほかの用の神がどうして、もれるはずがあろうか。
宝塔品には「諸の大衆を接して、皆虚空に在り」とある。これらの仏・菩薩・大聖等、更に法華経序品の説会に列なった二界八番の雑衆等、一人ももれずに、この御本尊の中に住し、「妙法蓮華経」という五字の光明に照らされて、本来ありのままの尊形となっている。これを本尊というのである。)
「経に云く「諸法実相」是なり、妙楽云く「実相は必ず諸法・諸法は必ず十如乃至十界は必ず身土」云云、又云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」等と云云、 伝教大師云く「一念三千即自受用身・自受用身とは出尊形の仏」文、此の故に 未曾有の大曼荼羅とは名付け奉るなり、 仏滅後・二千二百二十余年には此の御本尊いまだ出現し給はずと云う事なり」
(法華経方便品に「諸法実相」とあるのは、この意味である。妙楽大師はこの文を「実相は必ず諸法であり、諸法は必ず十如是を具えている。(乃至)十界は必ず身土において実在する」と説明している。また、「実相の深理とは本有の妙法蓮華経のことである」と説かれている。
伝教大師は「一念三千とは自受用身のことで、自受用身とは、尊形を出た本有無作の仏である」と説かれている。
この故に、未曾有の大曼荼羅と名づけるのである。釈尊滅後二千二百二十余年の間には、この御本尊は、未だ出現しなかったということである。)
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・ 只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、
是を九識心王真如の都とは申すなり、
十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、
曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり」
(この御本尊は、絶対によそに求めてはならない。ただ、我ら衆生が、法華経を信受し、南無妙法蓮華経と唱える身体全体に、いらっしゃるのである。
これを「九識心王真如の都」というのである。
十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界に存在しているということである。
これによって、御本尊を曼陀羅というのである。
曼陀羅というのはインドの言葉であり、訳すれば輪円具足とも、功徳聚ともいうのである)
「只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」
(この御本尊も、ただ信心の二字に収まっているのである。
「信を以って入ることを得た」とあるのは、この意味である。)
草木成仏口決(有情に題目を唱えられている瞬間においてだけ、即身成仏する:この瞬間に有情の即身成仏も同時に成る)
「有情は生の成仏・非情は死の成仏・生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり、 其の故は我等衆生死する時塔婆を立て開眼供養するは死の成仏にして草木成仏なり、」
(また有情は生の成仏・非情は死の成仏である。生死の成仏というが有情非情の成仏のことである。そのゆえは、我等衆生が死んだ時に塔婆を立てて開眼供養するが、これが死の成仏であり、非常草木の成仏である。)
「一念三千の法門をふりすすぎたてたるは大曼荼羅なり、 当世の習いそこないの学者 ゆめにもしらざる法門なり、天台・妙楽・伝教・内にはかがみさせ給へどもひろめ給はず、一色一香とののしり惑耳驚心とささやき給いて・妙法蓮華と云うべきを円頓止観と・ かへさせ給いき、」
(一念三千法門を振りすすいで立てたのが大曼荼羅である。当世の習いそこないの学者等が、夢にも知らない法門である。天台・妙楽・伝教も内心にはこのことを知っていたが、外には弘められず、ただ「一色一香も中道にあらざるものはない」とか「無情に仏性があると聞いて、耳に惑い心に響くのである」などといって、南無妙法蓮華経というべき円頓止観と言葉を変えて弘められたのである。)
「されば草木成仏は死人の成仏なり、此等の法門は知る人すくなきなり、所詮・妙法蓮華をしらざる故に迷うところの法門なり、敢て忘失する事なかれ、」
(ゆえに草木成仏とは死人の成仏をいう。これらの甚深の法門は知る人が少ない。所詮、妙法華経の元意を知らないところからくる迷いである。以上の法門を忘れてはいけない。)
御本尊はもったいなくも元は草木であられ、御本仏日蓮大聖人の御生命がそのまま顕現されているゆえに、仏界の当体であり、一切衆生に仏性を顕現させる対境となるのですが、ここでは、
「草木成仏は死人の成仏」「塔婆を立て開眼供養」と仰られている通り、
草木自体(非情=死人)は、有情に南無妙法蓮華経と唱えられて初めて、成仏するとのことです。
だから「塔婆を立て開眼供養」が必要となるし、このとき成仏するのは題目を唱えた「有情のみ」と唱えられた「非情のみ」とが一体(境智冥合)となることです。
つまり、それ以外の成仏は”ありえません”。
科学的に見れば、非情の即身成仏が、自身に向かって題目を唱えられている時間以外に及ぶこともなければ、題目を唱えない人にまで及ぶこともありえません。
つまり、”せっかくのご本尊も、ただ存在しているだけでは、自身はもとより、ご本尊の即身成仏も無い”わけです。一般に配布されている御本尊から戒壇御本尊すべてについて確かな法理です。
「此等の法門は知る人すくなきなり」とは、まさしくこのことかも・・・、
そして、これを公開されないことで、神秘主義が生まれ権威を利用する輩が出現する・・・
このことも、大聖人は想定内でした。その後も、開目抄・観心本尊抄を著され、人が題目をあげてこそ、人・法共に尊しと、何度も強調されています。
開眼の意義も、ここに顕されているように思えます。
科学的に見れば、開眼する対象だけでなく、開眼する本人のみに、その成仏の功徳は限られているといえましょう。
開眼(=唱題)する人の「信心」が、すべてを決定するようです。
これは、御書にはいたる所に説かれています。
「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書 P0919)
(このような尊い日蓮を用いたとしても悪しく敬うならば国は亡びる。)
「過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべしとて 礼拝の行をば立てさせ給いしなり、法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん 仏性ありとてかくの如く礼拝し給う
何に況や持てる在家出家の者をや、
此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり、
或は「若実若不実」とも説かれたり、
之れを以つて之れを思ふに 忘れても法華経を持つ者をば互に毀るべからざるか、
其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり」松野殿御返事(十四誹謗抄)P1382
(過去に、不軽菩薩は、一切の衆生には、全て仏性がある。法華経を持つならば必ず成仏する。その一切衆生を軽蔑することは、仏を軽蔑することになる、と言って、一切衆生に向かって礼拝の修行を行ったのである。
彼は法華経を持っていない者でさえも、もしかしたら持っているかもしれないし、本来仏性があると見抜いて、こう敬い、礼拝したのである。
まして、法華経を持っている在家・出家の者においては、当然に尊敬しなければならない。
法華経第四の巻の宝塔品第十には「もし、在家の人であれ、出家の人であれ、法華経を持ち、説く者に対して、一言でも謗るならば、その罪報の多大さで言えば、釈迦仏を一劫の間、面と向かって謗った罪よりも重い」と説かれている。
あるいは普賢菩薩勧発品第二十八に「もし事実にしても、あるいは事実でないにしても、法華経を持つ者を謗れば、罪は重い」とも説かれている。
これら経文に照らして考えれば、絶対に法華経を持つ者を、互いに、そしってはならない。
その理由は、法華経を持つ者は、必ず、みな仏であり、仏をそしれば当然に罪をうけるのである。)
これのすべてを満たしていれば、文証において、即身成仏は実現することがわかります。
以上、文証の引用が長くなってしまいましたが、これらを基礎にして、これから論文形式です。
大自然の法則も、書く人によって意味が違ったら、正しい法則とはいえない。
1+1=2でもシュレディンガーの波動方程式でも、小学生が書いてもアインシュタインがかいても、意味は同じである。
人や時代や場所が変わっても同じ。
一万円札も、幼児が持っていても大富豪が持っていても、効力は変わらない。使う人の能力によって得られる価値が変わる。
こういうことを、一般化といって、道理であり理証なのである。
御本尊と言っても、成仏といっても、道理であり理証だから、上記のような説明ができるはずである。つまり、
御本尊の内容(=大自然の法則)が同じならば、書く人が違っても、同じ。
同じ御本尊なら、誰が拝んでも、成仏はおなじ。差が出てくるのは、拝む人の信心の差である。
御本尊の内容や意味(=大自然の法則)が同じならば、構成材料や媒体・製造方法などの過程、時代や場所、人物には関係なく、同じ成仏が得られる。
これが論理的に成り立たなければ、道理とは言えない。
ここで、この証明として、科学的思考で、次のような思考実験を行ってみました。
上記条件を満たす、ある宗派のある法主が、日蓮大聖人御真筆の御本尊と日興上人御真筆の御本尊を拝んだ時、即身成仏の内容に差異はあるか?
血脈=南無妙法蓮華経=信心が同じであれば、同じ。
日興上人御真筆の御本尊と日目上人御真筆の御本尊を拝んだ時、即身成仏の内容に差異はあるか?
血脈=南無妙法蓮華経=信心が同じであれば、同じ。
以下、代々の法主の顕された御本尊の、どれを拝んでも、血脈付属の法主の顕された御本尊である限り、
血脈=南無妙法蓮華経=信心が同じであれば、同じ。
代々の法主が顕された御本尊は、すべて、観心本尊抄での条件を満たしている。数多く残存する。
法主の信心が同じであれば結果が同じであることは、
結果としての即身成仏は、御本尊の多様な形式には依存しないものである。
法主も一切衆生に含まれ、末端の信者も同様であるから、
この定理は、法主を末端の信者に置き換えても、成り立つ。
そうでなければ普遍性を欠き、絶対的法則とはいえない。
これを定理1とする。
次に、同じ御本尊に題目を唱える場合、法主の唱える題目=南無妙法蓮華経と、末端の信者が唱える題目とでは、結果としての即身成仏が異なってくると考えられるが、視覚情報等が同じであるから、その差異は信心の厚薄によってであって、これのみである。
(・・・ただし御信心によるべし)宗祖は、これ以外に条件を述べられていない。
これを定理2とする。
以上の定理1と定理2より導かれる結論として、
定理3:末端の信者が、御本尊に題目を唱える場合の結果としての即身成仏は、宗祖から歴代法主の御本尊のどれを拝んでも同じであり、信心の厚薄のみに影響される。
ある宗派の法主が、自身が顕された御本尊と、視覚情報等が同じである御本尊=自身が顕された御本尊を別の紙に印刷した御本尊(末端の信者に下付する御本尊)を拝まれた場合、結果としての即身成仏は同じか異なるか?
この場合も、血脈=南無妙法蓮華経=信心が同じであれば、同じ。
これを定理4とする。
すると定理3と定理4より、
法主から末端の信者に至るまで、真筆だけでなく、それを別の紙に印刷した御本尊も含めて、即身成仏は同じ結果である。
これを定理5とする。
法主が、御本尊に向かって題目を唱える場合、生物学的には、印刷した御本尊の相貌が、眼球から眼識を伝わり感応する。
他の条件が同じで、この御本尊の相貌と全く同じ画像情報が、液晶画面から得られた場合、結果としての即身成仏はどう変化するか。
これも、血脈=南無妙法蓮華経=信心が同じであれば、同じ。視覚情報等が同じであるからである。
これを仮説6とする。
すると定理5と仮説6より、
法主から末端信者に至るまで、液晶画面から得られた御本尊情報であっても、その御本尊に向かって題目を唱える場合、すべての場合において御本尊からえられる視覚情報等が同じであるから、得られる即身成仏の結果は、信心が同じであれば同じである。
この定理7は、いまだ仮説であるが、現証がともなってこそ定理となる。
デジタル御本尊は、液晶画面から得られ、ITが一般化した現在においては、経済的にも時間空間的にも極めて低コストで実現できる。
即ち、現在に至ってデジタル御本尊は、全ての人類へ公平平等に成仏を実現するという宗祖日蓮大聖人のご趣意ご意向に最も沿った、世界広宣流布達成への手段の一つと成り得るものである。
日蓮大聖人は、御本尊の書写の形式について、具体的に指示されている形跡は残っていない。それどころか、大聖人は多様な形式の御本尊をしたためられている。
御本尊が多様であることについては、東北大学文学博士渡辺喜勝氏の詳細な研究が参考となる。氏が、文字マンダラの世界―日蓮の宗教 渡辺喜勝 (著)1999年3月の最後のほうで、「マンダラ形式の多様さ」「自著」は、大聖人の、信仰の指導者としての強烈な自己表出である」「本尊が信仰者にとって唯一絶対のものであるかぎり、指導者が信徒に対して御本尊の多様性を提示すること自体かなり異様なこと」で、「根元的に「本尊」においてさえ「接物」を示したこと」を、「比類なき」大聖人の「独創性」であるとしている。
日興上人の顕された御本尊の多くは、日蓮大聖人の御真筆の御本尊を忠実に真似て書写されていた。
科学は、条件=原因が同じであれば結果は同じ。
成分が同じ薬なら、だれが合成しようがだれが調合しようがだれが処方しようが、得られる薬学的結果は同じである。
これを相違があると主張することは、科学的論議ではないく、相違があるならば、大自然の方程式=宗祖が顕わされた南無妙法蓮華経そのものが誤りということになる。
信仰を科学する場合、信仰の内容・対象が同じであれば、信仰する人が変わっても、同じ信心であれば同じ結果を得るとするのが定理である。
つまり、上記の定理・仮説がすべて正しいとすれば、その条件をみたせば、得られる即身成仏の結果は、信心の厚薄のみに影響され、それ以外の条件は関係がないことになる。
しかし、同じ信心である条件を複数・同時に集めることは、一念三千の法理上、現実的に不可能なので、この定理を科学的に実証することは不可能である。
だから、この部分においては、難信難解、難解之法唯仏与仏乃能究甚であり、信をもって智慧に代えることが重要で、もはや、このことは宗祖が何回も仰せのごとくである。
信をもって智慧に代えることにより、誰でも仏になれる法則である。ましてただ一人の血脈に頼ることもない。信をもって誰でも血脈を受け継ぐことができるのである。
神秘主義や様々な化儀、教学も、信心を深めるために団結、切磋琢磨の場として発現する効果を増幅する。
しかし、それらは、あくまで、信仰を深め、信心を深める手段=即身成仏および現実の変革への手段として意義あるものであり、化儀、教学そのものが目的ではない。
信仰としては、根本的には、信じることをもって智慧に代えること=以信代慧が、科学的には最大の飛躍となる。
しかし、せっかくこの障壁を信によって克服しても、その信の対象が、イワシの頭であったり、これに類するものであっては、一時的な幻想的恍惚的満足はありうるだろうが、現実に救済などあるはずもなく、その蘇生・改革の妨げとなるばかりか、行きつく先は無間地獄であろう。
御本尊は、日蓮大聖人の指定された相貌の要件をみたせば仏力・法力は具わる、それに信力・行力が境地冥合して結果が出る。これこそ道理でしょう。
即身成仏=境智冥合には自身の「胸中の肉団」、信心の「血脈」の有無こそが、すべてを分けることになるでしょう。
つまり、結論として、創価学会配布の御本尊は功徳がある。対立している日蓮正宗配布の御本尊は功徳がある。その上、互いに対立相手の御本尊を交換して拝んでも功徳はある。
そして、書写するのも、相貌を満たすような各自の芸術感覚を駆使したオリジナル(自作)本尊も功徳があることになる。IT・AI時代が進むにつれて出現されるだろう。
さらに、ネットや人工知能の発達する時代空間において、たとえば色心不二・依正不二を説く仏法が、インターネット時空に広宣流布していく姿に思いを馳せてみました。
宗祖の時代にITが整っていたら、いかばかりだっただろうか?
問う。南無妙法蓮華経の題目による、インターネット空間での成仏はあるのだろうか。
答える。ある。
問う。いかなる文証によってか。
答える。草木成仏口決にある。
問う。その様相は?
答える。宗祖の意向に沿う曼荼羅御本尊がWEB上に出現する。
この御本尊の住するWEBにアクセスし、モニター上に御本尊が出現する。
お守り御本尊はスマホ上に出現される。
この御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱えると、草木成仏口決に説かれている如く、唱えた人と、唱えられたモニターを含むシステム一式が、境智冥合により即身成仏する。
問う。曼荼羅御本尊の図顕が宗祖の意向に合っているということは、誰が何の権限で決めるのか。
答える。前述した御金言にしたためられた内容を満たしていればこれで足り、それ以外の制限などは必要ないのである。
大聖人御自身で「全く日蓮が自作にあらず」とされている如く、久遠元初から決まっていた御本尊だから、大聖人が指定された上記の内容のみ適合すればよいのであって、これ以外ではない。
具体的には、文字の色や台紙の材料や大きさ、規模、種々の宝飾やアートなども自在であり、まして、誰が書いたとか、どの印刷機で刷られたとか、どこのWEB上にアップされているかなんてことも、宗祖は「弟子檀那等」以外は一切規定がないので、あくまで、上記の内容のみ合って入ればよい。
そして、それに合っているかなんて、そもそも自身の五感で判断すれば容易ではないか。
そのように判断できるように、末法の凡夫にでも分かるように、宗祖は上記の如く仰られているのではないか。
誰でも仏になれる法則である。
問う。座談会・幹部会など会合は?
答える。組織のWEB上にアクセスして、ネット会議を行う。
WEB曼荼羅御本尊が、各3Dモニター上部のウィンドウにご出現あそばされている。
参加者をサイバー空間で放映する。参加者はWEBカメラの実像でもアバターでもよい。
決意発表や指導も、ウィンドウ上で、WEB通信され、参加者からのアクセスもフリーで行われる。
参加者と会場がWEB空間で、WEB御本尊とともに一体となる。
もちろん、会合の規模や参加人数等に物理的制限はなく、開催場所も世界中で行われ、どこでも参加可能であり、入場・退場も移動整理する必要などなく、瞬時に行われる。車いす専用空間なども必要ない。
問う。結婚式や葬式は?
答える。上記の会合と同様に行い、儀式とする。
あらゆる演出が可能である。
問う。回向は?
答える。個人WEB上に個人の墓所を設け、そこに塔婆を立てて、その上部のウィンドウにご出現あそばされたWEB曼荼羅御本尊に向かって、南無妙法蓮華経と唱える。
問う。勝手にコピーしたら、著作権上の問題があるが、どうか。
答える。御真筆などは、既に著作権が切れている。どうしても、その時代の特定の法主や会長の指定した御本尊を拝みたければ、諸条件に随うしか方法がない。
これは、アイドル写真やファンクラブチケットと同じ類である。
現実に破和合僧を起こしている、いわゆるニセ本尊とかの真偽論争等は、大自然の法理からみれば無意味であり、これこそ末法の無明を象徴しているのではないか。
そもそも、宗祖が万人の成仏を願い、全宇宙に総与された御本尊=南無妙法蓮華経に対し、ちっぽけな著作権や登録商標などを主張するとすれば、これこそ万人の成仏を妨げて私腹を肥やそうとする堕地獄の邪義である。
仏であり人を謗すれば罪になる。破和合僧は、五逆罪のひとつで、阿鼻地獄行きである。
成仏は、根本的には自身の信心で決まるものであると認めるべきで、相貌が同じでも自宗の御本尊以外では成仏できないというのは謗法である。
宗祖の御金言通り、一刻も早く、「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を」実現できるよう、願って止みません。
おわりに、参考文献等をコメント欄へアップいたします。