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『間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに』を読んで振り返る私のうっとうしい高校時代

こじらせ読書記

間違ったサブカルで「マウンティング」してくるすべてのクズどもに (コア新書)

タイトルの通りであり、本を読んだ感想にかこつけた読む価値のさほどない自分語りだが、こじらせ読書の2冊目である。

『勉強できる子卑屈化社会』読んだときと全く同じであるが、私は「サブカル」ではなかったんだ!ということがわかってとてもスッキリとしたのでそのまとめです。

「サブカル」が何かわからない私は「サブカル」ではないらしい

この本には結構明確な「サブカルの定義」が出てきて、それは「町山智浩さんが紹介してきたもののうち、岡田斗司夫さんが紹介しなかったもの」ということなのであるけど、その後は体系立てて「これがサブカルだ!」と押し付けるというより、サブカル界隈の個別の事象についてロマン優光さんが意見を述べる、という構成になっているので、憚りながら町山智浩さんも岡田斗司夫さんも「おもしろいおじさん」としてしか知らない私には結局「サブカルってなんだ?」というのはわからない、という結果になった。「サブカル」という言葉も「おたく」という言葉も蔑称だった時代にそれらを押し付けられて複雑な気持ちになったというロマンさんの過去などとてもおもしろいのだが、それらの時代をまったく知らず、ロマン優光さんが「サブカル」と定義するものをほとんどまったく知らないという私は、あ、サブカルじゃないのだな、というのは結構早い段階で確認できた、という感じである。

ただ、私が知ってるひとについての言及から逆算して考えるに、以下のようなことは言えるのではないかと思った。

  • みうらじゅんはサブカルではない=万人受けするポップな表現をしているひとはサブカルではない
  • 久保ミツロウはサブカルではない=「マイナーなミーハー」はサブカルではない

つまり、サブカルとは、「ポップでミーハー的なカルチャーのカウンター」として存在するものである、ということだ。

イヤな奴は単なるイヤな奴

ここで、ロマンさんが「マイナーなミーハー」を「サブカル」と区別していることに個人的にはとてもスッキリとして、なにかというと、もろに高校時代の私がそれにあてはまるからだ。前述の『勉強できる子〜』にもちらっと出てきて「あるある」と膝を打ったのだが、勉強できる子はテレビを中心とする「大衆向けメディア」から”おまえらはお茶の間の対象外”と宣告を受けているために、「大衆向けメディアが扱わないもの」へと興味関心を向けがちである。私の場合それはラジオ番組の『ミュージックスクエア』(中村貴子さんがパーソナリティーだった時代。懐かしいなぁ)で、ラジオで流れている「めっちゃいい曲」がオリコンチャートに入ってこない、クラスの誰も話題にしないことについてなぜか闘志を燃やしており、「打倒オリコン、打倒エイベックス(なんでエイベックス)」とわけのわからない闘い方をしている3年間であった(うっとうしい)。さらにうっとうしいことには、そういった「マイナーなミーハー」ファンにとっては、応援しているインディーズバンドがメジャーデビューすることは恐怖であり、Mステに出た翌日にクラスで話題になったりすると「にわかファンめ」と必要以上に恨みを募らせるものなのである(自分も所詮ミーハーなのにね)。のだけど、「そうやって自分もニワカのくせに間違ったマウンティングしてくるのがサブカル」というようなレッテル貼りをする必要はなくて、イヤな奴は単なるイヤな奴なのである、ということが、この本の中でも述べられている。ロマンさんが対象にしているものと私が対象にしているものが違うので趣旨がずれてるかもしれないが、この「単なるイヤな奴」という言葉にも、私はとてもスッキリとした。私は単に強すぎる権威欲にからめとられたうっとうしい奴だったのである。たとえ何を好きになったとしてもそういう傾向は変わらなかったであろう。かわいそう。

町山智浩さんという人について

それを踏まえた上で、「ポップでミーハー」なもののカウンターとしてのカルチャーは、多くの場合、権威主義にからめとられがちである、ということは言えるのではないかと思う。「マイナーなミーハー」をサブカルと分けるからには「カウンターとは、単にメジャーかマイナーかというような数の問題ではない」ということなのであって、 「これがサブカルである」と言うためにはなんらかの権威が必要になるからだ。だからこその「町山智浩さんが紹介してきたもののうち、岡田斗司夫さんが紹介しなかったもの」という定義付けになるわけだ。

ここで町山智浩さんについてなのだが、この本の中では「いつまでも夢見る少年のままでいたがるサブカルおじさん」として町山さんを批判することにかなりのページ数が割かれているのだが、本の出た時期から考えるに、そこで菊地成孔さんとの間で繰り広げられた映画『セッション』をめぐる論争について「だけ」一言も触れられていないのはなにか意図的なものがあるのかしら、と感じた。その論争がどんなものだったかは各々調べていただくとして、私は菊地さんが内山さんを評して書いた「ジャイアンの顔をした保安官」という言い方がずっと心に残っていた。というのも、それまでの私の町山さんに対する印象というのは(女のマニアックな趣味は男の影響、などの発言をもとに)いつまでも中二病を患っているような「SNSでついやんちゃしてしまうおじさん」という、どちらかというとロマンさんのほうに近いもので、「保安官」というのは真逆のイメージだった。しかし、最近のやまもといちろうさんがらみの諸々を見て、「保安官としか言いようがないな……」と感じるに至っている。あの論争を斜め読みした人からすると、菊地さんのほうこそが「ジャズファンとしてマウンティングしてきてる」というふうに読めるのかもしれないのだがそれは大きな勘違いで、あの中でも出てきたが、2007年の石川県七尾市で開かれた「日本ジャズ教育サミット プレ大会」がいかに権威主義的でファックだったか(パネリストとして呼ばれたのに終始中指を立てていた)ということを繰り返し書いているように、そういうものからは最も遠いひとである(だからこの本の中には一切登場しないのであろうか)。

あの頃書いた「正直な文章」について

うっとうしくて単にイヤな奴だった高校時代、私は猛烈に文章を書いていた。それらは主に校内の文集などに堂々と残っていてそれを思い出すと絶望的な気持ちになるのであるが、そのうちのひとつが当時のロッキング・オン・ジャパン誌に載っている。人生で生まれて初めてもらった原稿料が(株)ロッキング・オン、というのはそのときのことである。そのような恥ずかしくて死にたくなるような過去をなぜ今さら暴露しているかというと、最近勇気を出してそれを読んでみたら、私の記憶にあるような「私の考える本当に素晴らしい音楽オールタイムベストを今ここでお前らに教えてやろう」というような絶望的なものではなくて、もっとかなり正直な気持ちを吐露したものであったからだ。というのも、すでに東大に向けて受験勉強を開始していた当時の私は、自分が他の子よりいくぶん恵まれた環境で生まれ育っていて、かつ先生に敷かれたレールの上をそれほどの抵抗もなく進んでいることを自覚していた。当時の私たちにとって「生き延びるためのツール」としての音楽は、バンプ・オブ・チキンであり、椎名林檎だったりしたのであるけれど、そのように順調に権威主義的な社会を突き進んでいる私が、そのカウンターとして渾身の想いが込められた音楽を、好きだという資格が果たしてあるのか?というようなことを書いていた。なんという七面倒臭い文章。しかし、非常に面倒くさくて非常にリアルな、すごくイヤな奴としての17歳の気持ちがそこにはあったので、当時を思い出して少し涙が出た。

 

このあと高校を卒業していよいよ大都会、トーキョーへやってきた私は、そこでいろいろとこじらせを深めた挙句、権威主義の総本山ともいえるような(?)東京大学文学部思想文化学科美学藝術学専修課程(長い)へと進んでしまうのであるが、その話はまた別の本を読んだあとに。

 

 

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