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見つかった鎌倉時代の摂津国の荘園杭瀬荘の「下地中分絵図」。朱線で細かく分けられている(西田友広助教提供)
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見つかった鎌倉時代の摂津国の荘園杭瀬荘の「下地中分絵図」。朱線で細かく分けられている(西田友広助教提供)

 鎌倉時代に摂津国の荘園杭瀬荘(現在の兵庫県尼崎市杭瀬付近)の一部を、領主の東大寺(奈良市)側と、幕府が任命した地頭とで折半したことを示す絵図「下地中分(したじちゅうぶん)絵図」が見つかり、調査をした東大史料編纂(へんさん)所の西田友広助教(日本中世史)が16日までに明らかにした。

 絵図は東大寺宝珠院が所蔵し、西田助教が昨年、内容を確認した。杭瀬荘の一部地域が寺と地頭とに朱線で細かく分かれ、西田助教は「当時の土地支配や社会を考える上で貴重な史料」としている。

 西田助教によると、鎌倉時代には年貢の徴収や治安維持を担う各地の地頭が、土地の領主と現地の支配を巡って対立することが多く、解決手段の一つに双方で土地を分ける「下地中分」があったという。同様の絵図は伯耆国東郷荘(鳥取)、伊予国弓削島荘(愛媛)、薩摩国日置北郷(鹿児島)の3例しか確認されておらず、近畿では初めてという。

 西田助教によると、見つかった絵図は幕府の法廷で争った東大寺法華堂と杭瀬村の地頭が、1318年に和解して土地を折半、支配地域を明確にするために作られた。短冊状に並ぶ耕地を十字に4分割して対角線上の2カ所ずつをそれぞれの土地としていた。周辺の湿地帯も分けている。

 耕地には、実際に土地を耕し年貢を納める責任者の名前も記されており、西田助教は「土地を巡る複雑な権利関係が分かる」としている。

 調査成果は3月末に刊行予定の編纂所の紀要27号に掲載される。

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