次の記事が話題になっているから、勢いで書いてみる。あまり推敲はしていない。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170323/k10010921091000.html
30代に成した業績が評価されて、30代後半には学部でもっとも若くして教授になったくらいだから、自分で言うのもなんだけど、優秀な部類だと思う。
いや、優秀だったと、過去形で書くべきか。
なによりも重要な「研究時間」の減少がひどすぎて目も当てられない。
僕自身の論文生産性も低下の一方で、今後、以前のようにまた増えるなんてことは、まったく想像できない。
natureで言われている研究費減少の影響も大きいが、まずは研究時間が無いことにはどうにもならない。
別に論文が出なくなってもクビになるわけでも給料が減るわけでもなく、他の教授に何か言われることもない。
そんな生ぬるい環境だからこそ、自分の研究の価値を信じて、自らを奮い立たせる気持ちこそが研究の原動力と言っても過言ではない。
残念ながら、僕自身は研究時間が取れなくなるにつれ、モチベーションがすっかり低下してしまったので、昔のようには研究成果を上げ続けることができない。
一度低下してしまったモチベーションを再び上げることはとても難しいことのように感じる。今更何を言われようが、以前のようには頑張れないと思う。ダメな大学教員がこうして一丁上がり、といったところだ。
なぜモチベーションが低下したのか。研究以外の不毛な業務が多すぎるからだ。
10年以上にわたって、「あなたの研究よりも、試験監督の方が重要な業務だ。あなたの研究よりも、文科省のご機嫌を取ることの方が大事だ」と言われ続ければ、まあ、そうなんだな、と自分を納得させないとやってられない。
センター試験の監督に駆り出されて丸二日何もできずに立っているだけの時間を過ごして、「こうしている間に、海外の研究者に遅れをとってしまう」と、ジリジリ焦っていたころは若かったなと思う。
だいたい、10年以上に渡ってジリ貧で斜陽な社会にいると、人間と言うのは頑張るのを諦めてしまうものだ。
自分で言うのもなんだが、たとえば実験用のプログラム開発の能力など、そこらへんの大学院の学生の10倍か数十倍の生産性がある自信がある。
だけど、今ではその生産性の低い学生(留学生含む)を手厚く面倒みながら、自分は事務書類に追われ、試験監督したり、クラス連絡会とかオリエンテーションとか企画して、引きこもりで出てこない学生の両親に電話相談したり、大学説明会、オープンキャンパス、市民講座とかに駆り出され、はては高校訪問などの営業までやらされているのだから、まあ専門能力の無駄遣いかな、もったいないよねとは思う。
僕よりも、もっと偉い教授陣が集まる教授会で何が議論されているかと思えば、やれ大学改革だ、グローバル化だ、大学院授業の実質化だ、オープンコースウェアだ、アクティブラーニングだ、学位プログラム化だ、単位互換制度だ、デュアルディグリーだと、文科省の顔色をうかがいながら、申請書作成やら制度設計に明け暮れ、めでたく予算が当たった暁には、今度は膨大な業務に押しつぶされ、ホント自分で自分の首を絞めているようにしか見えない。
「私が君たちの年代のころは、のんびり気楽なもので、楽しく研究ができたものだ。今の若者は気の毒な気がするけど、まぁ、これからも頑張ってくれ」
今更 natureで特集されて、じゃあこれで何か良くなるかと言うと、ますます尻を叩かれて、エビデンスに基づく業績評価とかが強調されて、さらに報告書の項目が細かくなるとしか思えない。