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卒業式のためにスーツを買う理由。

 高校生の頃から、社会人の先輩各位がどうして花見や忘年会を催しているのか、不思議で仕方なかった。しかし、四年生になり、自分より先輩は働いてるし、同期や自分も就活やら院試やらで忙しくなって、その理由が分かった。人間は忙しくなると理由がないと会わないし、会えないのだ。そんな状況下で誰かに会うための理由として花見とか忘年会とかは便利なんだなーと気付いた。季節に紐づく会う理由は先延ばしに出来ないから、会うために日常のあれやこれやをどうにか片付けようと思うのである。

 

 なんだかんだ大学四年生の一年間は忙しく、僕自身、これまでの大学生活に比べて会う人は減った一年間であった。そんな一年間の最後の三ヶ月に定期的に友達と会う理由が毎週あった。その理由が先日、最終回を迎えることになった「カルテット」である。周りからの「見なきゃいけない!」という連絡により、四話目頃に一気見することで放送分に追いついたのだが、周りにカルテットを見てる友達が多かったこと、人と感想を語りたかったことから、カルテットを見てる友達のチャットグループを作成した。そのグループの中の人で集まれる人を毎週火曜日22時に我が家に集めて、カルテットを観る会を毎週行っていた。毎週毎週、僕以外は初対面の人間が集まり、ドラマを観て感想を交換し合う様子は愉快であった。テレビを見るために集まるという、テレビ創世記の街頭テレビの時代かのような状況を見て、「これが果たしてNetflixYouTubeであったら実現するのだろうか?」と不意に思った。恐らくは実現しないであろう。「いつでもどこでも観れる」という自由さは人を集めづらいだろう。ましてや僕以外は初対面の人間なんて集めることは難しいだろう。「カルテットを観る会」は火曜日22時から放映されるという決められた時間であったこと、そして四月には放送が終わってしまうこと、更には観てすぐに感想を話したいこと、それらの条件が揃ってたからこそ、成立した集まりなのである。季節に紐づく理由と同じく、この会もまた有限であり、時間が過ぎ去れば二度とは再現されないことがわざわざ集まる力になっていたのである。

 

 ともすれば、過ぎ去って行く何かには人を動かさせるエネルギーがあるのかもしれない、と思いながら、今日はスーツを買った。似合わないからスーツなんて大嫌いな自分が明日の卒業式で着るために青山まで出向いた。「卒業式なんて儀式的なものだし、大した面白い行事でもなかったね」と先日、卒業式を終えた友達がカルテットを観る会で話していたけれど、ほんとその通りなんだろう。だけども、大学生活も卒業式ももう二度と訪れない。もう誰かと肩を揃えて何かから卒業するなんてことすら二度とないかもしれない。そういった有限性、再現不可能性が自分にこの行動を喚起させるのだろう。つまりは何かが終わって行くことは寂しいことだが、終わっていくからこそ、何かに奮い立たされ、人生が回転していくのではないだろうか。
 
僕は世俗的で平板な社会に旅立つことにするよ。
青春よ、アデュー。

 

 

 

 

 

 でもやっぱり全然卒業したくねーーーーーー!!!!もっと勉強したいし遊びてーーーー!!!って本音では思う。