実際、デリダの文体は詩的な凝集感よりは、散文的(=小説的)な拡散感を強く感じさせます。小説を読むようにデリダを読むこともおそらく十分に可能でしょう。そんなわけで、デリダ的テクストの快楽に入門するための6冊を紹介します。
読みづらさの果てのどんでん返しを求めて
エクリチュールと差異 (叢書・ウニベルシタス)
作者 | ジャック デリダ |
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出版社 | 法政大学出版局 |
出版日 | 2013年12月24日 |
1967年に原著が刊行されたこの論文集は、デリダの初期の仕事を幅広くまとめたもので、彼の哲学の根幹にかかわるキーワード群(エクリチュール、差異、痕跡など)がすでにはっきりと姿を見せている点でも、やはり最初に読むべき一冊であると言えるでしょう。もっともかなりの大著なので、いきなり通読しようとするのではなく興味を惹かれた論文からつまみ食い的に読んでいくやり方が推奨されます。
最初の論文「力と意味作用」において、構造主義を時代の知的流行としてしか理解しない人々への反論をまずは述べつつ、構造主義的態度が無反省に前提するある種の透明性へのデリダ自身による批判をも示唆することによって、構造主義(特にその文芸批評への適用としてのヌーヴェル・クリティック)をひとつの夢として肯定的に解釈し直すための議論のラインが描き出されるその様子を確認してみるだけでも、デリダが一般にその思索において対象と取り結ぶ関係が一筋縄ではいかない、二重三重のものになりがちであることが、直観的に把握されることでしょう。
他者とテクスト上で関係する際の、その関係の仕方の複雑さこそがデリダの読みづらさの主たる原因なのです。
また、「コギトと狂気の歴史」におけるミシェル・フーコーへの批判は、フーコーの怒りを買ってその後論争に発展していくわけですが、そこでもデリダの書き方(文体)の奇妙な屈折や韜晦が、書かれた批判の内容以上にフーコーを苛立たせたであろうことが十分に推測されます。むろん内容においても、フーコーが立てた「古典主義的理性(コギト)」と「狂気(沈黙)」の対立図式に抗して、まさにデカルト的コギトのうちに潜む狂気としての誇張(hyperbole)の契機を指摘する点などには、際立った批判のポテンシャルが認められるでしょう。
読みづらさの果てに出現するこうした解釈上のどんでん返しにこそ、デリダを読むことの快楽があるのです。
最初の論文「力と意味作用」において、構造主義を時代の知的流行としてしか理解しない人々への反論をまずは述べつつ、構造主義的態度が無反省に前提するある種の透明性へのデリダ自身による批判をも示唆することによって、構造主義(特にその文芸批評への適用としてのヌーヴェル・クリティック)をひとつの夢として肯定的に解釈し直すための議論のラインが描き出されるその様子を確認してみるだけでも、デリダが一般にその思索において対象と取り結ぶ関係が一筋縄ではいかない、二重三重のものになりがちであることが、直観的に把握されることでしょう。
他者とテクスト上で関係する際の、その関係の仕方の複雑さこそがデリダの読みづらさの主たる原因なのです。
また、「コギトと狂気の歴史」におけるミシェル・フーコーへの批判は、フーコーの怒りを買ってその後論争に発展していくわけですが、そこでもデリダの書き方(文体)の奇妙な屈折や韜晦が、書かれた批判の内容以上にフーコーを苛立たせたであろうことが十分に推測されます。むろん内容においても、フーコーが立てた「古典主義的理性(コギト)」と「狂気(沈黙)」の対立図式に抗して、まさにデカルト的コギトのうちに潜む狂気としての誇張(hyperbole)の契機を指摘する点などには、際立った批判のポテンシャルが認められるでしょう。
読みづらさの果てに出現するこうした解釈上のどんでん返しにこそ、デリダを読むことの快楽があるのです。
デリダの明晰なパロールに学ぶ
ポジシオン
作者 | ジャック デリダ |
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出版社 | 青土社 |
出版日 | 情報なし |
原著は1972年出版。初期の一連の仕事が発表され、脱構築というデリダの基本的な方法論的立場が定まってきたところで、その内実を広い読者に向けて平易に解説することを目指して編まれた対談集。
パロール(話し言葉)においては、エクリチュールにおけるのとはうって変わって、デリダの説明は一貫して明晰な印象を与えます(実際にはエクリチュールのほうでも、特に初期は、明晰な論理性が示されているのですが――厳密すぎる留保や場合分けの身振りがそれを隠してしまっているということは考えられるにせよ)。
第一の対談「含蓄的からみあい」では脱構築や差延といった基本的な用語の解説がなされ、また第二の対談「記号学とグラマトロジー」では、フェルディナン・ド・ソシュール以降の構造主義的記号論の企てとデリダのグラマトロジー(文字学)の試みとがどのような点で異なっているのかが詳述されており、入門的なテクストとして有益です。第三の対談「ポジシオン」ではより状況論的な文脈(具体的にはマルクス主義との関係)におけるデリダ自身の立ち位置の問題が語られるとともに、『散種』におけるより文学的なエクリチュールの実験についての言及がなされます。
パロール(話し言葉)においては、エクリチュールにおけるのとはうって変わって、デリダの説明は一貫して明晰な印象を与えます(実際にはエクリチュールのほうでも、特に初期は、明晰な論理性が示されているのですが――厳密すぎる留保や場合分けの身振りがそれを隠してしまっているということは考えられるにせよ)。
第一の対談「含蓄的からみあい」では脱構築や差延といった基本的な用語の解説がなされ、また第二の対談「記号学とグラマトロジー」では、フェルディナン・ド・ソシュール以降の構造主義的記号論の企てとデリダのグラマトロジー(文字学)の試みとがどのような点で異なっているのかが詳述されており、入門的なテクストとして有益です。第三の対談「ポジシオン」ではより状況論的な文脈(具体的にはマルクス主義との関係)におけるデリダ自身の立ち位置の問題が語られるとともに、『散種』におけるより文学的なエクリチュールの実験についての言及がなされます。
根源の代補へと向かうジェットコースター的試論
声と現象 (ちくま学芸文庫)
作者 | ジャック・デリダ |
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出版社 | 筑摩書房 |
出版日 | 2005年06月08日 |
エドムント・フッサールの初期の著作である『論理学研究』第一部において記号の概念に関してなされた、のちの現象学的還元につながっていくような区別、すなわち「指標」と「表現」という二つの側面の区別を取り上げるところから出発して、フッサールの現象学がもつ「現前の形而上学」としての性格を明るみに出してゆき、またそこに音声中心主義的な諸前提を読み込んでいく試み。
その作業が直線的に突き詰められていった結果、最終章の「根源の代補」では、「自らが語るのを聴く」ものとしての意識、自己への現前の構造それ自体に穿たれた現前の欠如を代補するものとしての記号あるいは痕跡の運動自体が深く省察され、ヘーゲル的絶対知の閉じられた円環の彼方で開始されるべき、差延およびエクリチュールの思考が宣言されることになります。
原著の出版は1967年。デリダの初期の理論的三部作のなかでも最も手堅い、「ガチな」哲学研究の体裁で仕上げられています。分量的には短いので、初めての通読には適していると言えるでしょう。ちくま学芸文庫版が訳注が充実しており、おすすめです。
その作業が直線的に突き詰められていった結果、最終章の「根源の代補」では、「自らが語るのを聴く」ものとしての意識、自己への現前の構造それ自体に穿たれた現前の欠如を代補するものとしての記号あるいは痕跡の運動自体が深く省察され、ヘーゲル的絶対知の閉じられた円環の彼方で開始されるべき、差延およびエクリチュールの思考が宣言されることになります。
原著の出版は1967年。デリダの初期の理論的三部作のなかでも最も手堅い、「ガチな」哲学研究の体裁で仕上げられています。分量的には短いので、初めての通読には適していると言えるでしょう。ちくま学芸文庫版が訳注が充実しており、おすすめです。
科学哲学的内容を含んだデリダの処女作
幾何学の起源 新装版
作者 | ["エドムント・フッサール", "ジャック・デリダ"] |
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出版社 | 青土社 |
出版日 | 2014年08月22日 |
言わずと知れたデリダのデビュー作(原著は1962年出版)。フッサールが晩年に執筆した手稿である「幾何学の起源」を翻訳したうえで、デリダ自身が付した長大な序文が本書です。
内容は、数学(特に幾何学)の定理の明証的な意味が、権利上、時間的にも空間的にも普遍的な真理であることを要求する客観的なものであるにもかかわらず、事実上は、特殊的な歴史のなかに存在する誰か(幾何学者)の主観的体験のうちで生成するものである、ということのパラドックスをめぐる歴史哲学的な思弁です。
例として、ピタゴラスの定理を思い浮かべてみましょう。直角三角形の斜辺の長さの二乗がその他の二辺の長さをそれぞれ二乗したものの和に等しいというやつです。このピタゴラスの定理は、歴史上地理上のどの点で発話されたとしても、真なる意味を有します。つまり具体的な歴史の運動から独立した、理念的な意味を有しています。
だから権利上は、ピタゴラスの定理はピタゴラスによって発見されなかったかもしれない、と言うことが可能なのです。しかしながら事実としては、ピタゴラスの定理は、ピタゴラスじゃないかもしれないにせよ、歴史上の誰かによって発見されたものとしてのみ存在し、そのようなものとしてしか私たちのもとには届けられることがない、つまり歴史的なものなのです。このことをどう理解するか。
デリダは、フッサールが問題にしたこの幾何学的明証性のうちに潜む理念的対象性について、それを歴史のうちで相対化して捉えるのでも客観性そのものの条件として絶対化するのでもなく、歴史と客観性のそれぞれの可能性を開くものとして、エクリチュールの次元から捉え直すことを提案します。そこでは、理念それ自体に含まれる歴史性、記憶と想起の条件としての根源的な忘却こそが、哲学的に思考されることになるのです。
このように『声と現象』と似た問題意識を持ちつつも、本書はより科学哲学的な内容を含んでおり、そのためデリダの基本的な狙いさえ押さえておけば、本書をある種のハードなSF小説として読むことも可能でしょう。
内容は、数学(特に幾何学)の定理の明証的な意味が、権利上、時間的にも空間的にも普遍的な真理であることを要求する客観的なものであるにもかかわらず、事実上は、特殊的な歴史のなかに存在する誰か(幾何学者)の主観的体験のうちで生成するものである、ということのパラドックスをめぐる歴史哲学的な思弁です。
例として、ピタゴラスの定理を思い浮かべてみましょう。直角三角形の斜辺の長さの二乗がその他の二辺の長さをそれぞれ二乗したものの和に等しいというやつです。このピタゴラスの定理は、歴史上地理上のどの点で発話されたとしても、真なる意味を有します。つまり具体的な歴史の運動から独立した、理念的な意味を有しています。
だから権利上は、ピタゴラスの定理はピタゴラスによって発見されなかったかもしれない、と言うことが可能なのです。しかしながら事実としては、ピタゴラスの定理は、ピタゴラスじゃないかもしれないにせよ、歴史上の誰かによって発見されたものとしてのみ存在し、そのようなものとしてしか私たちのもとには届けられることがない、つまり歴史的なものなのです。このことをどう理解するか。
デリダは、フッサールが問題にしたこの幾何学的明証性のうちに潜む理念的対象性について、それを歴史のうちで相対化して捉えるのでも客観性そのものの条件として絶対化するのでもなく、歴史と客観性のそれぞれの可能性を開くものとして、エクリチュールの次元から捉え直すことを提案します。そこでは、理念それ自体に含まれる歴史性、記憶と想起の条件としての根源的な忘却こそが、哲学的に思考されることになるのです。
このように『声と現象』と似た問題意識を持ちつつも、本書はより科学哲学的な内容を含んでおり、そのためデリダの基本的な狙いさえ押さえておけば、本書をある種のハードなSF小説として読むことも可能でしょう。
西洋思想史におけるエクリチュールの地位をラディカルに問い直す
グラマトロジーについて 上
作者 | ジャック・デリダ |
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出版社 | 現代思潮新社 |
出版日 | 2012年06月25日 |
原著が1967年に出版された『グラマトロジーについて』は、一篇の試論としては、初期三部作のなかで最大の分量を誇り、またそこでなされるソシュール批判や、クロード・レヴィ=ストロース批判、そしてジャン=ジャック・ルソー読解が孕む批評的かつ理論的な射程の大きさを考慮するならば、デリダの前期思想における最大の達成とみなすべき書物でしょう。
第一部「文字以前のエクリチュール」においては、ソシュールの一般言語学における記号の二つの側面としてのシニフィアン/シニフィエ(意味するもの/意味されるもの)という基本的な区別が、ラング(言語)とパロールとのエクリチュールに対する優越と並び、西洋形而上学の諸前提を温存し反復するものであることが指摘され、その安定性を根源的に揺るがすものとしてのエクリチュールの学、すなわちグラマトロジーの到来が(さまざまな迂回を経て)予告されることになります。
そういった本筋と別のところでも、たとえば第三章「実証科学としての文字学」が、17世紀から18世紀にかけてライプニッツらが取り組んだ普遍言語(ないし普遍記号法)のさまざまなプロジェクトについて、漢字やヒエログリフに関する当時の西洋の知識と併せて簡単な概観を行っており、好事家的興味をそそります。
『グラマトロジーについて』は一種の批評書として読むことも可能で、その場合、第一部を原理論、第二部を作品論として見立てることができます。要約気味に言えば、レヴィ=ストロース批判においてもルソー読解においても、自然と文化の対立を脱構築するものとしてのエクリチュールということが示唆されています。
つまり、自然状態における人間が享受するとされる生きた意味の体験に対して、文明化の手段としてのエクリチュールが暴力を働き、これを文化あるいは社会の名のもとに棄損する……というエクリチュールへの先入見に対するデリダ自身の挑戦がそこには刻まれているのです。
そのようなわけで、デリダのロゴス中心主義や音声中心主義批判のロジックにある程度慣れ親しんできたら、第二部のルソー論を単独で、脱構築の批評的応用の一例としてじっくり読み込んでみることをおすすめします。デリダの鍵概念である代補が、まさにルソーのテクストから取られているという基本的事実を確認するとともに、それが特にルソーによる恋愛に関する記述のなかでどのように作用しているのか(そしてそれをデリダがどのような手つきで解釈していくか)を見ることは、きわめて意義深いことでしょう。
第一部「文字以前のエクリチュール」においては、ソシュールの一般言語学における記号の二つの側面としてのシニフィアン/シニフィエ(意味するもの/意味されるもの)という基本的な区別が、ラング(言語)とパロールとのエクリチュールに対する優越と並び、西洋形而上学の諸前提を温存し反復するものであることが指摘され、その安定性を根源的に揺るがすものとしてのエクリチュールの学、すなわちグラマトロジーの到来が(さまざまな迂回を経て)予告されることになります。
そういった本筋と別のところでも、たとえば第三章「実証科学としての文字学」が、17世紀から18世紀にかけてライプニッツらが取り組んだ普遍言語(ないし普遍記号法)のさまざまなプロジェクトについて、漢字やヒエログリフに関する当時の西洋の知識と併せて簡単な概観を行っており、好事家的興味をそそります。
『グラマトロジーについて』は一種の批評書として読むことも可能で、その場合、第一部を原理論、第二部を作品論として見立てることができます。要約気味に言えば、レヴィ=ストロース批判においてもルソー読解においても、自然と文化の対立を脱構築するものとしてのエクリチュールということが示唆されています。
つまり、自然状態における人間が享受するとされる生きた意味の体験に対して、文明化の手段としてのエクリチュールが暴力を働き、これを文化あるいは社会の名のもとに棄損する……というエクリチュールへの先入見に対するデリダ自身の挑戦がそこには刻まれているのです。
そのようなわけで、デリダのロゴス中心主義や音声中心主義批判のロジックにある程度慣れ親しんできたら、第二部のルソー論を単独で、脱構築の批評的応用の一例としてじっくり読み込んでみることをおすすめします。デリダの鍵概念である代補が、まさにルソーのテクストから取られているという基本的事実を確認するとともに、それが特にルソーによる恋愛に関する記述のなかでどのように作用しているのか(そしてそれをデリダがどのような手つきで解釈していくか)を見ることは、きわめて意義深いことでしょう。
言語と思考の関係性というテーマに集中した論文集
哲学の余白〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)
作者 | ジャック デリダ |
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出版社 | 法政大学出版局 |
出版日 | 情報なし |
1972年に刊行された論文集。表題の語についてのデリダ自身による集中的註釈の試みである「差延」や、ハイデガー論「ウーシアとグランメー」、ヘーゲル論「竪坑とピラミッド」、ヒューマニズム批判としての「人間の目的=終わり」など、そのタイトルを列挙していくだけでも本書が必読であることは明らか、と言いたくなるような一冊です。
1967年の三部作の出版によって思想界に衝撃を与えたデリダが、以降さまざまなシンポジウムに招かれて行った発表を元にした論文が多く収録されているため、初期デリダの議論に親しんだうえでそれを復習するのには最適な書物と言えるでしょう。
内容面で見ていくと、本書におけるデリダの狙いは基本的に、言語と思考の関係性というテーマに集中しているように見えます。
たとえば「繋辞の代補」では言語学者エミール・バンヴェニストの議論が取り上げられて、言語の構造が思考を制約するという見方とその逆転(つまり哲学の歴史がそのような言語学的観点を逆拘束する事態)が語られ、「白い神話」では隠喩的な不透明性を逃れようとする哲学の言語というものが、いかにして再び隠喩の必然性を受け入れることになるかがそれ自体隠喩的な語り口によって暗示され、「署名 出来事 コンテクスト」では言語行為論のJ・L・オースティンへの批判として、マーク(記号一般)の反復および引用可能性によるコンテクストの混乱と、多義性に還元されない散種の状況が論じられます。
デリダのテクストはしばしば、核となる主張をあえて隠そうとするかのように、いくつもの留保や暗示を迷路のように張りめぐらし、冗長に展開していく傾向を見せます。しかしそのような振る舞い方がすでにそれ自体で、書くことへのデリダの愛を表現しているとは考えられないでしょうか。
この論文集のタイトルが暗示するように、デリダの哲学それ自体が、哲学史という巨大な書物に付随するひとつの余白とみなしうるものであると同時に、哲学史自体もまた、デリダの名をもつテクスト群を取り囲むひとつの巨大な余白とみなしうるものであるのです。
言うまでもなく、書くことへの愛そして読むことへの愛は、ただテクストの余白のなかにおいてのみ、書き込まれ、そして読み込まれることができるものであります。本書を、そのような愛を学ぶための入門書として位置づけることも、あながち間違いではないでしょう。
1967年の三部作の出版によって思想界に衝撃を与えたデリダが、以降さまざまなシンポジウムに招かれて行った発表を元にした論文が多く収録されているため、初期デリダの議論に親しんだうえでそれを復習するのには最適な書物と言えるでしょう。
内容面で見ていくと、本書におけるデリダの狙いは基本的に、言語と思考の関係性というテーマに集中しているように見えます。
たとえば「繋辞の代補」では言語学者エミール・バンヴェニストの議論が取り上げられて、言語の構造が思考を制約するという見方とその逆転(つまり哲学の歴史がそのような言語学的観点を逆拘束する事態)が語られ、「白い神話」では隠喩的な不透明性を逃れようとする哲学の言語というものが、いかにして再び隠喩の必然性を受け入れることになるかがそれ自体隠喩的な語り口によって暗示され、「署名 出来事 コンテクスト」では言語行為論のJ・L・オースティンへの批判として、マーク(記号一般)の反復および引用可能性によるコンテクストの混乱と、多義性に還元されない散種の状況が論じられます。
デリダのテクストはしばしば、核となる主張をあえて隠そうとするかのように、いくつもの留保や暗示を迷路のように張りめぐらし、冗長に展開していく傾向を見せます。しかしそのような振る舞い方がすでにそれ自体で、書くことへのデリダの愛を表現しているとは考えられないでしょうか。
この論文集のタイトルが暗示するように、デリダの哲学それ自体が、哲学史という巨大な書物に付随するひとつの余白とみなしうるものであると同時に、哲学史自体もまた、デリダの名をもつテクスト群を取り囲むひとつの巨大な余白とみなしうるものであるのです。
言うまでもなく、書くことへの愛そして読むことへの愛は、ただテクストの余白のなかにおいてのみ、書き込まれ、そして読み込まれることができるものであります。本書を、そのような愛を学ぶための入門書として位置づけることも、あながち間違いではないでしょう。
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