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第3章 風の吹く頃
未珠花は階段をかけあがる。目指すはもちろん、更衣室だ。どこに寄ることもなく、最短ルートをまっすぐ進んでいた。けれど、最後の一段でつまずき、こけてしまう。
瞬時に手をつき、顔面をぶつけることこそ免れたものの、膝をすりむいてしまった。ヒリリと痛い。
「ははっ、こんなところでつまずいちゃうだなんて。まったく駄目だな、今日の私は」
自分の声が、階段の踊り場にこだまする。続けざまに、和泉と西塚の言葉が頭をよぎった。
(受験勉強が激しすぎて疲れているのよ)
(だからさっきから変なことばっかり)
「……そんなことないもん」
未珠花は三階に足を踏み入れた。とぼとぼと歩を前へ進める。
西校舎の三階は静まりかえっていた。夏だというのに、どこか寒々しい気さえする。なるほど、三階は元々どこもクラブの教室に指定されてない。静かで当たり前といえば当たり前なのかもしれない。
「よかった、まだ鍵があいてる」
未珠花は女子更衣室に足を踏み入れた。なかはもちろん、誰もいない。がらんどうとしていた。
「もう紗耶香は行ってるよね。って、あれっ?!」
未珠花は更衣室の窓に近寄った。外の様子がどうも妙に感じたからだ。窓にはカーテンがついていないので、近づくだけで外をうかがえた。
「誰もいない……」
校庭は空っぽだった。そしてどの校舎の窓も、暗い色をしていた。なるほど、さっきまであんなに晴れていた空は、どんより曇りきっている。
未珠花は窓を押しあけ、身を乗り出してみた。
「なんで誰もいないんだろう。いつもなら、サッカー部とかが使っているはずなのに」
もっと身を前に出して、体育館前の方もうかがった。けれどそこにも、人のいる気配はない。
いつの間にか、学校全体がひっそりとしていた。
「まだ五時間目はじまってないのかな?」
未珠花はひび割れた掛け時計を見に行った。この時、彼女は窓を閉めるのをすっかり忘れていた。
古びた時計の示す時刻は一時八分。五時間目がはじまるのは一時五分からだから……。
「えっ、それじゃもうクラブ始まっているわけ?それにしてもなんで、チャイム鳴ってないんだろう」
言いしれぬ不安が彼女をおそう。
「もたもたしてる場合じゃない!はやくラケット持っていかないと」
自分自身に言い聞かせるように言った。
案の定ラケットは、自分や丸井の荷物をのせた机の下に、置き去りになっていた。手繰りよせて、肩にかける。
「ようし、レッツゴー!」
かけ声と共に、勢いよく走り出そうとしたところまでは良かった。が、何もない所でこけてしまう。
「ぐぎゃ!」
しかも今度は顔面から、派手にこけてしまった。床に積もった埃が舞う。
もう、自分を笑いとばす気にもなれない。ただただ情けない。未珠花は大きくため息をこぼすと、手をついて立ち上がろうとした。まさにその時、視野を横切るものがあった。
「……?!」
風に飛ばされてきたのだろうか、一枚の紙が目の前にすべりこんできた。しかもそれは、引き出しの奥にしまったはずの例の紙だったりして。
「うそ!」
未珠花は床を這う姿勢で、謎の紙に近よった。
「おかしいな、あれはちゃんとしまっておいたはずなのに。コラ君、どうやって来たんだ?」
浜名先生口調で問いかけてみる未珠花だか、もちろん相手は紙だ。理解不能な魔法光円が書かれてあるものの、紙であることに変わりない。質問に答えられるわけがない。
「天井から来たのかい?」
沈黙が続く。
「そっか、君は宇宙から来たのか…ってホントこれ、どこからどうやって来たのよ!」
一人ボケつっこみも、いい加減にしないとね。
「もー、気味悪いなぁ。どうしてこうも、私の目の前にしゃしゃり出てくるの?」
愚痴をつぶやく未珠花は、どこかふっきれたようにもみえる。
「知ーらなーい、こんな紙きれ。しょせん私には関係ないもの、ここでずっと埃にまみれていたらいいんだ」
更衣室の隅においやってやろうと、片足で紙にふれた、その瞬間だった。
チュイーン
妙な音がしたかと思いきや、ばっと青い光が放たれた。
「きゃっ!」
とっさに後ろに飛びのいた。恐る恐る、床に落ちたままの紙をのぞきこんでみる。そこには、信じられない光景が出来あがっていた。
紙の上にかぶさるように、薄い半球が出来上がっていた。その膜は半透明で、まるでしゃぼん玉のよう。その奥には、消せない線で書き込まれたあの魔法光陣が、まばゆい青色の輝きを放ってたたずんでいた。
「……きれい」
立体的な魔法光陣、それも本物を目にしたのは、これが初めてだった。もっと詳しく見てみたくなって、その場にしゃがみこむ。
光る魔法光陣は、紙からわずかに浮かびあがっていることがわかった。さらに、どうやらこの魔法光陣、半球に閉じ込められているようにさえみえる。小刻みにふるえているのが見てとれる。
好奇心にかられるまま、しばらくその様子を観察していたが、どうやら今のままでは何も起こらないよう。
ためしに、紙の角を指でつつき、揺さぶってみる。それでも何も変わらない。さらにそのまま、右手ですくいあげてみる。それでも何も起こりそうにない。
手のふるえを抑えきれずにいた。それでも、大きく息をすいこむと、左手の人差し指でそっと、半透明な膜にふれてみた。
ピーン
今度は、弦を爪ではじいたような軽い音がした。不思議と未珠花は驚かなかった。魔法の紙をちゃんと手の平で支えたまま、魔法光陣を見つめていた。
音がやむ。半球の頂点がひときわまぶしく光ったかと思えば、そこからまっすぐ光線がのびた。それは空間をつっきって、ちょうど前に置いてあった電子オルガンにとどいた。光線に促されるかのようにオルガンの蓋が開き、背後の黒板にぶつかって音をたてた。
バンッ
その時、世界がセピア化した。
正しくは、そうなったような気がした。
唖然と突っ立っている未珠花と、紙からのびる青い光。その光線の先に佇むオルガン。全体的に暗い教室と、むき出しになった窓。そしてそんな窓から見える、途切れ途切れの東校舎と……これらすべての一瞬が、まるで一枚の絵画のような、切り取られた空間をつくりだしたのだ。
未珠花は、鍵盤があらわとなったオルガンへ一歩、また一歩と近づいていく。彼女の目は輝いていた。ぞくぞくするような興奮があった。それらの感覚は、つい先程まで抱いていた恐れより、はるかに勝るものだったのだ。一時的ではあったものの。
オルガンを目の前に、ふと我に返る。
「これ、押しても別になんともないよね……ってか、なんかいろいろ怪しくない?」
そうつぶやく未珠花はいつも通り、慎重な性格そのものだった。
近づいてみてわかったのだが、青い光線はなるほど、オルガンの真ん中の音域、ドのシャープの鍵盤にまっすぐ伸びている。そして、黒色であるはずの鍵盤まで、ぼんやり青色に光っていた。
未珠花は迷った。
押してみたいなぁ。でももし、押してオルガンが壊れたりしたら、怒られるよね。まさか、この紙の魔法光陣のせいにしても、まず誰も信じてくれなさそうだし。でもでも、せっかくここまで来たんだ、やっぱり押してみたい。ちょっぴり触るぐらいだったらいいかな?
(さあ、押してみましょう)
未珠花の心の中で声がした。
「でっ、でも……」
(あなたは所詮、魔法の使えない自然人。魔法のオルガンの鍵盤を押したところで、ややこしい魔法はおきないわ)
「うーん。それでも私、魔法とか体験したことがないから、どんなことが起こるのかさっぱりわかんないし、ちょっと恐いんだよなぁ。私が大丈夫でも、オルガンを壊してしまうかもしれないし」
(もしさわってそれが壊れたとしても、誰も見ていないし平気よ)
「だけど、そんなぁ。誰にも見られていないからって、それでオッケーってわけないじゃん。もし大事になって、犯人探しがはじまったら?」
(それじゃぁ、話は簡単よ。オルガンのことなんか無視してさっさとクラブに行けばいいんじゃない)
「でも、そういうのもなぁ……せっかくの機会なのにっていう思いが」
「早く動いてよ。魔法がもたないわ」
「へっ?!」
未珠花は後ろをきっと振り返った。
「だれっ?」
彼女の問いに答えるものはない。空っぽの教室をただ、風が吹きまわっているだけ。
「今さっき絶対、誰かしゃべった……」
心の中の声が、いきなり具現化して耳に飛びこんできたかのような。
「もしかしてさっきから、誰かに見られている?」
それにしても不気味である。
「もう、こんなの放っておいて、行こう」
と言ってみはしたものの、やはり、光る紙とオルガンとを見ていればいるほど、鍵盤を触りたい思いが強まって仕方がない。
「やっぱりちょっと触れてからにしようっと」
葛藤の末、生まれながらに持っていたらしい好奇心が、勝利したのだった。
未珠花は左手の人差し指で、青く光るオルガンの鍵盤をそうっとなでた。
予想通りの音が響き渡る。
オルガンの音とともに、紙の上に出来ていた半球は、はじけて消えてしまった。紙に書かれた魔法光陣まで、色を失ってしまう。
しばらく口を閉じるのも忘れていた未珠花だったが、これ以上は何も起こらないことを察して、がっかりする。
「あんなに綺麗に光っていたのに、消えちゃった。今までのは、何だったんだろう?」
未珠花は紙を鍵盤の上に放り捨てると、オルガンから離れた。納得しきれない思いもあるが、今はとにかく早くクラブに行かなければ、と気持ちを切りかえる。自分が入ってくるときに通った、あの灰色の引き戸を開けようとした。
ガタッ ガタガタ…
しかし、いくら力をいれても戸はきしむばかり。さっぱり開かない。
「あれ、何で開かないんだろ」
外から鍵をかけられたか。でも、と未珠花はふと右斜め上を見あげた。壁に突き刺さっているフックの先には、鍵がひっかけられたまま。ここに鍵があるかぎり、外から鍵をかけることは出来ないはず。それじゃ、どうして……。
戸を叩いてみたものの、やはり廊下に人はいないもよう。反応が全くかえってこない。
後ろの引き戸は壊れて開かなくなっているから……閉じ込められた!
「誰か開けてよ、ねぇ!!」
未珠花は心の底から叫んだ。戸に体当たりをしてみたりもした。けれど、それでも開きそうになくて。
しまいには、戸に背を向けて座りこんでしまった。
「どうしよう」
今思えば、運動場に誰もいなかった時点で、自分は大きな異変に巻き込まれていたのかもしれない。未珠花は肩を落とした。
あーあ。どうしよう。何が起こったんだろう? まさかみんな、消えてしまったのだろうか? それとも私が、現実とそっくりな別世界へ迷いこんでしまったのか。どちらだろうと、このままでは確実に、クラブに行きそびれてしまう。あれほど心待ちにしていたのに。
「なんで私だけ……」
未珠花は、肩にかけていたラケットカバーを引き寄せ、抱きかかえた。惜しい思いがこみ上げる。まさか、クラブに行けなくなった第一の原因が自分自身にあるなどつゆ知らず。
カチカチカチカチ……
ふと、自分をとりまく奇妙な音に気づく。音の方へ目をやった未珠花の顔は、たちまち青ざめた。
「なっ、なにこれ!」
反射的に立ち上がり、それから離れる。彼女の視線の先には、あのひび割れたかけ時計があった。驚くのも無理ない、その時計の針は、恐ろしいスピードでぐるぐる回り出していたのだ。
「な、なんでバグっているの?!」
そのとき、足元が揺らぐのを感じた。下を見てあっと息をのむ。床が、黒く抜けていく。あわてて、木目のまま床が残っている場所に逃げようとして、足が止まった。そこにはあの電子オルガンが待ちうけていたのだ。
いつのまにか、オルガンの鍵盤はすべて青の光を放ち、輝いていた。その上は例の紙が浮いていて。紙の上には再び魔法光陣の像が、教室の半分を占めるほどまで巨大化して浮かび上がり、回りはじめていた。輝きを放ちながら。
このとき未珠花はようやく、自分がとんでもない魔法を起こすスイッチを押してしまったらしいことを確信したのだった。
バリバリバリッ
耳をつんざくような音が、部屋のあちこちから鳴り響く。途端に、窓からみえる景色が、窓が、天井が、机と椅子が、壁が、開かない扉が、壊れたかけ時計が、そして、オルガンの背後にある黒板まで――周りにある全ての物が、見えない力によってくしゃくしゃになり、暗闇の底へと沈んでいく。先を競うように。未珠花とオルガンだけをあとに残して。
「なっ、なにが起ころうとしているの?」
答えてくれる者などいない。藁にもすがる思いで、オルガンにしがみつく。悲鳴をあげた。
キャー………
―――――――――――――――――――――――――――――――
これは、六月三十日一時三十三分ごろ、とある小学校でのお話。クラブ活動はすでに始まっていた。体育館では、その半分をバスケ部が占領し、残りを卓球部とバドミントン部が分けあっていた。場所は狭いが、思い思いにクラブ時間を楽しんでいる。
コートの横では、二人の女子――西塚と丸井が小山座りをして、試合を観戦している最中だった。
「ねぇ、西塚ちゃん、」
「なぁに?」
西塚は、試合の様子を気にかけつつも、丸井の方をうかがう。丸井は話を続けた。
「未珠花の奴、遅くない? まだ来てないなんて」
「そういえば、来ないね。どうしたのかな?」
首をのばして、体育館のドアの方を見やった。ちょうどその時、ドアが開かれたところだった。
ドアの影から、体操服姿の女の子が現れる。熱血バスケ集団をよけながらも、こちらへ駆けてくる。
「あーっ、ようやく来た!」
丸井の一言で、バドミントンクラブ部員全員が、試合中だった子までふりかえった。
威厳をまとったバドミントン部の担任が、遅れてきた女の子に近づき、声をかける。
「珍しいわね。重上さんが遅刻するなんて」
「ごめんなさい。先生」
『重上』と呼ばれた女の子は、深く頭を下げた。
「どうしてこんなに遅れたの?」
「自分のラケットをいろいろと探していたのです」
「それで結局、なかったのかしら?」
確かに、彼女の手は空っぽだった。
「休み時間内に見つけられませんでした。遅れてしまって申し訳ありません」
「次からは遅れないように。皆に迷惑がかかるから」
「はい。もう遅れません」
「そうね。倉庫のラケット貸してあげるから、使いなさい。って、ちょっとそこ! なに試合やめてぼーっとしているの!」
コートにいた子たちは、この一喝に縮こまる。
「時間も場所もないのだからね! さっさと試合を続けなさい!」
先生の指示で、試合はすみやかに再開された。
かたや、女の子はというと、倉庫に残っていた古いラケットを持ち出したところだった。オニキス色の瞳をきょろきょろ動かして、辺りを見渡す。並んで座る丸井と西塚を見つけたらしい、まっすぐ歩み寄ってきた。
西塚がこれに気づき、声をかけた。
「重上ちゃん! 先生の機嫌がまだよくて助かったね」
「うん。心配かけてごめんね」
ボロボロのグリップに、女の子はため息をつく。
「それにしても、どこだろう? 私のラケット。クラブが終 わったらまた探しなおすけど、見つからなかったらどうしよう…………」
丸井は親身になってなぐさめた。
「そんなに思いつめるなって。今度はきっとみつかる。私も一緒に、未珠花のラケット探すから!」
西塚も後に続いた。
「私も探すの手伝うよ! みんなで探せば、案外早く見つかるかもしれないね」
「そうだね、ありがとう」
彼女の表情に笑顔がもどる。
丸井はさっきからずっと立っている女の子のズボンをひっぱった。
「ねぇ、未珠花? 今はとりあえず座って、観戦しようよ。ほらあそこ、和泉ちゃんが試合しているところ」
「あ、ほんとだ!」
『未珠花』と呼ばれた女の子は平然と、二人のとなりに腰をおろしたのだった。
試し読み版は、この第3章で終わりとなります。
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