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 山梨県の旧上九一色村富士ケ嶺地区(現・富士河口湖町)にあったオウム真理教の教団施設に強制捜査が入ってから、22日で22年になった。13人が死亡し6千人以上が負傷した地下鉄サリン事件など多くの事件を起こした教団の施設のあった場所は現在どうなっているのか。訪ねて歩いた。

 1995年3月22日、警視庁は富士ケ嶺(ふじがね)地区のオウム真理教の施設を捜索した。元オウム真理教対策副委員長、竹内精一さん(88)は自宅で「やっと我々の苦労が報われた」と感慨にふけった。だが、強制捜査の日は地下鉄サリン事件のわずか2日後。カナリアを持ち、防毒マスクを装着した捜査員を見て、「サリンの危険がある。とにかく地域の人、信者を避難させないといけない」と慌てたことも覚えているという。

 教団が富士ケ嶺地区に初めて土地を取得したのは89年。村発行の「闘争の軌跡」などによると、95年までに計4万8184平方メートルの土地を得て、三十数棟の建物を建てた。当時人口1700人ほどの村に、多いときは約800人の信徒が暮らした。

 甲府市中心部から車で1時間と少し。国道139号を静岡県との県境手前で左折すると、牧草地が点在する富士ケ嶺地区に着く。牛の姿が見え、眼前に富士山が裾野まで広がっていた。

 2006年の市町村合併で「上九一色村」の名前は消え、教団施設「サティアン」はすでに取り壊されている。手がかりを得ようと以前の担当記者に紹介された岡本法恵さん(88)の自宅を訪ねた。「最近、耳が遠くなってきたんだよ」。そう言いながら、岡本さんは記憶をたどってくれた。

 ある日、入院先から自宅に戻ると、隣に大きな建物が立っていた。第9、11サティアンだった。地区内に教団施設ができ、「不気味な集団が出入りしている」と聞いてはいたが、「まさかこんなに近くにできるとは思ってもみなかった。他人事じゃなくなった」。建物はあっという間に増えていった。サリンの製造工場だったことがのちにわかる第7サティアンは、自宅から約200メートルのところに建てられた。

 実態を知るため、岡本さんは出入りする若者に声をかけ続けた。「今日は何するんだ」。「今日はワークです」と返事がくることもあった。脱会しようとする若者をかくまったこともあるし、逆に自宅に盗聴器を仕掛けられたこともある。連れ戻しにきた若者の親が訪ねて来たこともあった。

 「ここに入り口があった」「ここに門番がいつもいた」。岡本さんに案内されて歩いたが、跡地は更地ばかり。人の背丈ほどのススキをかき分けると、信徒が作った道や地下水のくみ上げポンプが残っていた。

 岡本さんは強制捜査のあとも、…

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