・たとえば、である。
「昨日、とうちゃんが死んだ。
1年前にシロが死んだときのほうが悲しかった。」
と書いてあったとしたら、それは「詩のことば」である。
これが「社会のことば」であったとしたら、
とうちゃんが亡くなったことを、
悲しくないように言ってはいけないのである。
しかも、それを犬だか猫だかの死とくらべているのは、
ますますいけないことであろう。
世の中には「詩のことば」と「社会のことば」がある。
アクション映画で、悪いやつがタバコを吸っていて、
その吸い殻をそこらへんに投げ捨てる。
それは「詩のことば」で描かれたものである。
そして、クルマに乗って走り去るのだけれど、
もちろんシートベルトはしない。
この行為も「詩のことば」で語られているのだ。
でも、悪いやつだからといって、映画だからといって、
シートベルトをしないで運転するのはいけないからと、
その悪い男がシートベルトをするなら、それは、
「社会のことば」で語られたものになる。
「詩のことば」は、自由なのである。
ほんとうは、自由であるはずだけれど、
やや、そうでもないかもしれないという気もする。
だから、思うだけで発せられない「詩のことば」もある。
「ぼくらは自由だ」というのは、「詩のことば」だ。
「ぼくらは自由だ」という「社会のことば」もある。
「あいつを傷つけたい」という「詩のことば」もあるし、
「あいつを傷つけたい」という「社会のことば」もある。
泣きながら語られる「社会のことば」もあったりする。
冷静に、鬼のように語る「詩のことば」もある。
世界から、どんどん減っているのは「詩のことば」だ。
すべてが「社会のことば」であっても、世界は成立する。
だけれど「詩のことば」がなくなっていくと、
それは、ただ「世界」ではあるのだろうけれど、
「人間の世界」じゃなくなるようにも思う。
それはいやだな、人間だものな。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
詩の材料になるのは「沈黙」なのではないだろうかと思う。
「昨日、とうちゃんが死んだ。
1年前にシロが死んだときのほうが悲しかった。」
と書いてあったとしたら、それは「詩のことば」である。
これが「社会のことば」であったとしたら、
とうちゃんが亡くなったことを、
悲しくないように言ってはいけないのである。
しかも、それを犬だか猫だかの死とくらべているのは、
ますますいけないことであろう。
世の中には「詩のことば」と「社会のことば」がある。
アクション映画で、悪いやつがタバコを吸っていて、
その吸い殻をそこらへんに投げ捨てる。
それは「詩のことば」で描かれたものである。
そして、クルマに乗って走り去るのだけれど、
もちろんシートベルトはしない。
この行為も「詩のことば」で語られているのだ。
でも、悪いやつだからといって、映画だからといって、
シートベルトをしないで運転するのはいけないからと、
その悪い男がシートベルトをするなら、それは、
「社会のことば」で語られたものになる。
「詩のことば」は、自由なのである。
ほんとうは、自由であるはずだけれど、
やや、そうでもないかもしれないという気もする。
だから、思うだけで発せられない「詩のことば」もある。
「ぼくらは自由だ」というのは、「詩のことば」だ。
「ぼくらは自由だ」という「社会のことば」もある。
「あいつを傷つけたい」という「詩のことば」もあるし、
「あいつを傷つけたい」という「社会のことば」もある。
泣きながら語られる「社会のことば」もあったりする。
冷静に、鬼のように語る「詩のことば」もある。
世界から、どんどん減っているのは「詩のことば」だ。
すべてが「社会のことば」であっても、世界は成立する。
だけれど「詩のことば」がなくなっていくと、
それは、ただ「世界」ではあるのだろうけれど、
「人間の世界」じゃなくなるようにも思う。
それはいやだな、人間だものな。
今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
詩の材料になるのは「沈黙」なのではないだろうかと思う。
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