こんにちは!Renaです。今日は教育のお話です。
いい先生ってなんなんでしょう。
覚悟を持ってぶつ先生
私の母親は小学校の先生でした。
人気投票で全校2位になるほど児童に人気があったと自慢されたことがあります。
担任したクラスで、はじめ、児童たちから言われたそうです。
「僕たちが間違っているときは、ぶってください。きちんと叱ってください」
母は言われた通りしたと言っていました。
体罰として訴えられて教師をやめるなら、それはそのときだ。
自分は間違ったことはしていない。
後悔するようなことはしていない。
そう覚悟して教育に臨んでいたそうです。
理不尽に怒りをぶつけるのではなく、愛情と正しさを持って接していたのでしょう。
自分の母親ながら、そういう先生もある意味いい先生だと思います。
熱血先生
私が小学校を卒業する年の担任は、熱い人でした。
金八先生に憧れて教師になったと言っていました。
ただ、その熱さが空回りしていました。
クラスの仲を深めようと、当時流行っていた30人31脚に出場しようと企画したり、他校とのサッカー親善試合に向けた練習に熱心だったりしました。
先生が企画をすればするほど、クラスの仲はギクシャクしました。
他のクラスメイトが遊んでいる休み時間や放課後が練習のために強制的に潰され、それを良しと思わない児童と、どうしてクラスのために動けないのかと疑問を持つ児童とでクラスは断裂しました。
ついにはイジメが発生しました。
私もイジメられた1人だったのですが、熱血先生はイジメっ子と仲が良く、イジメというより単なる仲違いとして受け取り、話し合いの場を持ち、イジメっ子の側に付きました。
カリキュラムが終わらなかった
話は変わりますが、私は小学校のカリキュラムを終えずに卒業しました。
「クラスの親睦を深める行事」に熱心だった先生はそれらに時間を割きすぎて授業が進められませんでした。
最後の授業で、「教科書のここから後のページは中学に行くまでに読んでおいてください」と言われ、私はこのとき決定的に先生が嫌いになりました。
先生の本分は教育、それも学問をすることであって、それをないがしろにしてまで「思い出作り」をしようとした担任が解せませんでした。
中学に入った時に苦労を強いる教師はいい教師でしょうか?
記憶に残らない先生
「記憶に残らない先生がいい先生だ」
という言葉を聞いたことがあります。
学生時代を振り返った時、友達やクラスメイトの顔や思い出は浮かんでも、教師はどんなだったか思い出せないのがいい。
きっとそうなのだと思います。
基本的なことー学問や生活指導ーを普通に行うと、特別記憶に残らないことになるはずなのです。
けれど、その基本的なことを普通にこなすことが難しい。
現実では、先にあげた熱血先生のように、児童・生徒に変な意味で擦り寄って学問を疎かにする先生が居たり、
逆に友達よりも親しくなって存在感で溢れる先生が居たりします。
いざという時に味方になってくれる先生は頼もしいですが、同世代の友達より親しくなって記憶に残ってしまう成人の先生というのは、よくよく考えるとおかしなものです。
さいごに
色々例を挙げましたが、私がいい先生だと思うのは、学問をできるだけの基礎知識と指導力のある先生です。
金八先生じゃない。
私たちが学校に行く一番の理由は勉強です。
生涯私たちを支える財産を得るために学校に行っています。
「思い出作り」「友情を深める」もわかりますが、そういうのは意図して企画しなくても、自然と同じ学び舎にいれば生まれてくるものです。
教師がお膳立てして作った友情なんて本物じゃない。
また、逆に言えば基礎知識も指導力もない先生は、教師として失格であると思います。
アメリカの首都はニューヨーク、と言った教師にも出会いましたが、私は内心鼻で笑って軽蔑しましたし、間違った知識を子供に授けることの恐ろしさをこの教師は知りません。
「勉強だけ教えていればいいのか!?それはおかしい!!」
と思われる方もいらっしゃるでしょうが、子供たちが特段問題を抱えていなければ、それでいいです。
多分それが、記憶に残らない先生です。
(…誤解しないでいただきたいのですが、子供たちの問題を無視してまで、勉強だけ教える先生を良しとは言っていません。
問題があれば、母のように覚悟を持って臨んだり、子供たちに寄り添ったりする姿勢が必要と思います。)
あなたはどう考えますか?
記憶に残っているいい先生、嫌いな先生、思い出すこともできない先生。
今回私が話す上で無視した問題は多くありますが、何か考えるきっかけになれば幸いです。
教育は正解がないから、議論が活発になることが大切だと思うよ!
ではではciao!