この「諸命以」は、古事記を通じての大変重要な言葉です。
なぜかというと、我々が住むこの宇宙は、すべて創世の神々が造られたものであり、男女の根源神であるイザナキ、イザナミのニ神さえも、その創世の神々の「もろもろの命(みこと)」のまにまに、地球を造り、また生命を育んでいるということが、古事記のその前の段に書かれていて、それを受けての「諸命以」だからです。
つまり、すべての思考や行為行動は、ことごとく神々の命(みこと)のままにある、もしくは、あらねばならない、ということが、この三字「諸命以」という語に込められています。
これを、もうすこし砕いて言うと
「神のまにまに」
という言葉になります。
「まにまに」という言い方は、現代日本語では「〜ままに」という語に変化していてあまり用いられることはありませんが、もともとは「神々の御心のままに」という表現は、「神のまにまに」という言葉で言い表されていたものです。
この「神のまにまに」を漢字で書くと、「随神」、または「惟神」となります。
このように書いて、「かみのまにまに」と訓読みしたのです。
そしてこの二つ(随神、惟神)は、どちらも「かんながら」とも読みます。
つまり、
「諸命以」は「神のまにまに」であり、
「神のまにまに」は、漢字で書いたら随神、惟神であり、
「随神、惟神」は、どちらも「かんながら」と読むのです。
なんだかジャンケンポンみたいにややこしいですが、もともと大和言葉に「かみ」や「まにまに」、「かんながら」という言葉があり、あとからそれらの言葉に、もっとも意味が近いであろう漢字を当てたから、そうなったのです。
ですから日本語は、「漢字を輸入してからできた」というのは大きな間違いで、日本語(大和言葉)が先に確立されていて、後から漢字を輸入したから、このような現象が起きているのです。
さて、「随神」という熟語は、「随」という字が「〜のままに」といったことを意味する漢字です。
「惟神」にある「惟」という字は、「忄(りっしんべん)」が心臓を現し、「隹」は「維」と同じで「つなぐ」ことを意味します。
そこから「何かに心を繋ぎ止めて思う」という意味になり、神々と心を通じさせるという意味で「惟神」という熟語になっています。
ここからわかることは、私たち日本人は古くから、「森羅万象、あらゆるものは、神々によって創成されたと考えてきた」のです。
これを「神々」ではなく、「一柱の神が」とすると、キリスト教のような一神教になります。
我が国は、多神教の国ですから、ここを「神々の」としているわけです。
要するに、森羅万象、あらゆるものを造ったのは神々です。
ですからすべては、もともとは「神々のもの」なのだというのが、基本となる考え方になります。
一神教では、その唯一絶対神と人は、契約関係と説かれます。
対象となる神様が一柱ですから、そのような考え方が成り立ちます。
ところが日本では、多神教ですから、契約するといっても、ではどの神様との契約なの?という話になってしまいますから、「神との契約関係」というのは成立しません。
むしろ、「私たちは神々が造られたものを利用し、加工して、机や椅子や、本やノートやパソコンや自動車など、様々な加工品をつくり、利用させていただいているのだ」という思考に至ります。
そしてそこから、「人が作った」という考え方は傲慢だという考え方が生まれます。
あらゆるものは、神々がお造りになられたのです。
それを私たちが、生活を便利に豊かにするために、いろいろと加工して使わせていただいているのだと考えられてきたのです。
そしてそのように考えますと、「無から人が造った」ものなど、何一つないのです。
すべては神々からの借り物を、組み合わせたり加工したりして、使わせていただいているのです。
そういう理解が日本の文化の根底にあります。
もともとはすべてが神々のものです。
私たちはその神々のものを使わせていただいているのですから、使い終わったら、ちゃんと元通りにしてお返ししなければならない。
それができないのならば、できないようなモノは造ってはならないと考え行動する。
それが日本人の文化意識の根幹です。
形而上学的な考えや学問も同じです。
知識を得るということは、神々の知恵をいただくということです。
神々の知恵なのですから、粗略にしてはなりません。
学問をするということは、神々の知恵をお借りするということです。
ですから学ぶときは、姿勢をただし、背筋を伸ばして学びました。
そうすることが当然と考えられました。
最近では、幼児教育や小中教育で、「授業中姿勢を正す」ということが言われなくなりましたが、昭和30年代頃までは、まだ昔からの伝統が残っていて、授業中は背筋を伸ばして正しい姿勢で座ること、先生に指名されて立って答えるときは不動の姿勢をとること、立った姿勢で本を音読するときは、両手を水平にいっぱいに伸ばして教科書を持って音読すること、などが厳しく言われたものです。
最近では、ものを使い捨てにすることも、あたりまえになりました。
この「使い捨て」という文化は、戦後に日本にはいってきたものです。
戦後社会を慄然とさせたCMがあります。
昭和40年代のCMですが、自動車に乗って浜辺に着いた白人の若者たちが、車から降りて海に向かって走りながら、次々と着衣を脱ぎ捨てて行くのです。
そうして水着で海に入っていくのですが、これを観た子どもたちは、
「あんなことをして、脱いだ着物には、ちゃんと名前が書いてあるのだろうか」
「脱いだものを、たたまなくて良いの?」
「浜に脱ぎ捨てたりしたら、誰かに持って行かれて、帰りに困らない?」
「でも、かっこいいよねー」
などと、話題になったものです。
結局、使い捨て、脱ぎ捨ての文化が、日本を席巻していくことになるのですが、それでも私たちが子供の頃は、お年寄りから、
「ものを大切にしなければならない」
と、くどいくらいに言われました。
でも、加工して再利用できるものの方が、いまでは少ないし、しかもモノが豊富です。
気がつけば、燃やすこともできないゴミで、日本中、すっかりいまではゴミの山です。
すべては神々のものであり、私たちが授かっている命さえも、もともとは「諸命以」授かった命です。
その命を、何に使うのか。どう使うのか。
それが、人が生きるということなのかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。

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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。
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「神のまにまに」で思い浮かべるのは
道真公の
「このたびは 幣も取りあへず 手向山
紅葉の錦 神のまにまに」
です。
http://ameblo.jp/inukayh777/entry-12068851264.html
家の近所の天神様で、⬆︎の和歌を上げさせていただきました。
心の中で、「神のまにまにと詠まれた時には、まさかご自分が神様になられるなんて想像なさってましたか?」
とお尋ねしてしまいました。
ねず先生の百人一首や古事記を読ませていただくと、神様や歌人の方々が本当に身近に感じられます。
とても美しい言霊で書かれた伊耶那美様や
日本男子のお手本として書かれた須佐之男命様、ねず先生の古事記には、美しく立派に解説されてますので、ゆかりの神社で天神様と同じようにお知らせさせていただきたいものです(^.^)
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68632343.html