「ラ・ラ・ランド」を観て(良かった!)と思えなかった人に対し、ものすごい同調圧力がかかっているらしい……。

これを「だから日本は……」という風に日本の問題と捉えている人がいるけれど、実は同じことはアメリカでも起きています

僕が「ラ・ラ・ランド」の存在を知ったのは、去年10月に開催された、地元のミルバレー・フィルム・フェスティバルで、同作品がハイライトされていたからです。

ミルバレー・フィルム・フェスティバルは、ゴールデングローブ賞に向けて映画評論家の間での評判をじわじわ醸成してゆくためのプロモーションの場として重視されています。だから去年はエマ・ストーンもわざわざやってきました

ところで「ラ・ラ・ランド」はエル・エー(LA)、つまりロスアンゼルスの愛称のひとつです。加えて口語的には「アタマがお花畑的な世界に入ってしまっている人」を指して「彼女はいまラ・ラ・ランドに居る」という風に使う場合があります。つまり妄想的なほど、夢の目標が高い人を揶揄しているわけです。

主人公の男性は正統派ジャズに凝り固まっており、その黄金時代の再興を妄想しています。主人公の女性は女優になる夢を持っており、オーディションで次々に落とされて、悪戦苦闘しています。

つまりこの映画は、そういう若者たちの満たされない夢を求め、もがき、苦しむ様子を描いた作品であり、監督がいちばん撮りたかったのは、たんなる色恋沙汰では無いと思うのです。

だから結末が、ああゆう結末になるのは当然だと思います。

不思議なもので、人間、苦労をした時代の思い出は懐かしく、キラキラ輝いています。金銭的や安定という面からは現在の方が遥かに居心地が良くても、それは特段、楽しくないし、美しくも無いのです。

追憶は、後で振り返るからこそ甘酸っぱいのであって、いまそのもがき、苦しみの真只中に居る若者に、それが面白いわけありません。

作品中、グリフィス天文台とか、いろいろ過去のハリウッド映画の名場面を彷彿とさせるシーンが出てきますが、それはそういうハリウッドの黄金時代のイメージと二重写しにすることで、郷愁を強く喚起することを意図しているのだと思います。

だから「ラ・ラ・ランド」はジジ・ババのための映画なのです。

いい意味で。