2017年03月19日

教育勅語

教育勅語を信奉する政治家の問題が、変な形で脚光を浴びている。

ここで、その名を口にするだにおぞましいこの政治家の名をあげることは避けるが、それを追及する野党政治家も、教育勅語の問題を十分に把握できていない節があるので、今更とはいえ、この問題に少し触れておく。

愚かな政治家が、「朋友相信じ」とか「夫婦相和し」といった箇所は今もなお普遍的な価値理念を説いていると言うのに対し、野党は「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」の箇所が軍国主義につながったことだけが問題であるかのように立論する。

このような主張では、教育勅語のイデオロギー攻勢に十分に対決することはおぼつかない。この勅語制定の時から、できるだけ具体的な内容を組み込まず、誰でも、どんな宗旨の人にもさほど抵抗なく受け入れられるものにすること、言わばできるだけ内容空疎にすることは、注意深く意図されたことであったからである。

それはもともと道徳理念を説くためのものではなかった。

もし道徳理念を説こうとしても、それを「説く」ことによって教育することが可能であるかどうかは大いに疑問であろう。すでに定着している道徳理念であるなら、改めてそれを説教する必要はあるまいし、また定着していない「道徳理念」であれば、それは道徳理念でさえないだろう。

また道徳判断において議論の余地が生じる問題であれば、さまざまの観点から議論してみることこそが必要な道徳教育となろう。その際、とりあえず自明のものとして共有されことが期待されるものが「道徳理念」である。道徳教育が有り得るとすれば、「道徳理念」を植え付けることにではなく、道徳判断についての議論の仕方を身に付ける点にあるのである。

教育勅語の真の狙いは、このような議論を封鎖する点にこそあった。道徳的問題の一切が、お上から、上役から、上司から一方的に決定される、そうしなければならない。下からの疑問呈示は、一切封殺されねばならない。このような考えを、勅語という形式は示すものであった。

教育勅語は、その実際の運用形態を、総体として問題しなければならない。御真影とその宗教的遥拝という仰々しい儀式化によって、教育を政治的支配の道具として権威主義化したのである。この際、支配がとりわけ精神的支配、精神的去勢化を伴っていたことが強調されるべきである。

井上毅が教育勅語と師範学校制度を確立することを通じて、児童と帝国臣民から精神の自律性を徹底的に奪うにあたっては、それなりに深い考慮があったことが知られている(この点については、伊藤弥彦『維新と人心』参照)。

彼は、明治14年(1881)の政変を、10年後の憲法制定の約束と、北海道の国有地払い下げの撤回によって何んとか乗り切ったのち、人心の不安定性を何らかの宗教的権威によって収攬することを真剣に考えた。ヨーロッパの事情に詳しかった彼は、長期的な政治的安定のために、キリスト教に代わる精神的支柱が必要と考えていたのである。

ここから、儒教的価値の復古と並んで、勅語とそれをめぐる儀式を、人工的な一種の疑似宗教性として制度化しようと試みたのである。その際、いずれの宗派にも受け入れやすいように、勅語の内容をできるだけ空疎なものにするように努めたのだ。愚かな自民党閣僚が言うように、「夫婦仲良く」といった内容が、一見普遍的に通用する理念であるように見えるのはそのためである。

しかし、人為的に疑似宗教をでっち上げるという試みの不遜さと愚劣さは、実際には大きな精神的・倫理的荒廃を生むという形で、しっぺ返しされざるをえなかった。自律的判断を抑圧し、外から型を押し付けるだけの道徳は、結局倫理自体を掘り崩していくからである。

それは、内面に自由の余地を残すどころか、上辺だけを整える偽善を奨励し、内面を露骨なシニシズムに明け渡することになる。

ここから、「挨拶ができるか」とか「履歴書に誤字がないか」といった些末な形式主義が、常に道徳性の中核であるかのごとく児童を調教するという、よく知られた愚昧な光景が出来上がるのである。

このようなことの弊害は、すでに明治期から気づかれていた。伊藤弥彦氏は、修身教育の惨状について、明治36年・30年の『教育時論』から引用している。

総じて現今小学校に於ける修身教授の一大欠点は、児童をして嘘つきたらしめることだ。偽善者たらしむることだ、心にもあらぬことを言はしむることである。

強いて同情を有するかの如くに見せ掛け、感じ入ったる外見を装ひて、巧みに児童を欺罔せんとするも、慧眼なる児童は、疾くに、教師が胸中の弱点を看破して、一笑に附し去らんとす。そも何たる失態ぞ。(同p−266)

「軍国の兵士を育てるために役立った」というようなことは、諸個人から精神の自律や責任感を奪い、常に従順に上役の顔色をうかがうことをもって良心に代えてしまった害毒に比べれば、およそ非本質的なことにすぎない。もともと教育勅語の教育によって、良き兵士が育つはずもないのである。

実際、「息を吐くように嘘をつく」昨今の政治家の精神的空疎さは、まさにかつての勅語教育の遠い産物なのかもしれない。おそらくこの連中の周辺では、敗戦の反省も戦後改革も自由主義の洗礼も一切なかったかのごとく、鈍麻した教育勅語の精神が、どぶの水のように悪臭をたたえながら澱み続けてきたのであろう。



Posted by easter1916 at 03:27│Comments(0)TrackBack(0)

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