昨年、しばしば「〇〇が好きな奴は、バカ」という言葉を耳にした。それは、普段の会話の中、メディア、SNSで市民権を得たような表現になってしまっている。「〇〇」に入るのは、映画や、アメリカの大統領など、その表現対象は様々だ。
《目次》
みなさんは、「〇〇が好きな人ってバカ」という表現を使いますか?わたし自身としては、出来るだけ使いたくない表現です。それは、素朴な疑問があるからです。
「一つの作品、一人の人物、一つの趣味、それが、その人の人間性をあらわしているのだろうか」というものです。また、その乏しい情報で、人の知性、理性について、判断を下すことの危険性を感じています。
不特定の人を馬鹿ということ
この「〇〇が好きな奴は、バカ」という言葉の危険性について、少し考えてみたいと思います。この「〇〇」には、昨年ヒットした「君の名は。」や、アメリカを分断することになった大統領(候補)ドナルド・トランプが、その対象になりました。
わたしが、この「〇〇が好きな奴は、バカ」という表現の危険性を考えるとき、その攻撃の矛先が気になります。それは、直接的に作品や人物、趣味を攻撃するのではなく、それを嗜好する人々、支持者を攻撃していることです。
こうした表現を使う人々の論理は、以下のようになります。
①作品や、人物が気に食わない、「嫌い」だ
②それを嗜好、支持する人は「バカ」だ
③そんなバカな人たちが、好きな作品・人物は、「悪」だ
わたしは、こうした表現を使う人たちの目的が、作品・人物にたいする評価、批評から、不特定の他者を批判、そして、作品や人物を悪と決めることになります。
この循環的な論理を、端的に表しますと、「嫌」→「バカ」→「悪」といった感じになるのでしょうか。ここにあるのは、嫌悪の理論武装であり、感情を裏付けるための理論武装となるのだと思います。
留意したいのは、この表現を使う時に、ある種の「欠席裁判」のような状態であることです。それは、実生活では「君は違うけど、〇〇が好きな奴っているよね。そういう奴、ってどう思う?」といったような使い方、もしくは、SNS上では一方的に「〇〇は好きな奴は、バカ」だと言い放たれるのです。
それは、対話のない、「没交渉」の世界があります。つまりは、「言葉の通じない他者」が描かれることになるのです。不特定の他者を、話の通じない、言葉の通じない人間として、一方的に表すのが、「〇〇が好きな奴は、バカ」にあるのだと思います。
作品は、あなたをあらわすか?
ここで、わたしが疑問に思うのは、「観たり、好きになった程度の作品が、その人を表すことがあるのか?」ということです。監督や、作り手の人間性が、その作品に影響を表すことはあっても、それの受け手側に、そこまでの影響力があるのだろうかと疑問に思うのです。
そこには、「《〇〇が好きな自分》、《〇〇が嫌いな自分》を他人に認識されることが、自分である」という自己認識の過程があると思います。そして、それによってバカにされたくないという、自意識が存在するのでしょう。
それは、「自分という存在が、作品や人物によって表される」という、不思議な感覚が存在し、「〇〇が好きな奴は、バカだ」と使う人は、そうした「好きな作品が、人を表す」という強い信念があるようにも思います。
むしろ、作品や人物の影響力、存在感を、極限まで信用している状態なのではなかろうかと思うのです。だから、「〇〇が好きな人は、△▲」という方々は、すべからくクリエーター側、作り手側の立場にある方々なのだと思います。
自分の感性を疑うこと
最後に、「〇〇が好きな奴は、バカだ」という表現を使う人々にたいして、思うことを書きたいとおもいます。それは、彼ら/彼女らが、自分自身の感性について疑いを持っていないということです。それは、他者の感性を否定することに躊躇はなく、自身の感性を疑うこともないのです。
そのような状態は、むしろ、保守的な、柔軟性のない思考の状態なのではないか、と思うのです。時代は移り変わり、物事の隆盛により、作品や人物の評価軸自体が、動態的であるということも、留意せねばならないのです。
その昔、小説は社会的地位が低く、マンガも社会的地位が低かったことも、そのような評価軸自体が揺れ動いていることを表しているのだと思います。他者を「バカ」と決めつける前に、自分の感性を疑う姿勢も、重要なのではないかと、思うのです。