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2003 - May 1, 2003

青少年保護と表現の自由について

May 1, 2003 [ 2003 ] このエントリーをはてなブックマークに追加

講師:青柳武彦(国際大学GLOCOM主幹研究員)

1. 脳科学と神経生理学の発達

(1)自由への盲信

 本日は、脳科学と神経生理学における最近の成果を議論の前提として、お話しさせていただきたいと思います。昨今のコンピュータの発達のおかげで、脳科学と神経生理学は非常な発達をとげましたが、その応用分野がまだ十分には育っていません。私自身は大学で情報通信と、社会科学すなわち経済学、法律学、社会学、教育学などとの接点を広く学際的に研究しておりますので、本日のテーマにも密接な関係があります。

 一昨年、私はインターネット上に「『青少年社会環境対策基本法案』を支持する」という論文を発表しました。早速、翌日から猛烈な勢いで反発がきました。なかには人格批判の類のものさえありました。「これは、すごいことになったわい」と思ったものです。インターネットは自由な分散協調型の考え方で発達してきたネットワークですから、「人権を制限する」とか「自由を規制」するというような話になりますと、無条件かつヒステリックに反発する人が多いのです。私はヒステリックにならずに、論理的にどこまで主張できるか、お話をさせていただきたいと思います。

(2)マクリーンの脳の三層構造

 まず、脳科学と神経生理学の成果についてです。これはマクリーンの「脳の三層構造」についてのチャートです。左右脳の機能局在の問題はかなり以前からよく知られていますが、青少年の教育問題に関しては左右脳の問題よりは、この三層構造、つまり大脳新皮質の「新しい脳」、大脳辺縁系の「古い脳」、および脳幹の「原始脳」という三つの区別のほうがずっと大事であるということを申し上げておきたいと思います。

「新しい脳」

 まず、一番外にあるのは大脳新皮質です。非常に薄いもので、厚さが2.5mmほどです。広げると新聞紙1枚ぐらいしかありません。しかし、これが人間の判断力や企画力を働かすのに非常に重要な役割をしています。特に前頭葉は、理性、思考、抑制、計画などの理性的な精神作用を担当していますが、残念ながら成熟するのが遅いのです。ニューロンは、「原始脳」の脳幹、「古い脳」の大脳辺縁系とだんだん成熟していきます。そして理性、思考などを担当する「新しい脳」の大脳新皮質の連合野(れんごうや)が成熟するのは、10代の終わり頃から20歳直前、すなわち時期的には高校生活の終わりから大学受験の頃です。

 余談ですが、左右の脳をつないでいる部分を脳梁(のうりょう)といいます。女性の脳梁のほうが男性のそれよりも25%ほど断面積が大きいので、論理や理性を担当する左脳と、感性や空間認識を担当する右脳との共同作業が男性より上手にできます。つまり、女性の勘がいいということは、これは神経生理学的にも証明されていることです。

「古い脳」

 二番目は、「古い脳」の大脳辺縁系です。大脳辺縁系には扁桃体、海馬(かいば)、帯状回などという機関があります。この大脳辺縁系が担当している世界には、人間の自覚的意思では到達することができないのです。大脳辺縁系の働きは、人間が子孫を残して存続してゆく上で極めて重要な働きをしています。それなのに、自覚的意思の力は到達することができない、すなわち意識の下にあるものです。しかも、自覚的な意識自体は、こういう意識の下の世界に極めて強く影響されているのです。

 扁桃体はアーモンドの形をしているのでこの名があるのですが、快、不快の情動を担当しています。海馬は短期記憶を、帯状回は動機付けをそれぞれ担当します。この三つを覚えておいてください。後にご説明いたしますが、この三つが生物的価値判断システムを形成します。実は「新しい脳」の大脳新皮質における前頭葉の連合野が十分に発達するまでは、青少年の価値判断システムに生物的価値判断システムが極めて大きな影響を与えているのです。

 ところが前に申し上げたとおり、自覚的意思は直接的には「古い脳」にアクセスすることが不可能です。しかし、アクセスする方法があることはあります。それはイメージを使うことなのです。イメージは、まったく意志の力とは関係のない「原始脳」の段階まで到達します。

「原始脳」

 「原始脳」はヘビ、ワニなどの爬虫類も持っている脳の部分ですが、動物の生存の基本的な機能を担当しています。たとえば間脳は、漠然とした快感・不快感や恐怖、悲痛感のような未分化の情動を担当しています。中脳は体のバランス、視覚反射、眼球の動きや瞳孔の調節機能を担当し、橋は聴覚、咀嚼、顔面筋制御を担当し、延髄は制御中枢、血液循環、発汗、排泄を担当しています。

 ところが、イメージを使いますと、人間の自覚的な意思の力ではまったく動かすことができないようなこの延髄部分にさえも影響を及ぼすことができます。たとえば皆さん、「汗を出してください」と言っても、汗は出せませんね。ところが、非常に怖い思いをイメージすると、汗も出てくるし心臓の動悸も速くなります。あるいは恋人とのデートを想像しても、やっぱり心臓はどきどきします。私たちくらいの年齢になりますと、イメージをしても、あんまりどきどきしなくなっちゃいますが、それは別の問題です。

 現在では、昔の言葉や文字がコミュニケーションの主なツールであった時代とは異なる環境が生まれています。つまり、文字によるコミュニケーションとマルチメディア情報によるコミュニケーションの量の比率が、非常に変わってきました。たとえば、CATVや衛星TVを入れますと何十チャンネルもやっています。ゲームも大流行している。こうした外部からの刺激の比率、すなわち文字による情報とマルチメディア情報のバランスが変わってきて、それが人間の、特に青少年の精神構造に非常に大きな影響を及ぼしていると考えられます。

(3)シグナル・リダンダンシーとモウダリティ効果

 なぜ、そんなに大きな影響を及ぼすことができるのかというと、情報の媒体がマルチメディアでシグナル・リダンダンシーが豊富だからです。シグナル・リダンダンシーというのは単一の信号ではなくて、画像、音声、臭い、ときには味覚などというものまで、複数の感覚情報を同時に与えられることをいいます。リダンダンシーが豊富な情報はモウダリティ効果を起こし、非常に強烈にかつ人間の精神の深部に到達することができます。したがって、無意識の世界で大きな影響を人間の精神に及ぼすことができるのです。

 たとえば英語の単語を覚えるにしても、活字を目で見ているだけではあまり効果がありません。目で見て、手を動かしてスペルを書いてみて、発音して、重畳的に脳にインプットするのです。すると、こうしたシグナル・リダンダンシーがモウダリティ効果を引き起こして、英語の単語が非常によく頭に入り、記憶することができます。私も、もっと若いときにこの原理を知っておれば、もっと効率的に勉強ができたのにと思うのですが、時すでに遅し、です。それほどまでに、マルチメディア情報を伴ったイメージは「古い脳」、ときには「原始脳」にまで達するのです。

 先ほど申しました、文字や言葉による論理情報が到達できるのは、せいぜい「新しい脳」の大脳新皮質までです。ところがマルチメディア情報になりますと、大脳新皮質を突き抜けて、ときには「古い脳」の大脳辺縁系どころか、「原始脳」の脳幹や延髄のところまで到達することができます。ということは、教室において子供をいくら文字や言葉で論理的に説得してみても、到達するのは子供の十分発達していない大脳新皮質止まりということを意味します。だから、大脳新皮質が十分に発達していない若い青少年たちに、いくら高尚なことを言ったとしても、ほとんど空振りなんです。

(4)生物的価値判断システム

 人間には論理的価値判断システムのほかに、生物的価値判断システムがあります。論理的価値判断システムというのは「新しい脳」で理性を駆使して、「あれは良くない」、「これはいい」とか、「本当はこうしたいけれど、人に迷惑をかけるからやらないでおこう」などと判断することです。こうした機能は当然、それを担当する大脳新皮質の前頭葉・連合野が成熟しないとうまく作動しません。

 ところが、生物的価値判断システムというのは、成熟がもっと早い「古い脳」の大脳辺縁系の扁桃体、海馬、帯状回のレベルで作動しますから、理屈は関係がありません。まず、扁桃体は、あるものを「食べてみたら苦かった」というように、快・不快の経験で価値判断をします。すると、海馬がこれを記憶しておきます。次に同様な機会に遭遇しますと、帯状回が、以前の経験に基づいて動機付けを発動して、「これは苦いから、食べないようにしよう」と判断するのです。

 逆に、子供は誉められるとうれしくなります。扁桃体は、このうれしいという快感を記憶します。帯状回はもっともっと誉められようという動機付けを行います。子供の頃にある教師から数学について誉められたのがうれしくて、数学を一生の仕事として立派な業績を上げたという有名な数学者がおります。大人の場合でも、視覚的な快感を伴う美人の主張は、扁桃体と帯状回の作用によりなんとなく説得力があるように聞こえてしまうのです。無意識のうちに生物的価値判断システムに影響されてしまう結果です。

 昔、私の息子が小さい時でしたが、道路の向こう側から私を見つけて、「パパ!」と言って喜んで走ってきました。自動車がビュンビュン通るのに危ないこと極まりない。私はその時、ものも言わずに横っつらをひっぱたきまして、「そういうふうに道路を渡ってはいけない!」と強く言いました。まあ、抱きしめながら言ったわけですが、家内は「喜んで走りよって来る子になんてことするの! 話せばわかるでしょ」とものすごく怒りました。本当は、そういうことじゃないんですね。

 子供にとってみると、うれしい、会いたい、ということで走っていったら、殴られてしまって、非常に不快な痛い思いをした。しかし子供はこれを記憶して、「これはやっちゃあ、いけないんだな」と理屈ぬきに動機付けられる。そして、そういう抑制のニューロンのネットワークができるわけです。

 子供に、「右も左も見ないで走ってくると、自動車が通っていて危ないでしょ」とか、「ぶつかると、ケガするよ」などと、因果関係を論理的に説明しても、まったくとまではいわないが、あまり役には立ちません。当時の私は、生物的価値判断システムなどという理屈を知っていたわけではありませんが、息子にこういうことは体で覚えさせるべきであると、とっさに思ったのです。

 人間の価値判断というのは、こういう生物的価値判断システムと脳の前頭葉を使った論理的価値判断システムの相互作用と葛藤の結果、下されるのです。

(5)「古い脳」の優先

 生命を脅かされるような危険に出会ったり、大きな衝撃を受けたりした時には、「古い脳」の大脳辺縁系の働きが最優先されます。そういう時には「新しい脳」の大脳新皮質がどんなことを言ってもだめなのです。たとえば、ボスニア・フェルツェゴビナで自分の親族や友人が殺されると、人間は怒りと恐怖のとりこになります。そうなると、いくら「新しい脳」の理性による内部の声が、「平和は大事だ」などと叫んでも、その人の行動を制御するための力としては働かないのです。人間は、大脳辺縁系の命ずるままに、「よし、俺もやるぞ」と鉄砲をとって立ち上がりますから、戦争になってしまうのです。

 したがって、「もしも世界中の人が本当に平和を願ったら、戦争は起こらない」という命題は、人間が人間である限り決して成立しないのです。前提から結果にいたる過程の論理は正しいので、いかにももっともらしく聞こえるのですが、その前提自体は絶対に成立しません。したがって、こういう主張をする人は空想的平和主義者ということになるわけです。これは脳科学および神経生理学から、はっきり言うことができます。

 「新しい脳」よりも「古い脳」のほうが発生学的には古くて、自己保存の本能を原始的な姿で保持しているので、こちらを優先させたほうが自己保存のチャンスが高い。だからそのような仕組みが進化の過程で決定された、とものの本には書いてあります。私は、そういう事実があることは認めますが、理由付けの部分は個人的には疑問に思います。

 そうするほうが種の保存のためには都合がいいから、進化の過程でそういうDNAが生き延びた、という説明はわかりやすいけれども、それが試行錯誤の中で選択が行われた結果であるというのはおかしい。1億年や2億年の人類の歴史の間の年数では、確率論的にいっても絶対に無理です。なぜそうなっているかという説明は、やはり神の手といいますか、超自然的な摂理が働いていると考えざるを得ないのです。

(6)抑制機構の発動

 「古い脳」の衝動を抑制するのは、「新しい脳」の働きです。抑制機構の発動には、化学的には、前頭葉におけるセロトニンという脳内物質の働きと大きな関係があります。脳科学や神経生理学の本を見ると、セロトニンという脳内ホルモン物質が分泌されるから、抑制が働くと書いてあるものが多いのですが、これは理論的にまったくおかしい。わかっているのは、セロトニンという脳内物質が分泌されるということと抑制機構が働くということが、同時に起こっているということしかいえないはずです。

 なぜセロトニンが分泌されるのか、これはまだ誰にもわからない。社会科学における論理のあり方と、自然科学における論理のあり方が違うのかもしれませんが、どうも今までの自然科学においては、原因と結果がごちゃまぜになっているところが多いように思われます。

 たとえば、私はこの30年近くコレステロールが300ぐらいあります。医者からはコレステロールを抑える薬を飲むようにいわれているのですが、私は飲んでいません。アメリカのインターネット上の医学論争を見ますと、コレステロールを下げる薬を飲むのは自殺行為だという意見があります。コレステロールが高いというのは原因ではなく、結果だというのです。

 循環器障害で死んだ人を解剖してみると、血管にコレステロールがべっとりと付いているので、それ元凶はコレステロールだ、ということになったようです。血中のマクロファージが血中の脂肪物質を取り込んで血管の壁の中にもぐり込むから、コレステロールが付いて血管障害を起こすというメカニズムはわかっているのですが、反論が出ているのは「それは人間の体の合理的な反応の結果である」ということなのです。

 血管が何らかの理由で弱くなると、人間の体の合理的な反応の結果、血管が破れないようにコレステロールが付着するというわけです。ですから、必ず血管の分岐点などの破れやすい所に集中して付いている。しかし静脈にはまったく付かない。日本一の長寿県である沖縄には、コレステロールが300くらいのお年寄りがごろごろいらっしゃいます。

 コレステロールが高いというのは血管が弱くなっていることの現れですから、誉められたことではないのですが、高コレステロールは結果であって原因ではないというものです。要はバランスが大事なわけですね。バランスが崩れると、コレステロールが付着しすぎます。これはよくない。しかし、コレステロールが高いというのは原因ではなくて、結果なのですから、コレステロールを下げる薬を飲んで、血管が弱くなっている原因を放置しておくのは自殺行為だというのです。

(7)抑制機構の解除

 シグナル・リダンダンシーの豊富なマルチメディア情報は、モウダリティ効果によりイメージをかきたてるので、人間の精神の深層にまで達することができる。ところが、それほど強力なものですから、マイナス効果もまたあり得るのです。つまり抑制を解除してしまうこともあるのです。

 ここでちょっと、グラフを見ていただきます。グラフの縦軸は精神活動への影響力で、上のほうに行くほどその程度が強くなります。横軸は刺激の強度または反復で、右のほうに行くほど刺激がどんどんどんどん強くなるということを示すグラフです。このグラフを見てわかるように、抑制力というのは、右下がり曲線になるのです。そして衝動や情動が抑制力を上回ると、抑制機構が解除されてしまいます。

 ある刺激を持つ行為に関しては、最初のうちこそ強い抑制力が働いているのですが、行為が繰り返されて刺激が反復すると、急速に抑制力は下がってきます。たとえば売春行為も、初めの1回目は精神的にも非常に強い抵抗力があって抑制力は高いのですが、2回目からは抑制力が麻痺してしまい、何人を相手にして同じにしか感じなくなってしまいます。犯罪も同じで、1人殺すと、2人目を殺すのにはたいした抵抗は感じなくなります。まさに、1人殺すも2人殺すも同じになってしまうのです。これを繰り返すと、何に対しても抑制力がなくなってきてしまいます。

 情動というのは、反復されればされるほど、無意識のうちに刺激がどんどん高くなっていきます。そして、情動曲線のほうが抑制力曲線を上回る時点ができてしまう。これが抑制機構の解除点ということになります。それ以上右に行きますと、人間の自然の反応として、もう抑制はほとんど効かなくなってしまいます。しかし、人間が成熟して前頭葉の発達が進みますと、抑制力曲線の位置が高くなり、しかも傾斜がゆるくなります。すると抑制機構の解除点というのがずっと右上の方向になります。つまり、抑制の効いた円満な人格が出来上がるわけです。こういう人でいっぱいになると、人間社会は非常に安全で互いに思いやりのある社会になります。

 したがって教育においては、抑制機構があまり容易に解除されてしまわないように、抑制力を高める努力をしないといけません。売春、残虐行為などは1回実行すると、抑制機構が解除されて、どんどんどんどんそういう行為に走ってしまう危険性が高いのですから、決して足を踏み入れてはならないのです。

 ゲームなどによる疑似体験でも、マルチメディア・システムにおいては実体験とほとんど同様の効果があります。だから怖いのです。森昭雄先生が最近『ゲーム脳の恐怖』という本を出されましたが、その中でこういうことを述べておられます。ゲームを始めた頃は、視覚から取り入れられた情報は、前頭葉における論理的判断システムと相互作用を行って判断という精神作業が行われて、筋肉に命令を出してジョイスティックをぱちぱちと動かすわけです。しかしこれを朝から晩まで、毎日、毎日やっていますと、ゲーム脳になってしまいます。ゲーム脳においては、視床から扁桃体に直接、興奮が伝達される回路が形成されます。まったく考えずに反応するだけになってしまうのです。

 こうして、「新しい脳」の前頭葉のほとんどを占める前頭連合野が、「古い脳」の大脳辺縁系に対して、理性による抑制を行っているのです。ところが、非常に困ったことに、前頭連合野におけるニューロンのネットワークの成熟は、「原始脳」や「古い脳」に比べると極めて遅く、10代の終わり頃、したがって高校の高学年から大学の入試の時くらいになります。その頃になると、徹底的に話をするというのは非常に有効なのです。しかし、たいへん進歩的でよく勉強をしておられる先生方でも、小学校、中学校の子供を相手にあくまでも徹底的に話し合う、ということを本気になっておっしゃっている方が多いのです。残念ですが、脳科学からいうと、それはあまり有効ではない。表現はきついのですが、ぶん殴って教えてやるということのほうが、ずっと効果があるのです。

(8)ニューロンのネットワーク化と有髄化

 ニューロンというのは脳の神経細胞のことをいいますが、大脳新皮質だけで約140億個あります。脳全体では約1千億個です。人間全体の細胞は60兆もあります。ニューロンは徐々に樹状突起が枝を増やしてゆき、その先に伸びる神経線維もニョロニョロと長く伸びてゆき、次々に枝を出してゆきます。そして標的とするニューロンに到達すると接合部、すなわちシナプスを形成します。1個のニューロンの表面には、100から、ときには何と10万個ものシナプスが見出されます。シナプスは、成人のニューロンに平均して1万個あるといわれています。

 一つひとつの細胞というのは、機能がたいへん分化しています。一つの細胞が、いろいろなことをやるというわけにはいかないのです。たとえば日本人は、英語のLとRの発音の区別をすることが非常に難しい。生まれた時はLとRを区別する細胞を持っているのですが、2歳くらいまでに、母国語では必要のないそうした細胞は消えてしまいます。それ以降は、神経生理学的にLとRの区別ができなくなります。絶対音感も、細胞ベースで特定の音を判断することによって備わる能力です。

 そうすると、大人はもう一生の間、LとRの区別ができないのかというと、そうでもないのです。このニューロンのネットワークというものが、だんだん発達してきて細胞の働きを代替するということができるようになります。

 ニューロンの発達と成熟には、こうしたネットワーク回路の形成ということの他にもう一つあります。それは有髄化です。ニューロンからは軸索というものが伸びてきて、その先の神経繊維が隣のニューロンに接続してシナプスを形成するわけですが、この神経線維は若い時には信号の通過効率があまり良くないのです。だんだん成熟が進むと、神経線維のあちこちにある種の鞘(さや)が出来てきます。この鞘をシュヴァン鞘といいます。シュヴァン鞘が出来るくらいに成熟が進むと、信号の通りが非常に速くなります。

 このシュヴァン鞘ができる前は、信号の伝達速度は平均秒速1mぐらいです。信号というのは興奮をより深める、あるいは抑制をより強くするという2通りに分けられますが、それが、このシュヴァン鞘ができますと、伝達速度が約100倍にもなります。だいたい秒速100mぐらいになります。文字通り、頭の回転が速くなるのです。

 このシュヴァン鞘を染色して観察しますと、脳のいろいろな部位のニューロンの発達がどのくらいまでいったかということが、たいへんよくわかります。まず一番初めに、延髄や脳幹などの「原始脳」のニューロンが有髄化します。それから徐々に、「古い脳」の大脳辺縁系が有髄化します。たいへん残念なことに、成熟が「新しい脳」の大脳新皮質に及ぶのは、高校の終わり頃から大学に入るぐらいの頃になります。その頃にようやく、前頭葉連合野のニューロンの有髄化が完成するのです。

2. 社会科学者の怠慢と空想的人権主義者の害悪

(1)脳科学の成果の応用

 このように人間は、「古い脳」や「原始脳」に支配されている部分が極めて多いのです。大人でもそうです。そしてそのことは、自覚的な意思ではコントロ-ルできないのです。そういう目で考え直しますと、今までの社会科学でいわれたことでおかしいことがたくさんあります。教育の分野でも、脳科学や神経生理学の最新の成果と矛盾したことが依然として行われている。それは社会学者の怠慢であり、政治の怠慢でもあります。もちろん、今ここにいらっしゃる方たちはそういうことを自覚して勉強をしていらっしゃるわけですから、怠慢にはあたりませんが、青少年を保護する法律に限らず、いかなる規制にも反対であるという方たちは非常に怠慢であると言わざるを得ないと思います。

 まず、自由と責任に関する根本問題の再検討が必要です。人間は心の中で何を思おうが、基本的に自由であるというのがスタートです。ところが、人間が心の中で思っていることは理性的判断に基づいて思っているものと考えられてきたのですが、実は自由意志でそのように思っているのではなさそうだということがだんだんわかってきました。「新しい脳」でも、無意識の世界や、「古い脳」や「原始脳」の世界に支配されていることがだんだんわかってきました。

(2)自由と責任の再検討

 人間は、自分の意識と行動をコントロールする能力があるから、責任能力があるとみなされているわけです。そして責任能力がある以上、完全に自由であることになっていたのです。ところが、どうも必ずしも自分の自由意志で自分の意識と行動をコントロールしているのではないということになりますと、なんでもかんでも考えるのは自由で勝手だというわけにはいかなくなります。しかも、それが外界からのいろいろなマルチメディア情報によるモウダリティ効果で、意識の及ばないところまで支配されてしまっているとなると、非常に問題があります。

 法律制度においても、心神喪失や心神耗弱の人たちは、罪を犯しても刑罰の軽減や免除ということが行われます。そして罪を犯さないように保護されます。してみると、責任能力を十分に持たない青少年にも保護と防御が必要なのですから、表現の自由との衝突という問題についても、こういう観点からあらためて考えてみなければいけないということがいえます。ところが、空想的人権主義者たちは、少しでも自由を制限する論調の主張に対してはヒステリックな反発をする。こうした空想的人権主義者の姿勢は、脳科学・神経生理学が発達してより深い人間行動と精神の原理が明らかになった現在においては、極めて非科学的であると言わざるを得ません。

 実際、人間は論理的に行動していると自分では思っているけれども、実は無意識の世界に支配されている場合が非常に多いのです。そこで、人間の精神活動を、意識の有無と理性と感性の組み合わせにより、意識的理性、意識的感性、無意識的理性、無意識的感性の四つに分けて考察してみましょう。

 下半分の無意識的理性と無意識的感性の部分が、いわゆる深層心理に属する部分です。上半分の有意識の部分というのは、人間の精神活動の10%ぐらいしかなく、下半分の深層心理に属する無意識的の部分のほうが90%ぐらいあるといわれています。意識の表面に表れているのは、氷山の一角に過ぎないというわけです。人間の意識と行動は、不可避的に水面下の部分に規定されてしまっていることがだんだん明らかになってきました。

意識的理性

 まず、一番目の意識的理性というのは論理の世界です。論理というのは、だいたい言葉で考えます。カントやヘーゲルなどの偉い哲学者は、単に手をこまねいて考えたのではなく、いろいろ書いて表現をしながら考えを進めたのです。つまり、文字によりいったん外部世界に放出した自己と再度向き合って相互交流を行いつつ、深遠な哲学を生んでいったのです。考えるということは、実は話したり書いたりすることと同じなのです。したがってワープロを使うということは、書くことに伴う不便さを解決してくれるのですから、思考能力を増幅することができるということになります。

 もっとも言葉と思考の関係にしても、言語活動と思考活動は一つの統一した過程であるというパブロフ、シャフ、ワトソン等の一元論的考え方、両者の密接な関係を認めつつも異なった二つの過程であると考えるウォーフ、ルリア、ピアジェ、ブルーナー、ヴィゴツキー等の二元論的な考え方、それから両者は大いに関係があると認めつつも、基本的にはまったく異なる独自のシステムだと主張するチョムスキーのような考え方もあります。

意識的感性

 二番目が意識的感性の問題です。失語症患者は言葉を使えませんから考えられないかというと、そんなことはない。言葉で考えるのを論理的思考といいますが、言葉に依存しない思考はイメージ思考です。将棋や囲碁の世界における思考はイメージ思考です。

 私はある時、大学院の授業で学生たちに迷路を示して、これを目で解いてみろと言ってやらせたことがあります。その時の私の意図は、若い時は意識的感性の力が非常に強いから、図形認識の力も非常に強い。だから迷路を解くにも、入り口から始めて分岐があるとその両方を同時に目で追ってゆくというマルチ・タスクができる。さらには入り口と出口と両方からたどっていって、合流点を見つけるというような芸当さえもできる。しかし、学生諸君やわれわれの年代になると論理的思考しかできないから、分岐点にぶつかると一方を取って、それが行き止まりになるとまた分岐点に戻るというようなシーケンシャルでシングル・タスクの思考しかできない。そういうことを話そうとしていたのです。

 そうすると驚いたことに、30秒ぐらいでできたという学生が数人出てきました。1分経ったら続々と手を挙げて、「できました」と言うわけです。そこで、どういうふうに解いたか説明してもらったら、これがなんと入り口と出口の両方からマルチ・ジョブでたどって解いている。なんのことはない、一番ダメだったのは私でした。

無意識的理性

 三番目は無意識的理性です。どうしても潜在的な認知過程が無意識の世界でも存在するとしか考えられない事例があります。たとえばカクテル・パーティ効果ですが、パーティのように人がワイワイ、ワイワイ騒いでいるなかでも、自分の名前がどこかで言われたりすると、無意識の世界でそれを感知して認識するのです。すべての音声を無意識的理性の世界ではスクリーンするという前処理過程が存在するわけです。よく、年寄りは都合の悪いことは聞こえないけれど、自分に都合の良いことはすぐ聞きつけるということをいいます。これは神経生理学的に証明されている事実なのです。

 サブリミナル効果というのがあります。1957年にヴィカリーが、映画の中で3ミリ秒だけ「コークを飲もう」「ポップコーンを食べよう」というメッセージを入れたら、コーラの売り上げが58%、ポップコーンの売り上げが18%も上昇したということで有名になりました。ところが後に、すべてヴィカリーの売名的インチキ実験であることが判明しました。私もある論文でこれを引用して、恥をかいてしまったことがあります。

 ヴィカリーの実験はインチキでしたが、サブリミナルの世界というのは厳存します。東京大学の下条信輔先生が中公新書で『サブリミナル・マインド』という本を書いておられますが、無意識的理性の世界というのは現として存在するのがよく理解できます。

無意識的感性

 四番目は無意識的な感性の世界です。ポケットモンスター事件というのを覚えていらっしゃると思います。「ポケットモンスター」というテレビ番組の画面で、赤い画面を点滅させる業界でパカパカと称する手法を過剰に使ったものですから、見ている子供たちが自律神経関連の障害を起こして、バタバタと倒れてしまった。これは無意識的感性の世界が現としてあるということでもあります。

 それからアイデティック・イメジャリーといいますが、直観像能力というのがあります。これは写真的な記憶を自由に再生する能力です。原始時代の人類は誰でも持っていたと考えられている能力ですが、文明の進歩とともに失われてしまいました。ある光景を見て、目をつむっても何時でもこれを再生できます。その光景の中に出てくる品物の数もわかります。数を数えて覚えているのではなくて、この写真的な記憶を再生させて、ゆっくりと数えるだけなのですから非常に正確です。

 モーツァルトが子供時代に、一度、聞いた音楽を寸分違わずピアノで演奏してみせたという話が伝わっていますが、これなど聴覚に関する直観像能力だと思われます。オーストラリアのアボリジニー(原住民)は、今でもほとんど全員がこの能力を持っていて、まったく地図がなくても行った道をそのまま覚えていて、無事に帰ってくることができるそうです。昔の大洋民族が海を渡って隣の島に行った時も、空の星をまったく写真的な記憶力で覚えていて、それを航海術に使って非常に長距離のところまで行ったということがあるわけです。

 また、あまりよく知られていませんが、実は神戸の酒鬼薔薇事件の被告少年が直観像能力者だったのです。鑑定書に1行そう書かれているだけですが、非常に重要な内容です。少年は普通の人の感受性とはまったくレベルの違う鋭い感受性を持っていて、漫画などのあくどい刺激に過度に影響されてしまったということが十分に考えられます。

 人類は文明世界の中のテキスト、コミュニケーション、論理の世界に長くいたおかげで、そういう能力をほとんどなくしてしまいました。しかしマルチメディアの世界が出現してくると、情況が変わってきます。こうしたマルチメディア情報の影響力が極めて強い環境が実現されつつあるのです。

3. 教育と体罰

(1)体罰は一律禁止

 次に体罰ということについて考えてみます。実は教育において、脳科学的な観点からいっても体罰は有効なのです。低年齢層の場合には、説明や説得をもって「新しい脳」に働きかけるのは、神経生理学的および発達心理学的に見て困難かつ非効率的な場合が多いのです。そこで、先ほど申し上げました生物的価値判断システムを訓練する必要があります。そして、それにはどうしても体罰が必要なのですが、その使い方は非常に難しいのです。

 ところが体罰は、学校教育法第11条によって一律に禁止されていますから、ノウハウが育ちません。ただし法律で禁止されていても、学校における体罰はなくなりません。しかしノウハウが育たないから、有効な良い体罰というのがなかなか生まれないわけです。

 しかし学校は、牧歌的な保護を子供に対して行うサンクチュアリではありません。人間社会における基本的な規範を厳しく教え込み、きちんとしたしつけをつけることが絶対に必要だと思います。体罰は一律に禁止するということではなしに、どういう体罰がいいのかということを考える必要があると思います。

(2)体罰と生物的価値判断システム

 体罰の痛さに伴う不快感は「古い脳」の扁桃体が感じ取り、海馬に登録されます。そして、帯状回に影響を与えて「今度やるとヤバイから止めよう」と、無意識のうちに抑制の動機付けが生じます。つまり前に申し上げた生物的価値判断システムが形成されるのです。この反復過程で形成されるニューロンのネットワークが、叱られるもとになった行動やその動機を担当したニューロンのネットワークと融合一体化して、無意識のうちにルール違反行為に対する抑制機構(Inhibition System)が構築されます。子供のうちは生物的価値判断システムというものを、しっかりと教育しなければなりません。

 石原慎太郎東京都知事の著書の『日本よ』の中に次のようなくだりがありますので、引用しておきます。

「動物行動学者の権威コンラッド・ローレンツは、『幼い頃肉体的な苦痛を味わったことのないような子供は、成長して必ず不幸な人間になる』といっているが、それは人間を含めた動物全体の生存に関わる原理であって、人間の親だけが子供にそれを強いることを怠るということが許される訳がない。ある年齢に達した子供を、親が強く叱るということは子供にとっては心外だろうと実は、我慢について教える慈悲に近い本当の愛に他ならない。賀川豊彦は、『子供には大人から叱られる権利がある』と記している。キェルケゴールは、『子供が受くべき、最初の感謝すべき教訓、それは両親よりの平手打ちだ』ともいっている。……(中略)……叱られるということは我慢を強いることであって、我慢を重ねることの出来ぬ子供は心身ともに耐性を欠き、自分をコントロール出来ずに、すぐに切れたり崩れてしまう」

4. 表現の自由の再検討

(1)表現の自由は絶対か

 青少年に害を与えるような映画や著作物は制限しなければいけないことになりますが、そこで表現の自由との衝突が生じます。しかし、表現の自由というものは絶対ではありません。ところが、アメリカ合衆国憲法修正第1条には、「連邦議会は(中略)言論または出版の自由(中略)を制限する法律を制定してはならない」、つまり絶対だ、などということが書いてある。

 こういう法律を書くというのは、非常にへたなやり方です。絶対ということは現実の世界では成立するわけがありませんから、アメリカの憲法修正第1条が成立した瞬間から、それでも言論の自由を制限しなければならないのはどういう場合かという議論が始まりました。

 1919年には、かの有名なホームズ判事が、クリアー&プレゼント・デンジャーつまり「明白な現存する危機」の場合には、表現の自由は制限してもいいという判例を打ち立てました。その後、この制限が緩められたり強められたりしましたが、現在ではクリアー&イミネント・デンジャー、つまり「明白で切迫した危機」がある場合には、表現の自由も制限されるとなっています。

 日本の場合、すでに表現の自由を制限する法律はたくさんあります。猥褻な表現に対する制限(刑法175条の猥褻罪)、他人の名誉を毀損する表現に対する制限(刑法第230条、およびその第2項、民法第723条の名誉毀損)、他人のプライバシーを侵害する表現に対する制限(民法第709条)、犯罪を扇動する表現に対する制限(破壊活動防止法第38条、第39条、第40条)、道路上でのビラ配りなどに対する制限(道路交通法第77条第1項)、他人の家屋へのビラ貼りに対する制限(軽犯罪法第1条第33号など)、選挙に関係する表現行為に対する規制(公職選挙法による戸別訪問の禁止など)など、枚挙にいとまがないほどです。

 表現の自由を上回る公共の利益のためには、それは絶対ではないということは、もうはっきりしているのです。ですから、青少年の教育というような公共の利益のためには、表現の自由は絶対ではない、道を譲るべきであるということは自明であります。

(2)米国の通信品位法

 1996年に成立したアメリカの通信法の第5編は、通信品位法(コミュニケーション・ディーセンシー・アクト)と呼ばれていますが、現在では憲法違反ということになって適用中止になっています。これは、青少年を保護するために表現の自由を制限すべきであるという主張と、表現の自由は守られるべきであるという主張がぶつかり合って、その結果、表現の自由を守るほうが勝ったといわれる場合がありますが、大きな間違いです。

 たしかに公聴会とかインターネットにおける議論の場ではそういう話ばかりだったのですが、最高裁判所の中の議論はまったくそうではありませんでした。実は、次のような法律技術的な問題点があったのです。すなわち、法律中に言葉の定義付けがなかったために、表現が曖昧となり、法的安定性を阻害することが指摘されました。その結果、関係者は文言を最大限に解釈して、自主的に対応しようとする傾向が出てくることが予想されたのです。それでは実質的にすべてがタブーとなってしまう恐れがあるので、現実的効果としては過剰規制ということになるので、違憲という判決となったものです。したがって、提出した法律の書き方が悪かったということになります。

 青少年保護のためには表現の自由も制限されるべきであるという議論においては、反対論者はすぐこの話を出すのですが、アメリカの最高裁判所が表現の自由のほうに軍配をあげた、などということはないのです。

 表現の自由は他のすべての自由と権利と同様に、絶対的なものではない。青少年を保護するための業界自主規制や法律による規制が緊急に必要であると私は強く思うのです。

5. 結語

 今日、お話申し上げたかったのは、まず「新しい脳」が十分に成熟していない青少年は、「古い脳」による生物的価値判断システムにより強く影響されるという事実です。神経生理学でいう「抑制機構」が十分強固に構築されていない青少年にあっては、強烈な刺激や反復刺激により抑制機構が解除されてしまい、犯罪に走るケースが多くなっています。

 よく中学生、高校生の女の子が「援助交際をして、どこが悪いの?」などと言っていますが、これはふてくされているわけでもなんでもなく、本当にわからないのだと思います。しかし彼女たちに人間の尊厳とか、性の純粋さや貴重さなど、前頭葉でしか理解できないようなことをいくら言ったとしても通じないのです。本当は、もっと小さいうちから親がバ~ンとひっぱたいて……、もちろんひっぱたいたままではいけないのですが、そういう考え方は間違っているということをスキンシップで教えてやらないといけなかったのです。こういうことを小さいうちから繰り返さないと、無条件でこういうことは悪いんだという生物的価値判断システムはできないのです。

 次に、神経生理学でいう「抑制機構」が十分強固に構築されていない青少年にあっては、強烈な刺激や反復刺激により抑制機構が解除されてしまい犯罪に走るケースが多くなっているということです。

 最後に、表現の自由は、他のすべての自由と権利と同様に、絶対的なものではないことです。青少年を保護するための業界自主規制や法律による規制が緊急に必要であると考えます。

 以上、ご静聴をありがとうございました。

(本講演録は、平成15年3月11日(火)に都内某所で行われた講演会の記録である。)