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おはようございます。

甘えてると言われるかもしれませんが、私は「結果がすべて」という言葉が好きじゃありません。
やっぱり過程も見て評価してほしいです。
1つの結果を出すのに人はみな同じ努力の量ではないと思います。
倍以上努力しないと結果でない人と、ちょっとの努力で結果が出る人、
これで評価が同じだと報われません。
みなさんは「結果がすべて」という言葉をどう感じますか?

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A 回答 (31件中11~20件)

受験の合否やスポーツの勝ち負けでは結果という言葉が全てなのかも知れません。


でもそこには、その人の能力や運努力があってこそなんだろうと思います。
そこに評価が加わるなら
やっぱり過程も大事だと思います。
目標に向かって頑張ってる人は素晴らしいと思います。
どんなに能力のある人でも
コンディションで結果が出ない時もあると思います。
結果を出したくてひたむきです頑張る。
そんな人を応援したくなるのは私だけでしょうか
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No.19ですけど、回答の追加。


 「結果がすべて」と部下に言うような愚か者の言うことを実行したら「死ぬ」よ?

自分の人生は、自分で切り開く!(すべては、自分次第!「天は、自ら助けるものを助ける」)
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それは、「 自 爆 テ ロ 」



   結果がすべて、なんですから。


※どこか「不健全」な感じがして仕方がないのですが、気のせいでしょうか。
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「結果がすべて」は、ある意味では冷静で公平に近い評価だと思います。


「やる気がありそう」「やる気がなさそう」「心構えが良さそう」などの評価は評価者個人の主観的側面が強く、それこそある人は徹底的に評価されないという自体になりかねないと思います。
例えば、実際に人一倍努力していても、あの人はミスが多いし反応が鈍いから、やる気が無いんだと評価されるかもしれません。
出来の良くない人の話をネットで見ると、できの悪い相手の人格攻撃や人格否定をする傾向のある人はいますが、そのような人格否定をする人は過程を見ようとしているからそのような偏見を持つのだと思います。
それなら結果が全てと言って、どうすれば良いかを冷静に論じる人の方が前向きなのでは無いでしょうか。
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特にスポーツの世界ではそう言われること多い厳しい世界ですね。


どんなに練習したとしても、 本番で失敗、結果が出せなければ良い評価は得られませんね?

でも、あなたの言う(過程も見て欲しい)という気持ちも、考えも良くわかります。
うまく言えませんが、「結果が全てだけじゃない」と思いたいですね。
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社会は結果が全てですが、だからと言ってプロ野球の巨人みたく


どんな汚い事(例え犯罪に成らなくても)をやっても良いわけではありません!
やはりプロセスが大事でクリーンでフェアな経過で結果が必要
でしょう、特に個人のエゴの場合は
クリーンなプロセスが必要でしょう・・・ただ目的が国の理想実現の
場合は手段を選ばないことでしょうが。
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一理ある。

でも私もそう思ってない。
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結果がすべて と吐き捨てて、フォローしようとしない人が大嫌いです。


結果を出せる方法をアドバイスしてほしいし、いっしょに結果に向かってほしいです。

頑張ったんだから、しょうがないよ。 っていう言葉をかけるだけの人も嫌いです。
次に向けて、いっしょに歩んでほしいです。

世の中には、過程を見ていてくれる人がいます。
それを好きになってくれる人もいます。
過程を大切にする人は、結果も出ます。
納得が行くから、次に進めるのです。
結果だけの人生ほど、つまらないものはありません。
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実社会で生きてゆく上で「結果がすべて」は当然であり、現実だと思います。



プロ野球観戦では野手がヒットを打つ/投手が三振を取る/プロににかできないスーパープレイに対して観衆は代価を払いに来ている。選手の努力を見に来ているのではありません。(試合前の練習風景はそれなりに楽しめますが)

病院で入院患者がいる、それに対し医者は命を救うことが結果であり、医者の努力に対して患者は代価を支払っているのではありません。もちろん不可抗力や不治の病もあり、人がいずれ死ぬのは当然ですから絶対的に命を救うことは保証できないと思いますが、もし自分の身内に対して結果が出せない医者に対しては、狭量な私は恨みを含まないとは言い切れません。

ただし、この言葉を伝える相手が、例えば学生さんのような身分の方であれば私は伝え方が変わってくると思います。

「同じ結果に辿り着くのでも少量の努力で辿り着く者と膨大な努力の結果で辿り着く者がいる。この場合、膨大な努力の結果辿り着く方がはるかに意味がある。なぜならば膨大な努力は多くの経験を内包しているからである」

旧日本海軍の源田実さんの著書の中の言葉です。私はこの言葉が好きです。
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社会の中では結果が全てで当然です。


組織が求める"結果"を得る手段として人を雇うのですから
従業者がどれだけ努力してどれだけ苦しんだかなどは評価しません。
(視野の広い雇用主であれば、個人の側にまで降りてきて、努力を汲んでくれるかもしれません。困難なことに努力で打ち勝とうとする姿勢に、粘り強さという質的価値を発見するということです。)

また、他人がある地点に到達するまでにどれほど苦しんだかなどは、傍からは見えづらく
努力の量は客観的に計測できないので、評価できません。
同じ岩を動かすにしても、指先ほどの力で成せる人、全身で当たっても動かせない人がいて、岩が動くまでに必要な力は誰が押そうと等しいが、動かす人の中に興った苦しみの量は計測できず、他の誰にも体験できない閉ざされた感覚です。
犯罪の裁判でも、現実に起こったことを基に罪を決めるしかなく、
個人が心中に何を以て行動したか、明確に確かめるのは困難です。

しかし成果主義は個人のレベルにまで求められるべきではありません。
成果主義は一つの目的に向かって歩みを揃えるべき組織においてあるもので
個人の上では、結果に到達する過程も、等しくその人の人生そのものです。
将来を見据えて、自分で決めた目的のために今を犠牲にしている人は多くいますが、その過程こそたった一つの確かな現実です。
読みかけて投げ出した本ばかり積み重なった人生でも
そのページの数は等しく積み上がっていきます。
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