お前それサバンナでも同じこと言えんの?
……という有名なネットスラングがあるけれど、本当に言い得て妙だと思う。
生存バイアス*1という言葉がある。
「バイアス」というのは偏りとか偏見とか、そういう風に訳してもらえばいい。生存バイアスというのは、過酷な環境や異常な環境で生き残れてしまった人、あるいは成功者とそうでない者が分かれるもので成功してしまった人等が持ちやすい、「生存」した人を基準とした偏ったものの見方だ。そして、大抵その見方は間違っている。
例えば、Twitterで残業が月に60時間あるのがありえねーとつぶやくと、残業月100時間マンから
「俺は月100時間でも余裕だった、60時間ごときでありえねーはおかしい」
というクソリプが飛んでくる例が散見できるのだけど、この場合の残業月100時間マンは生存バイアスがかかりまくりの発言をしてることになる。
残業月60時間でも死ぬ人は死ぬので残業60時間はありえねーというのはおかしくないし、命までは落とさなくても精神をやられる人はごまんといる。自分は平気だったから人も平気だろうと思ってしまう、そんな生存バイアスにとらわれて、しかも発信してしまう人がいるのが非常に残念だ。せっかく生存バイアスで思考ががんじがらめになるようなレベルに屈強な精神や肉体を持っているというのに。
と、なんだか文句を言ってしまったけれど、わたしだって生存バイアスのかたまりのような人間だ。
というか、生きてる以上あなたもわたしもみんな生存バイアスのかたまりなのだ。
消えるバイアスと消えないバイアス
大なり小なり、誰しもバイアス、「偏見」を持っている自覚はあるだろう。偏見どころか、差別的感情だってあるんじゃないか。偏見なんかない?それは思い上がりではなかろうか。
もちろん偏見は人生経験を積むごとに基本は減っていくものだと思う。
- なんだ、ギャルって怖くないじゃん。
- ゲイのカップル、全然気持ち悪くなかった。
- 医師って患者を下に見てると思ったけど、そうでもなかったな。
- 定時制高校って不良が多いイメージだったけど、自由でいいね。
こんな感じ。
でもね、消えないバイアスもあると思う。自覚していて、消したくても消えないバイアスというものが存在すると思う。その原因はかつて受けた教育かもしれないし、いた環境によるものかもしれないし、色々あるだろう。わたしにも、消えないバイアスがある。
わたしの消えないバイアス「知的障害者の男性が怖い」
例えばわたしは知的障害者の男性がすごく怖い。理由は小学生の頃から大学生の頃まで、何人もの違う知的障害者の男性に性犯罪未遂のことをされたからだ。
これはバイアス(偏見)だし、差別的感情であると自覚している。わたしが怖がるのはわたしに性犯罪未遂のことをした男性だけでよくて、たまたま彼らに共通していたのが「知的障害者の男性」というだけであって、わたしは「知的障害者の男性」にレッテル貼りのような行為をして「怖い」と思うのは差別で、偏見で、"いけないこと"だ。
でもどうしても記憶が蘇ってきて、「知的障害者の男性は怖い」と思うのをやめられない。実際にそんな男性と接する機会があっても、表面上は笑顔であっても内心ものすごく緊張し、怯えている。そんな自分が、すごく嫌だ。
こんな風に、偏見を持つのをやめたくてもやめられない、差別的感情を持つことをやめられない、どうしても思考の偏りがある人って、たくさんいるんじゃなかろうか。
もちろん持っていて消えたバイアスも死ぬほどある。例えばホストをしている男は誰も彼女を大事にしない、とか。この偏見は彼女をすごくすごく大事にしているホストの人と出会って話を聞いて消えた。職業ではなく結局人それぞれなのだ、と。
生存バイアスは「消えづらい」
話を生存バイアスに戻そう。
生存バイアスは、消えづらい。何か人それぞれになるものについて感想を持つ時、最初は自分が基準になるからだ。自分の今までの努力。自分が育った環境。自分が打開してきた数々の状況。頑張ったね、よく頑張ったね。だから、すごくしみついちゃってるんだよね。
生存バイアスが消えづらいというのは、2000年生まれの人間が17歳にもなるこの時代にアホみたいな風習がなくなっていないということから明白ではないだろうか。
具体的な名前、出しちゃう。なぜ三菱商事は新卒の男子を飲み会でいじめるのか。おかしいだろ。自分もそれやられて嫌だったろ。百歩譲って客相手の接待ならまだしも社内でいじめやってどうすんの?それは上司が生存バイアスに基づいて誤った思想の飲み会を開催しているからです。
で、理不尽ないじめにも多忙なお仕事にも耐えて生存した人だけが三菱商事を辞めず、次の上司になって後輩となった新卒に自分がされたことと同じことを繰り返す。生存した人は自分が悪しき風習を断ち切るイノベーターになろうとはなかなか思えず、ただ自分は大丈夫だったからと繰り返す。そのほうが楽だからだ。思考も変えようと思うきっかけがなくて変わらない。だから生存バイアスは消えづらい。
そして、もっと小さな規模で見れば、わたしたちだって同じことをやっているのだ。認めたくないけど。認めたくないだけで。
あなたもわたしも消えづらい生存バイアスをこじらせてここまで来ている。
わたしの消えづらい生存バイアス「中学校が嫌なら不登校になるべきだ」
わたしが持っている生存バイアスの中でもっとも分かりやすいのは、中学3年生時代の不登校経験から来る「中学校に行くのが嫌な生徒はみんな不登校になっちゃえばいいのに」というものである。
不登校になったら嫌いな学校に行かなくていいんだよ。進学先だって今は色々あるし働いたっていいじゃないか。フリースクールだってある。嫌いな学校で無駄なことをやらされるより自分で勉強した方が成績も上がるよ。運動会も文化祭も出なくていい。わたしは学校に行くのをやめたら偏差値が10上がったよ。中学に行くのが嫌な人にとって、中学校なんて邪魔なんだよ。学校行かなくていいよ。人生そのほうがよくなるよ。
頭では分かっているのだ。不登校にならないほうが幸せな中学校に行くのが嫌な生徒もいる。でも、自分の生存バイアスからついつい言いたくなってしまう。
自分が生存してしまったから極端なのだ。それでよかったからそうしろよと言いたいだけなのだ。しかし、わたしは、その浅はかな考えで人の人生を潰すわけにはいかない。
消えない生存バイアスを自覚なく他人に押し付けるのやめよう?
じゃあどうしろっていうのか。今の自分の考えは自分の生存バイアスからくるものなんだという自覚をなるだけ持って発信・コミュニケーションをしましょうよという話である。
特に、言い切り型の言葉を使ったり煽るような言い方をして生存バイアスをこじらせた発言をし、安易に人の人生を左右しようとしたり、人を傷つけるようなことは、もうやめにしないか。
自己肯定感が高かったり、実家が太くて幸せで恵まれている人にこの傾向は顕著だと思っています。これは悪いことじゃなくて、仕方のないことだと思います。自分の生きてる世界線以外のものは、どうしてもよく分からないものだから。
ただ、発信者としてものを喋ろうとするならば、消えない生存バイアスを他人に押し付けることは絶対にNG。自分がそうだったからといって、「努力次第で周りの環境は変えられる」「考え方次第で人生は変わる」なんて、親に監禁されて生きてきた虐待サバイバーに向かって煽りながら言えますか?
もちろん配慮に配慮を重ねると発信者は何も言えなくなってしまいます。自分の意見に合わない人を完全に切り捨てたり、社会的弱者やマイノリティを無視した発言をすることも時には発信者として必要だと思っています。
ただ、自覚なく他人に押し付けるのはやめて、少しだけでも「自分は生存バイアスに基づいた発言をしている」という意識を持ってほしい。そうしたら、自然な最低限な配慮ができると思うんですよね。
ものの言い方って、本当に大事です。
発信者として黙るという判断をする勇気
生存バイアスのかたまりであるわたしたちが情報発信やコミュニケーションをする上で、必要なのは黙る勇気である、と最近思う。
これは生存バイアス以外のバイアスに関してもそう。もちろんわたしは「知的障害者の男性が怖いです」なんて日常では言わない(この記事に書いてしまったことにすごくビクビクしている)。
みなさんもそうでしょう?
思ってても言わないことってあるでしょう?
それを何気なく発信してしまっていた、あなたのズブズブな生存バイアスにも適用させませんか。
あなたの言葉に傷ついていた人が救われる未来が、きっとそこにあると思うんです。
Cyndi.
*1:生存者バイアスとも言う