三月 16

John Cageと武満徹

日本人現代作曲家は米国人現代作曲家から何を学び取ったのか?

By Jeremy D. Larson

 

西洋音楽には他の文化圏からアイディアを取り入れた作曲家が数多く存在する。DebussyとRavelはジャワのガムランを大きく取り入れ、Steve Reichはガーナで学んだエウェ人のポリリズムを取り入れた。また、David Byrneはアフリカ音楽への傾倒が自分のキャリアの大半を定義づけることになり、Diploはジャマイカのダンスホールを好んでいる。

 

武満徹がJohn Cageの作品群に共通点を見いだし、間接的に影響を受けたという話は、一見したところ、西洋の作曲家が他の文化圏のフレイバーを自分たちの作品に散りばめてきたその伝統の逆に思えるかもしれない。武満は、死の数年前に相当する1992年に「John Cageには感謝せねばなるまい。彼は私の意識を日本文化のポジティブな部分に向けてくれた。私は長い間、日本、そしてそこに関する全てを無視すべきものとして捉えていたのだ」と記している。

 

しかし、この2人の関係はもっと複雑だ。Cageと武満の関係の始まりは、米国の戦争活動と日本の厳格な帝国主義の歴史まで遡ることができるが、この関係は、かつて対立していたふたつの異なる文化が魂と魂で結びついた時に芸術が生まれることを表現している。

 

 

 

"東京が焼け野原になった時、文字通りの意味と比喩的な意味 の〈カコフォニー〉によって、武満に日本の音楽の調性と音色を嫌悪させた"

 

 

 

第2次世界大戦が開戦した1941年、武満は11歳だった。この時代は彼にとって哀れで “ほろ苦い” ものだった。武満は、時に残忍でさえあった超国粋主義の日本の帝国政治が終わり、東京が空襲を受け、米国が占領を始めていく中で、青春時代を過ごした。

 

東京が焼け野原になった時、文字通りの意味と比喩的な意味 の〈カコフォニー〉が、武満に日本の音楽の調性と音色を嫌悪させた。戦後、音楽に興味を持ち始め、一時的に音楽学校への入学も考えていた頃の武満は、WebernやMessiaenなど、様々な西洋の作曲家の作品を好むようになった。武満はその新しい音色と奏法に強く惹かれていたのだ。

 

その頃の武満はピアノを所有していなかったため、ポケットに1オクターブ分の鍵盤を描いた紙を入れて持ち歩き、その紙を使って作曲をしていた。武満は反アカデミックを掲げる芸術集団 “実験工房” と活動を共にしたり、ミュージック・コンクレートの小作品を作曲したり、生活のために映画・テレビ・ラジオ用の音楽を作曲したりしながら積極的な創作活動を行った。1950年代前半、武満は結核を患っていたが、病床から抜け出してコンサートホールでオーケストラの指揮をした日もあったと言われている。しかし、武満はまだ自分の音楽を見いだせていなかった。

 

それより数年前のニューヨークでは、John Cageが作曲家として武満と同じ悩みを抱えていた。1948年、マンハッタンにあったアジア関連書籍の専門店Orientaliaが近所のグリニッジ・ヴィレッジに移転すると、Cageはそこに頻繁に出入りするようになった。アジア方面からその店に届く数々の書籍には日本に対する安易なステレオタイプな描写は存在せず、その代わりにこの国の長い歴史と詩的な哲学が記されていた。1950年代初頭、禅が時代精神として台頭し始め、ある人にとっては一時的な流行、そしてまたある人にとっては新たな宗教になっていったが、Cageにとっては進むべき新たな道となった。1951年、詩人であり禅学者でもあった鈴木大拙がフェリーで訪米し、アイビーリーグを回って講義を行ったことで、禅は正式に西洋に進出したが、Cageには特に大きな影響を与えた。

 

 

 

 

Kay Larsonが名著『Where the Heart Beats』で記している通り、Cageは鈴木大拙の存在を知ったことで、絡まっていた意識をほどくことができた。Cageは鈴木大拙と共にコロンビア大学で長年に渡り勉強を続け、他の文化圏の音色やリズムだけではなく、その根幹に根ざす哲学も自分の音楽に取り入れた初めての西洋の作曲家となった。1950年代の終わりから1960年代になる頃には、Cageの作品群の中心には偶然性と不確定性が置かれるようになっていたが、それらの作品群が徐々に海を越えてヨーロッパへ渡ると同時に、武満の友人だった作曲家、一柳慧を介して日本にも戻されていった。1961年に米国留学を終えて帰国していた一柳は、草月アートセンター主催でCageの『ピアノとオーケストラのためのコンサート(Concert for Piano and Orchestra』の日本初演を実現させたが、その時の客席に座っていたのが武満だった。彼はCageの音楽に魅了された。

 

その後、武満は図形楽譜や、『環(リング)』(1961年)のような西洋の実験音楽を取り入れた不確定性の音楽、『コロナ』(1962年)、そして『弧(アーク)』(1963年)などを手がけるようになった。また、同時に琵琶や尺八などの日本の伝統楽器である邦楽器の探求も開始し、小林正樹監督の映画『切腹』(1962年)や、武満の映画音楽としてはより有名な、ある女に幽閉される男を描く勅使河原宏監督作品『砂の女』(1964年)などの音楽に両楽器を取り入れるようになった。『砂の女』の音楽は砂浜に吹く風の音のようだが、非常に具体的で、音色のひとつひとつがはっきりと浮かび上がってくる。

 

 

 

 

武満は邦楽器を再構築することで、それらの楽器に備わっていた戦争的な響きを取り除き、自然と静寂の音楽に再び結びつけようとした。彼の映画音楽やオーケストラ用作品群には、日本の “さわり” と “間” のアイディアが用いられている。音楽用語では、“さわり” はノイズ成分(邦楽器を1音演奏した際に生まれる独特の倍音。琵琶は蝉の声を、尺八は竹林を抜ける風の音を表現していると言われる)を指し、“間” は音が鳴ったあとの静寂を指す(禅と同様、 “間” の定義は非常に階層が厚く奥が深いため、ここでは詳しく説明しない。武満は “間” のコンセプトは音楽哲学でもあるとしている。"間" はふたつの世界を繋げる橋であり、その間の空間であり、魂が入る器も意味する)。“さわり” も “間” も説明をかなり省略してしまったが、琵琶の糸を弾いた時に生まれる “さわり” とそのあとに生まれる “間” を聴いてみれば、このふたつが密接に関係しており、お互いに影響を与えながらひとつのユニットとして機能しているのが分かる。これはWandelweiserの静寂に対する考え方に近い。

 

このような日本独特の美学が最も素晴らしい形で相互作用しているのが、武満の最高傑作のひとつとして知られる、1967年にNew York Philharmonicから125周年記念作品として委嘱された『ノヴェンバー・ステップス(November Steps)』だ。これは琵琶と尺八の長尺の二重奏に、フルオーケストラの演奏が差し込まれていく作品だ。尚、琵琶奏者と尺八奏者の楽譜は、Cageの楽譜のようにその大半が記号・文字となっている。この楽譜で武満が指示しているのは音程だけで、フレーズとリズムは奏者の手に委ねられている。

 

 

 

 

琵琶奏者と尺八奏者の演奏はティンパニとストリングスから逃げているように聴こえる。それはまるで荒れ狂う海鳴りの中に放り込まれたかのようだ。一方、琵琶と尺八とは対照的に、オーケストラの音は機械的で、自然な “さわり” とそれに伴う “間” に寄り添うことはほとんどない。これは、ひとりの芸術家が深海の中に自分の声を見つけた音楽であり、琵琶と尺八によって生み出された本能的な若々しいノイズでもある。ひとりの作曲家が生命を得た瞬間のサウンドなのだ。

 

繰り返しになるが、今回取りあげているストーリーは、武満徹のほんの一部でしかない。彼は非常に多作な作曲家であり、映画・テレビ・ラジオ・オーケストラ・アンサンブルのために数多くの作品を残した。武満とCageは急速に懇意になり、お互いに混沌と美に満ちた数々の作品を残しながら、太平洋と戦争を超越して運命、音楽への熱心な献身、そしてその後の静寂で繋がりながら、残りの人生を通じて良き音楽仲間であり続けた。

 

Cageと武満の関係について考える際に、文化が精神的、または物理的に危機に晒された時に我々が何を失うのかを改めて意識することは重要だ。今という時代の中では特にそうだろう。文化が危機に晒されることは、家族や企業人にとって有害なだけではなく、我々が共に祝福すべき芸術にとっても有害だ。宗教的迫害から逃れようとしている人たちや、自由国家で新たな人生を模索している人たちの中には、歴史の泉、つまり、我々に文化の再発見を促すきっかけ、または音楽家の小さな集まりに新しいレンズを通して音楽について考えさせるきっかけになり得るアイディアや信条に満ちた巨大な池が存在するのだ。真の多元的国家には、Cageと武満の間で行われたようなエクスチェンジが無数にもたらされることだろう。

 

Jeremy D. Larsonが毎月ホストを務めているRBMA Radio “Undertones” の日本人作曲家特集はこちら