今回の論争についての主催者としての見解ですが、まずは夫婦別姓論争がここの掲示板の主旨に沿うかどうかということ、について。
はっきり申し上げまして、抽象論争はこの掲示板にふさわしくないと、個人的には考えています。しかし、削除したり、警告を発したりといったような必要は無いと考えますし、これからもその種の論争が発生することを妨げるものではありません。
第二に、チャットでの「本人のいないところで中傷」云々についてですが、これは私の理解を超えるところであります。
まず、チャットはどんな方でも参加できるオープンなスペースですから、Aさんが参加なさって議論を行うことも可能なはずですし、ログを元に掲示板の方で反論を行うことも可能ですし、現にAさんは、それをなさっているのではありませんか?
三番目に、「Nのとりまき」うんぬんについてですが、これも私には理解いたしかねることです。DさんやLさんをはじめとして、ここの常連の方々は、主催者である私とは相当思想面だけでも隔たりがあることは、主にこれまでの議論を通じて、少なくともいわゆる「常連」の方々には明らかなことだと思います。[no.162,
N]
私は、B氏の悪意により、議論がうやむやになったことを正すために再掲載したのである(27)。もしも、N氏がその趣旨を理解した上で、「題名と日付の提示だけで足りる」と考えるなら、同氏がその情報を提示するべきである。なぜなら、私はこの掲示板を見にこなかったかもしれないからである(今回も他人に教えられて見にきたので)。…
削除や警告は必要ないかもしれないが、アクセスする者すべてが掲示板の趣旨を理解しているわけでないので、管理者からの適切なアクションがないがために、ナイーブな人間が傷つけられることがあってはならないと思う。しかも、それが管理者の預かり知らないところで起きたのなら、やむをえないが、現にN氏の「眼前」で、他の人々からそうした発言がなされ、そのことにより大袈裟かもしれないが、人権侵害がなされたのなら、N氏の責任を問うのは当然とおもう。まさか「知らないで来た奴が悪い」とは誰も言わないだろう。E氏の自己責任の範疇を超えるというのが私の見解である。
いろいろ混乱したので、論旨が伝わっていない部分があると思う。私は、単に、本人のいないところで批判することは、別にかまわないと考える。ただの悪口ならそれこそQ氏(だったと思うが)が言うように言論の自由(勝手)だと思う。私も影でB氏に何言われようとも、「ああ、またか」程度にしか思わない。しかし、L氏の今回のやり方は、背信行為であり、単なる悪口とは異なるものであると考える。だからこそ彼も自粛宣言したのであろう。ただ、私は彼の行為が償いになっていないと考えるだけである。そこのところの理解がされていないのが残念であるし、だからこそ一連の投稿を再掲載したのであるが。…
ともかくこのことが、当該の人たちの本質と勝手に理解させてもらい、N氏や同氏の周辺にいる人たちに対しての今後の評価の材料とするだけである。[no.163,
A]
結局、ここでは問題提起者は管理者への信頼を修復することもできず、物別れのまま討議は終了した。これを言い換えれば、「管理者」という「自発的に割り振られた役割性」がうまく機能しなかったと言うこともできよう。
9:結論と今後の展望
さて、「新しい」メディア空間は「仮想的な公共空間」「無責任な公共空間」であるだろうか?
今回の素材からは、討議参加者たちの関係性は、信頼関係の形成には向かい難く、自己回帰的な満足、「癒やし」の関係を取り結んでしまう、という傾向が観察された。しかし、これらの結果がどの程度「仮想的な自己」という要因に帰因するものであるかということには考察の余地があるだろう。
ここで、この「新しい」メディアと従来型のメディアのどこがどの程度違うのかを再度おさえておく必要がある。
栗田はパソコンコミュニケーションの政治メディアとしての可能性を論じている。彼は対話、ビラ、テレビ/ラジオといった従来から政治に用いられてきたメディアとパソコンメディアとを下表のように比較検討した[川浦他,1996:96-111]。
メディア 対話 ビラ テレビ/ラジオ パソコン
1伝達コード 音声 文字 画像/音声 文字
2方向性(開放性) 双方向 一方向 一方向 双方向
3送り手(開放性) 制限無し 制限無し 制限 制限無し
4受け手(能率) 少 多 多 多
5情報量(能率) 少 多 少 多
6広域性(能率) 狭 狭 広 広
7即時性(能率) 速 遅 速 遅
8送信コスト(開放性) 低 低 高 低
9受信アクセス(開放性) 易 易 易 難
開放性(%) 開放的 100 開放的 75 開放的 25 開放的 75
能率(%) 非能率 25 中間的 50 能率的 75 能率的 75
モード プレモダン モダン レイトモダン ポストモダン
栗田は「新しい」メディアは、従来のメディアと比較しても、政治メディアとしてはすぐれて能率的かつ開放的であると言う。そして、彼の批判は主として送信コストや受信アクセスの利便に向けられる(28)。“原理的には”この見解は正しいものであろう。したがって、開放性や能率の面から、「新しい」メディア空間が公共空間としての大きな可能性を秘めたものであると結論づけることに関しては、筆者も賛成である。とするならばやはり、このメディアを政治メディアとして使いこなせていないということの問題の根幹はこのメディア空間に存在する行為者の側にあると考えられるだろうか。
行為者の「仮想性」(29)という問題に進む前に、ここで注目してみたいのは「1伝達コード」と「2方向性」そして「7即時性」という項目である。これらは、「仮想的自己」に関する問題群というよりは、メディア特性やコミュニケーション形態そのものにまつわる問題群である。
栗田の表にも挙げたように、「新しい」メディア空間で行われる伝達コードは基本的には文字であり、微妙な感情の襞や無意識の仕草などは表現不可能である(30)[遠藤,
1998: 55]。例えば討議の最中に「もういいですよ」という文字が発せられたとき、その読み手には、「それでもういいですよ」という了解と、「もう議論はいいですよ」という拒否という相反する二つの解釈が可能となる。こうした文字コミュニケーションという特性がフレーミングの多発につながっている可能性もある(31)。
川浦らは、文字メディアとしてのコンピュータコミュニケーションに対するユーザの評価を調査しており興味深い結果を示している。ユーザの半数近くが「自分の気持ちや考えがまとまるのでよい」と、文字による自己表現のメリットを意外に多く認識している[川上他,
1993 :88-89]一方で、「直接会って話すよりも自分の気持ちや考えを上手く表現できる」という回答は2割を下回っていたのである。
文字で書かれた文章は、規格化されているだけに、読み手の注意は文章そのものに向かうことになる。そして、できあがった文章は一定の「推敲」を経た、統制された産物であると見なされ、受け手にとって、メッセージのインパクトはきつくなる[前掲書
:43]。対面コミュニケーションと「新しい」メディアにおける文字コミュニケーションとの心理的相違点は、後者が聴覚や視角などの非言語情報を欠き、コミュニケーションチャネルが大幅に狭まっている点であるとヒルツらは指摘する[川崎他,
1994:53]。これらはなにも行為者の仮想性に関する類のデモグラフィーに関する情報だけではなく、外見に関する情報や表情情報、しぐさや身振りと言ったボディランゲージ、視線交錯による意志確認情報、感情情報といった、コミュニケーションにとって重要な要素(32)である情報の欠損にもつながっている(33)。
同様に、この非対面的コミュニケーションという特性によって、討議者は物理的/生物的身体を相手にさらすことがない[遠藤,1998:55]。そのため、対面的コミュニケーションではありえない失礼な罵倒も平気で行うことができてしまう。このことは従来、行為者の「仮想性」のみと関連づけられてきたが、参与観察の際には、本名をHNに用いた者の無責任発言も罵倒も見られた。このことを考えると、行為者の「仮想性」だけでなく、「文字コミュニケーションが討議に向くのか」という根本的な疑問がわいてくるはずである。したがって、ここからは「新しい」メディアそれ自体が「制限メディア」であることそのものにも、その空間を公共空間として成立させ難い要素があることが考えられる。
これに関して、筆者はマルチメディアという技術的支援によってこれらの問題群はある程度解決可能なのではないか、と考えている。感情判断の場面などで、声と表情の両方が与えられたからといって、正確さが上昇するとは限らないという見解もあるが[川崎他,
1994:55]、徃住は、マルチメディア化によって人間の心のメカニズムが変化していくとしてその意義を語っている。彼によれば、文字メディアから映像・音のメディアへとメディアが拡張していくことで、行為者の心的メカニズムが「形式的な推論や論理的メカニズム」から「感情や評価といった感性的メカニズム」へと拡張していく可能性がある[前掲書:26]。
次に、「新しい」メディアの方向性について考えてみよう。栗田がパソコンメディアの方向性を「双方向」としたように、コミュニケーション・メディアとして「新しい」メディアでは、原理的・技術的に双方向性が実現されている。しかし、文化的・心理的に、あるいは実践的な意味で「真の」双方向性が実現されていないという可能性もあるはずである[川上他,1993:
94]。基本的に、討議の参加者には、会話のモードの選択(対人的配慮の選択、非言語的情報の「盛り込み」の選択)と自己関与の選択が任されている[前掲書:
95]が、この対人的配慮ができていない参加者の場合、発言内容は自らの主張を一方的に投稿するものに終わっている。先の川浦らの調査結果では、「相手の表情や反応を創造しながら書いている」という人が3割近くいたが、これがユーザの利用頻度と相関を示している[前掲書:89-91]という点は注目に値するだろう。
さらに即時性の問題がある。この即時性を相手の発言に対してアクションを起こすという行為に限定するならば、これは対面的コミュニケーションに比べて確かに遅い。会議などの対面的な討議では、発言の最中に異論があってもそれをすぐに表明する(発言はしなくても不快感を示す)ことが可能であるが、電子掲示板では、反応は相手のスレッドを読んだ後にしか行えない。この「即時性」の遅さによって、感情を沈める間が生じるというメリット同時に、口を挟めないことに対するフラストレーションというデメリットも生じるはずである。
さて、これらのメディア特性をわりびいてもなお残るのが行為者の「仮想的な自己」にまつわる問題群である。「新しい」メディア空間ではその帰属の性質は「アドホック」であり、共同体に全人格的にコミットすることはない。その分、責任感も曖昧化する[遠藤,
1998 :54]。無責任な発言をしても現実世界での利害関係とは無縁なところで、その関係性を持続する必要もなければ、参加者は自ずと「無責任な主体」になってしまう。そのような無責任な参加者が「共通結論」の想定などせずに、自らの主義主張をただがなり立てているだけだとしたら、その討議がうまくいかないのは当然のことである。
そして、観察の結果しばしば見られたのが「仮想的な他者」に対する不信感である。相手が男か女か、何を職業としているものか、何人か、すらわからないような状況でコミュニケーションをすることに、参加者はしばしば不安を抱き、疑心暗鬼になりがちであった。そのような「仮想性」という基盤のもとに成り立つ信頼関係や親密性はたしかに脆弱なものである。
しかしながら、その中でも彼らが「現実世界での疎外感」を忘れるくらいの仲間意識を醸成しているという現象も見られた(34)。したがって、これらの現象が「過渡期的」なものである可能性もあるだろう。ハーバーマスが『公共性の構造転換』で述べたように、近代社会がマスメディアの発達に伴って、公権力に対する「批判的公共圏」を失ってから久しい[ハーバーマス,
1994]。ひるがえって、「新しい」メディア空間で政治的な討議が行われるようになり始めてからまだほんの数年なのである。こうした討議が日常的な出来事として定着し、行為者が仮想的自己同士の討議になれていくことで、事態が変わっていく可能性も十分にあるはずである(35)。
最後に、池田の議論にならって、「新しい」メディアを「公共空間」として成立させうる可能性を考えてみよう。彼はコンピュータ・コミュニケーションの「コミュニケーション文化」発展の3つの可能性として以下のように言う。
第一の可能性はコンピュータという電子メディア自体の中に語り手の特長を本来のままの形で確保する道である。これは、ビジュアルな条件の確保によって、対面コミュニケーション[川上他,1993:188]になるべく近づけていくという方向性である。この可能性を「公共空間」の成立という本稿のテーマに即して語るなら、筆者の考えるマルチメディア化による対面コミュニケーションへの接近という解として考えられる。ただし、ここではデモグラフィを明かすことなく討議が可能であるという「新しい」メディアのメリットを半分以上損なうことにもなるであろう。
第二の可能性はコミュニケーション行動自体を変えることである。視覚的・聴覚的であった語り手の特長や語り口にかかわる情報を「メディア変換」して(例えば「表情文字」の使用)電子メディアにのせうる情報に変える[前掲書:189]というもっとも現実的な道である。この効果は、「公共空間」というテーマでは「無用な」フレーミングを抑制するという程度のものにとどまるであろう。(現に事例研究では、参加者の多くが「表情文字」を多用していたし、本名を用いてもなお、無責任発言をする参加者もいたのだから)。
第三の道は、非言語情報や相手の社会的役割・地位に関する手がかりをすべて捨て去ったところでコミュニケーションを成り立たせようとする道である[前掲書:191]。これは、もっとも困難な道ではあるが、「新しい」メディアの「新しさ」を損なわない解はこれ以外にはないと筆者も考える。この道を目指すならば、必要とされるのは参加者の倫理である。それは、単純に、オーディエンスを常に意識し、自分の「顔」をつくりあげる努力をし、自己陶酔的なオナニスムを戒めることである[江下,1994:144-156]だろう。第一の道をとらないのであれば、結局のところ、「新しい」メディア空間を公共空間とできるかどうか、という問題は、行為者の間にこのような倫理をどうやってつくりあげていくことができるのか、ということにかかっているように思われる。
本稿の結論を再度くり返そう。「新しい」メディア空間は「原理的には」公共空間足り得るものである。しかし、「制限メディア」というメディア特性は、一部その成立を阻む要因となっており、その内情はいまだ発展途上の段階にとどまっている。今後は、さらにケース・スタディを続け、メディア特性及び行為者の「仮想性」にまつわる問題への解決法を探ってゆく必要があるだろう。
【参考文献】
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・川崎賢一他,1994,『メディアコミュニケーション』,富士通ブックス.
・公文俊平編著,1996,『ネティズンの時代』,NDD出版.
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・森岡正博,1993,『意識通信』,筑摩書房.
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・吉見俊哉,1994,『メディア時代の文化社会学』,新曜社.
註
(1) ハイテク産業のジャパネットによる調査では、一人当たりの平均利用時間は一日十数分[朝日新聞97/6/17]だそうであるが、これにはかなりのばらつきがあると考えられる。
(2) 他の調査では6%という数字も出ている[松村,1995:225,
電気通信政策総合研究所,1989:4]。
(3) 守弘もまた、ニューメディアをマスとパーソナルの間にある中間的コミュニケーションと位置づけている[林,1991:53]。
(4) 公文によれば、この「コミュニティ・コミュニケーション」とは、一対多のコミュニケーションの新形態である「パブリック・コミュニケーション」と、同じ目標や志を共有する人々の協働行動を支援する「グループコミュニケーション」からなるコミュニケーションのことである[公文,1996:33-35]。
(5) 以下、用語の統一を図るためこれらのコミュニケーションを「新しい」コミュニケーション、と呼ぶ。
(6) 森岡は「制限メディア」の例として、パソコン通信の他に電話をあげている[森岡,1996:208]。
(7) デモグラフィー(demography)とは本来人口統計学のことであるが、ここでは、年齢、性、職業、社会的地位、居住地、収入などの社会的属性の意味で使われている。
(8) 江下は、「『新しい』メディア空間で行われている交流の世界は『社会』か」、という似たような問いを立てており、そこは社会と呼べる明確な構造を持っておらず、むしろ「たまり場」と呼ぶ方が適切であるという興味深い指摘を行っている[江下,1994:159]。しかし、彼の「たまり場」と「社会」の定義は不明確である。「たまり場」は要約すると、1交流が個人の資格のもとで交わされ、2相互依存関係が自発的に形成される、3ひとの集まる場、ということらしい[前掲書:170-
171]。そして、彼はこのたまり場が「社会」となるための条件は「個人の尊重」と「参加資格の提示」にあるとする[前掲書:176-177]のだが、「社会」の定義も記述されていないため、ここでは彼の問いを用いることは断念した。
(9) 金子らは、1自発的参加、2情報供出、3関係変化、4編集共有、5意味創初という5段階を経て、<自発する公共圏>が発生すると主張する。[金子他,1998:136-137]。彼らの分析では<自発的公共圏>は、コモンズのゲームを何らかのルール(自生した規則性)とロール(自発的にわりふられた役割性)とツール(交流のための道具性)によって自発的に活性化する新しい運営システム、ということになっているが[前掲書:140]、まず第一にそれを「公共圏」と名付けることが妥当なのかということについてはもっと議論が必要であろうし、第二にそのシステムとしての原理が本当にうまく働いているのかについては個別の観察が必要とされるであろう。なお、彼らの<自発する公共圏>のイメージは「インターネット+伝統的共同体」[前掲書:138-139]であり、この二つを近代国家共同体と並べて対比させている遠藤[遠藤,
1998.:55]とは若干視点が異なるようである。
(10) 「公共圏」とは近代社会が成立し、社会秩序を再生産するための政治的空間であり、討議により公衆が統合された結論に至るという社会的決定方法を意味している[成田,1997:216]。なお、公衆とは、1共通利益を共有し、2特定の争点に直面した人々が、3争点について対立しながら、4集合的意思決定のために争点をめぐり討議している未組織の集合体、のことである[森岡他,1993:423-424]。
(11) 同様の議論は遠藤によってもなされている。彼によれば、世界の仮想化が進むと、「国家」「企業」「個人間のコミュニケーション空間」などは必ずしも相互に垂直的な包含関係をもたない別次元の空間に、多重的に存在することが可能になる。そして、それぞれの次元空間をそれぞれに異なる多様なネットワークの緩やかな共生体として構成することも可能だろうと予測する[川崎他,1994:141]。
(12) 一方、すがやのように、匿名によるコミュニケーションを「情報民主主義」と呼ぶような論調に対して批判的であり、そのような民主主義は「仮装民主主義」だと述べる者もいる[江下,1994:
138]。
(13) そもそも「情熱的に自己自身を主題化する公衆」が公共的議論を行う世界という概念自体が幻想である可能性もある。そして、このような立場に立てば、「新しい」メディア空間を「公共空間」と期待することはアナクロであり幻想である[林,1991:126]と批判されるかもしれない。この点については機会を改めて考えてみたい。
(14) 参考までに、日本全国のパソコン通信でのBBSは93年6月時点で1877局、会員数は196万であるという。そのうち会員数が1万人を超えるネットワークは全体の1.5%のみであり、300人未満の会員で運営される小規模な「草の根BBS」が半数以上を占めているそうだ[江下,1994:21]。
(15) BBSとはBulleDin Board
Serviceの略である。
(16) これらの区分は排他的にできるものではなく、一つの掲示板が複数の性格を持ち合わせていることが多い。
(17) 以下、プライバシーを考慮して、すべてのHNは仮名に変えてある。また、本論文執筆に当たって、発言者の了解を得ることが不可能だったため、発言内容はその一部のみを引用し、表現にも修正を施した。なお、本論文のもとになった資料はすべて筆者の手元にあること、及び本論文によって生ずる問題に対するすべての責任は筆者に帰せられること、を付け加えておく。
(18) このうち、女性には筆者(E)が含まれているが、HNは男性名を使用している。
(19) F、G、I、K他、の計7名。ただし、Iは性別不明だが発言中に「あたし」という言葉が現れている。
(20) 発言中に「俺」「僕」などの言葉が含まれる、HNが明らかに男性名である、発言中に「妻」など本人が男性であることを暗示させるような文章が書かれているなどより判断した。が、筆者のように性を偽って書き込みをしている者が他にいるかもしれず、確固たる判断は不可能である。
(21) 川浦他の調査では情報の受信対発信の比率は、電子掲示板では79%対17%、フォーラムでは62%対30%、チャットでは16%対11%である[川上他,1993:81]。また、参加者の中には読むだけの人、ROM(Read
Only Member、潜伏者lurkerともいう)もおり、「RAM(Radical Access Member)1人にROM10人」とすら言われている。
(22) フレーミング(flaming)とは、暴言や中傷のことを指す。
(23) B―F、D―A/E/G/H、C―A/I、I―J/K、E―J/L/P、A―L、A―B、A―N。
(24) IPアドレスとは、インターネット・プロトコルにおける計算機の識別番号のことである。スキルさえあれば、このアドレスから、投稿者がログインしているホスト名を割り出し、その身元を暴くことも可能である。実際、「戦後責任問題」の討議中に、ある人物の投稿内容に対して「反日日本人が韓国人を装っているのでは」と疑いを持ったメンバーがそのホスト名及び契約プロバイダの名称や住所を暴いて投稿するというような事態が起こった。このように、「新しい」メディア空間では完全なる匿名性が必ずしも保証されているわけではない。
(25) この文章の前に、AはHNを変えて罵倒投稿を続けていたBのIPアドレスを提示し、それらが同一人物による投稿であることを明らかにした。
(26) なお、この事態を受けて後に管理者は新たなチャットの場を確保することになったが、そこでは参加の際にメンバーの身元がチェックできるような仕組みが完備されており、完全会員制になっているようだ。
(27) 実はno.154の前にAは、第九、第十ステージをめぐる問題を追求するために、過去の発言no.99(E)、no.103(L)、no.109(A)を再投稿していた。しかし、管理者Nはこれらの再投稿を削除してしまっている。
(28) 成田もまた、「新しい」メディア空間が「自律的市民の公共圏」への期待に答えるためには、「より広く徹底した情報へのアクセス」、「より大勢の人々の議論への参加」が不可欠ではあると言うが、それらが得られてもなお「新しい」メディアは決して魔法のメディアではないと述べる。なぜなら、「新しい」メディアの構造は全員が等しく情報を受け取るという意味での公開性に向いているわけではないし、討議には適当な規模があるからだ[成田,1997:240]。彼は、最大限に成功したとしても「新しい」メディア空間は「市民による公共的な関係のシミュレーション」にすぎないであろうと言う。
(29) また筆者は、参加者が<討議しうる人間>足り得ないのは、「仮想的な自己」ではなく「自己」そのものの問題なのではないか、という疑いも抱いている。今回とりあげなかった「戦後責任問題」の討議においては、いわゆる「自由主義」史観対「自虐」史観の論争が延々と繰り広げられたが、そこでは特に「問題解決」に向けての「討議」への自覚が希薄であった。メンバーの大半を占める「自由主義」史観には相手を「サヨク」と規定すること「のみ」に終始する者も多かったし、逆に「自虐」史観の中には一方的に自らの主張のみを投稿し続ける「対話」への意志の見られない者も存在した。このような事態の一部は「断片人格」という「仮想的な自己」に帰因されるであろうが、それ以外に、結局のところ現実社会における個々人の「性格」そのものの問題もあるのではないか、というのが筆者の疑いである。ただし、これは調査のしようがないので、今後さらに他の掲示板での討議の様子を観察し続けていく必要があるだろう。
(30) この点を補うものとして、「新しい」メディア空間では「表情文字」が使われることが多い。文の間や末尾におかれる、文字や記号を組み合わせた簡易表情でエモティコン、スマイリーフェイス(^_^)などと呼ばれるそれらは、文字コミュニケーションで表現できない感情を伝達する重要な役割を果たしていると考えられる。
(31) 一般的に、非言語情報が使えないメディアを介したコミュニケーションは、対面事態に比べ、私的な側面が後退して、形式的になり、課題志向が強まることが知られている[川上他,
1993: 42]。しかし、事例分析にも見られたように、新しい「メディア」空間の中のコミュニケーションには、連帯、敵意、緊張、緊張緩和、同意といった対人感情的な表現がかなり見られ、こうした報告は数多くなされている。
(32) 対面場面で交わされる意味の93%はこうした非言語コミュニケーションが担っているという報告も紹介されている[川上他,
1993:41]。
(33) こうした情報欠損による影響は必ずしも一様ではなく、利用者の習熟度に応じて異なる。初心者はもっぱら文面から欠損部分の情報を推測しようとするが、なれるにつれて、準言語情報を文章に盛り込んだり、ときには文字で図柄を構成して(註30参照)欠損情報を再現する試みもなされるようになる[川崎他,
1994:53]。
(34) なお、川浦らの調査では、メディアの利用形態の違いによって「新しい」メディアを「連帯」のメディアと捉えるか、「孤独」のメディアと捉えるかということに差異が見られるという興味深い結果が出ている[川上他,1994:186]。
(35) フィールド・ワークの最中に、参加者達が自分たちのコミュニケーションを次のように語っていたのは印象的であった。
<対話というものの煩わしさに耐え切れない人たちへ
投稿者:P 投稿日:12月28日(日)15時44分44秒>
そもそも、対話というものには、「これが最後だ」とか「最後通告」だとか、そういった「終わり」は、原則としては存在してはならないものなのです。
対話というのは、多くの場合は、単なる徒労です。・・・(言葉の力を過信してしまうのは、悪しき言霊崇拝というものでしょう)
しかしそれでも、ぼくらが何よりおそれるべきもの、それは「対話の絶滅」でなければならないはずなのです。「対話の絶滅」こそは、まさに「世界」の「終わり」なのですから。
<お別れ 投稿者:R 投稿日:01月06日(火)10時19分55秒>
しばらく書き込みをしていませんでしたが、しょっちゅう見てはいました。
はっきり言って失望です・・・・・・いえいえいえ、皆さんにではなく、ネットでの議論というものに。
いかに失礼に相手を罵ろうとも、感情に走ってものを言おうとも、何の責任もなければ、自分が恥をかく心配もない。これでは、有意義な議論は望むべくもないでしょうね。
いつか、ここにお集まりの皆々様が実際に相対しての議論があることを祈りまして、私は書き込みを終了いたします。さようなら。
<それでも 投稿者:S 投稿日:01月06日(火)13時38分33秒>
日本人が議論が下手だという事の真偽はともかく、そういう指摘は今に始まることではない。その上で、このような掲示板で、現実の権力関係のしがらみを離れて、論争が持てること自体の意義は、現状がいかに未熟でも否定できないと考える。開設者のNさんをはじめ多くの投稿者の意見は、僕個人としては、全く同意できないものだが、そういう意見をもつ人達と実際に言葉を交わすことで得るものもある。
これらの発言にもかかわらず、残念ながら、この掲示板は、「戦後責任問題」論争が激しているさなか、98年1月に主催者によって閉鎖されてしまった。この閉鎖が彼らの名づけた「サヨク」達との討論を嫌ってのことかどうか、事情は定かではない。異論を持った相手との討議というわずらわしさに耐えうるかどうか、というのはこのメディア空間の「新しさ」とはまた別の問題であろう。