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「教育勅語」の呪縛のなかで日本社会が先送りにしてきた課題
我々はそれをどう乗り越えるべきか

日本社会が直面する課題

現在、教育勅語が関心を集めている。

きっかけは学校法人森友学園の話題であろう。この学校法人が用地を取得するに当たり、複数の政治家に便宜を受けたのではないかという疑いがかけられている。安倍首相の昭恵夫人のこの学校法人との距離の近さも指摘されており、現政権を脅かす政治スキャンダルとなる可能性もある。

この学校法人森友学園が運営する幼稚園で、園児に教育勅語を暗唱させていたことも話題となっている。戦前の教育において大きな影響力を持ち、そして戦後には否定された教育勅語であるが、それと向かい合い、その意味を問い直すことが私たちの社会にとって乗り越えるべき一つの課題となっている。

難解になる可能性を避けず、本論では教育勅語の意義について哲学的に掘り下げて考察した。

あらゆる思想・宗教・政治理論などは、言語で表現される思想や教義・理論体系を奉じている。しかし、教育勅語に現れる日本的な感性は、そのような言語化される以前の「生活の実感」を、それらの諸理論よりも上位に置く。思想と思想のぶつかりあいならば、その優劣を論理的に考察することが可能であろう。

しかし、言語で表現される思想になる以前の生活の実感を、あらゆる思想よりも優位にあると考える立場を論理的に否定することは難しい。教育勅語が表現しているのは一つの強力な哲学的な立場であり、西洋近代に対する一つのアンチテーゼになりうるものだったのだ。

そのため、これに対しては完全に同一化してしまうか、全く否定して距離を取るかの極端な態度が生じやすいのだが、そのどちらも避けて思考することが、現在の日本人に必要な姿勢である。

 

教育勅語が「排除」しているもの

藤田省三という丸山眞男の弟子の政治学者に『天皇制国家の支配原理』という著作がある。それを読むと、いま日本社会で起きていることについての理解が大変深まる内容となっているが、あまり広く知られていない。その中の教育勅語について書かれているところを、拙著『日本的ナルシシズムの罪』で紹介した。

教育勅語が制定された背景には、上からの近代化と、各地のムラ社会の論理(情と義理によって構成員の一人一人が全人格的に結びついていること)の対立があった。それは次第に激しくなり、時に調停が困難になるほどであった。

そこで求められた葛藤を解決するための指針として示されたのが教育勅語であった。