特集
実践的な在野学の冒険(猪野修治・竹中英俊)
このような方たちから知的影響を受けつつ、九六年三月に現代思想史研究会を立ち上げることになります。第一回の研究会は、佐々木力さんに「トロツキイの現代的意義」と題した講演をお願いしました。『生きているトロツキイ』(東京大学出版会)を刊行されたことが契機になっています。以後、第四回まで現代思想史研究会はつづきますが、もう少し地域に根差した活動をしたいという思いもあって、九八年に名前を変えて湘南科学史懇話会を立ち上げました。竹中さんもご紹介くださったように、学会とは距離を置き、自分独自の活動がしたかった。私の言葉でいうと、「もっと広く自由に。自分も学びたいけれども、市民の皆さんも一緒に学びましょう」という思いがありました。ですから、会則もなければ会員・会費もない。講師料も、大変申し訳ないけれど、ゼロでお願いしています。会場費だけを参加者で折半する。資料だけはこちらで準備する。完全にフリーな形の、一期一会の集まりだということです。
二番目に挙げられるのは、中国文化史の渡部武さんの会「『天工開物』の書誌学的研究―三枝博音氏の研究継承の試み」です(第六五回、二〇一三年十一月)。明王朝から清王朝への激動期に生きた知識人、宋応星によって著わされた『天工開物』、この書物は、中国の農業、養蚕、製塩、製糖、製紙、鉱物の精錬から兵器の製造にいたるまで、挿図を付して、詳細に分析したものです。著名な科学史家・三枝博音は、『天工開物』の科学史的価値を、世界の科学史の中で最初に位置付けた研究者であり、その書誌学的な研究も行なっています。渡部さんの講演は、三枝についての非常に興味深い話でした。渡部さんに啓発されて、中国科学技術史研究の巨匠ジョセフ・ニーダムの壮大な本『中国の科学と文明』全十一巻(新思索社)を読むことになりました。私は常に、気になった学者・研究者の著作はすべて読破することを、自分に課してきた。この回も、ニーダムの著作に触れられたのは、大変幸せだったと思っています。
三番目。湘南科学史懇話会は、在野にいる市民の立場で学問を考えていますから、絶対に取りあげなければいけないと思った人がいます。安藤昌益研究を、民間の学術研究としてつづけてこられた東條栄喜さんです。以前の本職は、東京大学原子核研究所に勤める科学者でした。『互性循環世界像の成立―安藤昌益の全思想環系』(御茶の水書房)をはじめとして、何冊もの安藤昌益研究書を刊行されています。「安藤昌益の循環思想と自然概念」という題で講演をしてもらいました(第六七回、二〇一四年三月)。東條さんは、四十年にわたる独自の研究によって、学問を発展させた人であることがよくわかった。この時も、また悪い癖が出て、『安藤昌益全集』全二一巻・別巻一(農山漁村文化協会)を読破しました。二ヶ月にわたって毎日、安藤昌益と向き合う日々を送った。もちろんすべて理解できるはずもありません。しかし徹底的な反権力者だということはよくわかりました。ある意味では、狂人と見られてもおかしくない。こういう人物がいたことに、私は大変勇気を貰いました。
目の前にいて恥ずかしいんですが、四番目には、竹中さんの講演「中江丑吉―市塵の思考者について」(第七三回、二〇一五年六月)を挙げたいと思います。中江丑吉は孤高の古代中国政治学者です。中江兆民の長男として大阪に生まれ、東大で南原繁と同級生だった。大学卒業後、一九一五年に中国にわたり、三十年間、北京での生活を送る。竹中さんの話に感化され、例によって、中江丑吉に関する書物を手当たり次第読みました。私が感銘を受けたのはこういうことです。大学教授でもない、名もなき民間の学者でありながら、中国のあの激動の時代から多大なる示唆を受けている。しかも丑吉は、カントやマルクス、マックス・ウェーバーからヘーゲルも含めて、西洋の哲学を原書で読んでいる。とりわけ『資本論』を繰り返し原典で読んでいた。フリーの立場で学問を志している人間としては、学問をするとは一体どういうことなのか、真剣に考えざるをえませんでした。中江丑吉のようなスタンスで、なんの見返りも求めずに学ぶ精神こそ、一番尊いのではないか。私はそう思います。
最後に、フォトジャーナリストの豊崎博光さんの講演「世界の核被害の現場から」について話したいと思います(第四二回、二〇〇五年十月)。豊崎さんは、マーシャル諸島をはじめとして世界中の核被害の実態を伝える本を刊行されています。たとえば二〇〇五年に日本ジャーナリスト会議賞を受賞した『マーシャル諸島 核の世紀』(日本図書センター)を見て、本当にびっくりしました。自分自身が、かつて豊崎さんのようなジャーナリストに憧れていたということもありますが、お話をできて本当によかったと思っています。本書に関しては、『科学史研究』の書評で絶賛しました。

◇猪野修治氏と湘南科学史懇話会の20年
1969年2月 山本義隆氏(物理学)の演説を聞く
1972年8月 梅林宏道氏(物理学)と出会う
1980年9月 山本義隆氏(物理学)と勉強会
1981年4月 西尾成子氏(物理学史)に国内留学
同年 10月 佐々木力氏(科学史)と知り合う
1992年9月 上田昌文氏(市民科学)と知り合う
1996年3月 現代思想史研究会を創設(東京)
1998年5月 湘南科学史懇話会を創設(藤沢)
2005年3月 勤務先を早期退職
2006年9月 遊行フォーラムと交流を始める
2016年10月 湘南科学史懇話会20周年
2017年2月 第81回の懇話会を実施する
湘南科学史懇話会
第3180号 2017年3月10日 新聞掲載
実践的な在野学の冒険(猪野修治・竹中英俊)
アカデミズムの世界からは距離を置き、在野で学問をつづける人たち――。猪野修治氏もそのひとりであり、猪野氏が主宰する「湘南科学史懇話会」は、前身である「現代思想史研究会」から含めると、昨年創立二十年を迎えた。その歴史を記録した『実践的な在野学の冒険』も刊行された。猪野氏は、なぜこの会を立ち上げ、研究をつづけてきたのか。会の設立当初からサポートをしてきた竹中英俊氏と対談をしてもらった。
湘南科学史懇話会
竹中
今日は「実践的な在野学の冒険」というテーマで、昨年創立二十年を迎えた湘南科学史懇話会代表を務める猪野さんにお話をおうかがいします。会の活動内容だけではなく、現代の科学あるいは科学技術、学問のあり方についても、批判的な提言をしていただければと思います。湘南科学史懇話会は、アカデミズムの学会とは一線を画し、科学史・技術史だけではなく、人文社会科学的なテーマも取り上げて、講演を催してきました。読者の方々には、その前史も含めて、節目となる出来事(左下年表)を参照していただきながら、まずは猪野さんの簡単な経歴を踏まえて、会の立ち上げまでの話をお聞きしたいと思います。猪野
私は一九六四年に上京し、勤労者と学生の両立をしてまいりました。昼間は働きながら、東京理科大学の夜学に通う生活を送り、十分に勉強する時間が確保できませんでした。それに対する不満が積もり積もって、現代史の研究の道を志すようになったのではないかと思います。会を立ち上げるまでには紆余曲折ありましたが、エポックとなるいくつかの出来事があります。一番大きかったのは、当時東大の院生だった山本義隆さんとの出会いです。六九年二月、山本さんが、日比谷公会堂で演説をしました。そこで彼の言葉を直接聞く機会にめぐまれ、以来、山本さんからは大きな影響を受けて、今日まで至っています。次に記憶として強く残っているのは、七二年八月の米軍基地相模原補給廠の戦車阻止闘争です。この運動の現場で、科学者の梅林宏道さんと出会いました。科学技術に対して批判的な視点を持つようになったのは、梅林さんとの出会いが大きかった。そして八〇年、山本義隆さんと再会することになります。高田馬場で開かれていた勉強会「寺小屋教室」で、山本さんは廣松渉さんらとともに、市民向けのゼミをやっていました。このゼミで勉強させてもらった。山本さんの本は、すべて読んできました。学問的にも、また精神的にも大きな支柱として、私の中には存在しています。アカデミズムとの接点としては、八一年に、日本大学理工学部の西尾成子さんのところに、国内留学しました。また、同世代で東北(山形・宮城)出身であることもあり、科学史家・佐々木力さんとの出会いも記憶に残っています。彼とは八一年十月に出会い、その著書を熱心に読んできました。このような方たちから知的影響を受けつつ、九六年三月に現代思想史研究会を立ち上げることになります。第一回の研究会は、佐々木力さんに「トロツキイの現代的意義」と題した講演をお願いしました。『生きているトロツキイ』(東京大学出版会)を刊行されたことが契機になっています。以後、第四回まで現代思想史研究会はつづきますが、もう少し地域に根差した活動をしたいという思いもあって、九八年に名前を変えて湘南科学史懇話会を立ち上げました。竹中さんもご紹介くださったように、学会とは距離を置き、自分独自の活動がしたかった。私の言葉でいうと、「もっと広く自由に。自分も学びたいけれども、市民の皆さんも一緒に学びましょう」という思いがありました。ですから、会則もなければ会員・会費もない。講師料も、大変申し訳ないけれど、ゼロでお願いしています。会場費だけを参加者で折半する。資料だけはこちらで準備する。完全にフリーな形の、一期一会の集まりだということです。
竹中
最近の活動をご紹介いただけますか。猪野
会の創立二十年を迎えた昨年七月に開かれた、第七九回懇話会についてお話しします。哲学者の山脇直司さんに「経済学と実存主義から公共哲学、統合学、共生科学へ―我が知的遍歴ないし発展と普遍的課題」という講演をお願いしました。懇話会は、基本的に一回の講演が原則となっています。その一度の会で「山脇さんの学問の全体構造を知りたい」と、私はお願いしました。山脇さんも、私の要望に対して真剣勝負で応えてくれました。その意味でも、大変充実した会になった。アカデミズムのプロパーの、哲学的な理論の進化だけじゃなく、それぞれの時代の哲学から普遍的な理念を抽出して、新しい公共哲学あるいは社会哲学なるものを提言された。竹中
会の特徴のひとつとして、講演だけではなく、討論を重視する姿勢をとっておられますよね。猪野
はい。毎回二時から六時まで、前半二時間が講演で、終了後に討論をやります。会の主旨はむしろ後半にあります。参加者が自前の意見を述べ合う。お互いを尊重しながら、それぞれの言葉に耳を傾ける。相互作用が起きるのを願ってのことです。竹中
私は、会の立ち上げの時から、サポートさせてもらっているんですが、猪野さんは、講師の著作を全部読んで懇話会に臨まれている。そこが大きな特徴のひとつです。山脇さんの著作も、ドイツ語の博士論文や非売品のものまで読まれた。「山脇直司を裸にする」といいながら、準備を進めていましたよね。それに対して山脇先生も、全力をもって応えてくれた。猪野
学者の全体構造を知るためには、その学問の第一歩となる博士論文は決定的に重要ですからね。山脇さんの場合、ミュンヘン大学で論文を書き博士号を取得しています。日本語に訳すと「批判的合理主義と超越論的プラグマティックとの論争」というドイツ語の論文です。それに加えて、最近の英語の著作『GlocalPublicPhi―losophy』も読みました。理解の度合いはともかく、論文と真剣に向き合ったのは確かです。山脇さんもそれに真剣に応えてくれた。学者の誠実さを見る思いがしました。竹中
懇話会発足当時を振り返って、お話しいただけますか。猪野
「戦車阻止闘争」の話をしましたけれども、あの当時、梅林宏道さんたちは「根拠地」という概念を掲げて闘っていました。私の中には、そのイメージが強くあったんですね。自分の住む、この湘南という場所を根拠地として、そこから何かを発信する。そしてここに住む人たちを核にして、学問をつづけていく。そういう思いがありました。ただ、ひとりでは、どうやってもできない。だから九八年の立ち上げの時には、日本大学の中村邦光さん、東海大学の廣政直彦さんのおふたりに協力をお願いしました。そして第一回は中村さん、第二回は廣政さんの講演を行なった。それぞれ「江戸時代後期の東日本における「畑作中心地域(養蚕地域)」の農民の特性と“和算”文化」、「19世紀後半のエディンバラ大学の科学・技術教育と明治日本への影響」という題で、充実した会だったと思います。振り返れば、おふたりには大変ご迷惑をかけました。会場となった日本大学、東海大学の教室を借りてもらい、何から何まで面倒みていただいた。いくら感謝の言葉を述べても足りません。中江丑吉に学ぶ
竹中
二十年で八一回、特に記憶に残っている会について、ご紹介ください。猪野
本当は全部の会について話をしたいところですが(笑)、六つに絞ります。まずは、第四六回から四回にわたって行なわれた、いいだももさんとのシンポジウムです(二〇〇六年五月~八月)。二〇〇五年に、いいださんが『〈主体〉の世界遍歴』全三巻(藤原書店)を出された。私にとっては、以前からとても気になっていた思想家であり、刊行後、すぐに本を手に取りました。そして、いいだももさんの思想を解体してやろうじゃないかと、とんでもないことを考えたんですね。パネラーには、次の六人の方をお招きしました。グラムシ研究者の片桐薫さん、美術評論家の針生一郎さん、映画監督の近藤節也さん、イスラム学者の三木亘さん、作家のなだいなださん、科学史家の金子務さん。錚々たる大ベテランを招聘し、徹底討論をやろうと思ったわけです。シンポジウムは後に原稿に起こし、『湘南科学史懇話会通信』一四号に全文掲載しました。これは、いいださんの最後の連続講演の貴重な記録です。二番目に挙げられるのは、中国文化史の渡部武さんの会「『天工開物』の書誌学的研究―三枝博音氏の研究継承の試み」です(第六五回、二〇一三年十一月)。明王朝から清王朝への激動期に生きた知識人、宋応星によって著わされた『天工開物』、この書物は、中国の農業、養蚕、製塩、製糖、製紙、鉱物の精錬から兵器の製造にいたるまで、挿図を付して、詳細に分析したものです。著名な科学史家・三枝博音は、『天工開物』の科学史的価値を、世界の科学史の中で最初に位置付けた研究者であり、その書誌学的な研究も行なっています。渡部さんの講演は、三枝についての非常に興味深い話でした。渡部さんに啓発されて、中国科学技術史研究の巨匠ジョセフ・ニーダムの壮大な本『中国の科学と文明』全十一巻(新思索社)を読むことになりました。私は常に、気になった学者・研究者の著作はすべて読破することを、自分に課してきた。この回も、ニーダムの著作に触れられたのは、大変幸せだったと思っています。
三番目。湘南科学史懇話会は、在野にいる市民の立場で学問を考えていますから、絶対に取りあげなければいけないと思った人がいます。安藤昌益研究を、民間の学術研究としてつづけてこられた東條栄喜さんです。以前の本職は、東京大学原子核研究所に勤める科学者でした。『互性循環世界像の成立―安藤昌益の全思想環系』(御茶の水書房)をはじめとして、何冊もの安藤昌益研究書を刊行されています。「安藤昌益の循環思想と自然概念」という題で講演をしてもらいました(第六七回、二〇一四年三月)。東條さんは、四十年にわたる独自の研究によって、学問を発展させた人であることがよくわかった。この時も、また悪い癖が出て、『安藤昌益全集』全二一巻・別巻一(農山漁村文化協会)を読破しました。二ヶ月にわたって毎日、安藤昌益と向き合う日々を送った。もちろんすべて理解できるはずもありません。しかし徹底的な反権力者だということはよくわかりました。ある意味では、狂人と見られてもおかしくない。こういう人物がいたことに、私は大変勇気を貰いました。
目の前にいて恥ずかしいんですが、四番目には、竹中さんの講演「中江丑吉―市塵の思考者について」(第七三回、二〇一五年六月)を挙げたいと思います。中江丑吉は孤高の古代中国政治学者です。中江兆民の長男として大阪に生まれ、東大で南原繁と同級生だった。大学卒業後、一九一五年に中国にわたり、三十年間、北京での生活を送る。竹中さんの話に感化され、例によって、中江丑吉に関する書物を手当たり次第読みました。私が感銘を受けたのはこういうことです。大学教授でもない、名もなき民間の学者でありながら、中国のあの激動の時代から多大なる示唆を受けている。しかも丑吉は、カントやマルクス、マックス・ウェーバーからヘーゲルも含めて、西洋の哲学を原書で読んでいる。とりわけ『資本論』を繰り返し原典で読んでいた。フリーの立場で学問を志している人間としては、学問をするとは一体どういうことなのか、真剣に考えざるをえませんでした。中江丑吉のようなスタンスで、なんの見返りも求めずに学ぶ精神こそ、一番尊いのではないか。私はそう思います。
竹中
あの後、猪野さんもカントを原書で読まれたんですよね。猪野
毎朝、ドイツ語でカントを音読していました。朝八時ぐらいに『純粋理性批判』を読みはじめて、十時ぐらいになると恍惚感をおぼえてくるんです。あの充実感は、他では決して得られません。学問や社会に対する姿勢は、竹中さんの中江丑吉の話によって植え付けられたと思っています。竹中
なかなか、猪野さんのようにはできませんよ。「研究」とは人権である
猪野
あと二点だけ、話させてください。二〇一一年の原発事故以後、やはり放射能の問題を取り上げなくてはいけないと思い、海洋物理学者の湯浅一郎さんに来ていただきました(第七七回「海の放射線汚染を考える―福島事態を文明と欲望を問い直す契機に」、二〇一六年三月)。湯浅さんは、『海の放射能汚染』『海・河・湖の汚染』『原発再稼働と海』(以上、緑風出版)を出しています。彼は東北大学の大学院に在籍中から、女川原発反対運動に関わってきました。私より少し年下ですが、自分の専門とする学問と自らの生き方をどうやって一体化し、両者が融合する世界を生きていくことができるか、真剣に悩んだ世代だと思います。ふたつの世界をうまく融合させながら生きた人が湯浅さんだと、私は思います。湯浅さんの本は非常にわかりやすい。日本全国、どこに原発が置かれ、もし事故が起こったら、どういう被害が起きるかを、官制のデータを使ってシュミレーションしている。見事な本だと思います。湯浅さんは次のようなことを語っておられました。「どういう生き方をしたらいいか、上の世代よりも私たちは苦しんだ。科学者であることを批判され、また批判してきた自分が、科学者としてどう生きていくか悩みつづけてきた」。私は、著書とともに、その生き方に感銘を受けました。最後に、フォトジャーナリストの豊崎博光さんの講演「世界の核被害の現場から」について話したいと思います(第四二回、二〇〇五年十月)。豊崎さんは、マーシャル諸島をはじめとして世界中の核被害の実態を伝える本を刊行されています。たとえば二〇〇五年に日本ジャーナリスト会議賞を受賞した『マーシャル諸島 核の世紀』(日本図書センター)を見て、本当にびっくりしました。自分自身が、かつて豊崎さんのようなジャーナリストに憧れていたということもありますが、お話をできて本当によかったと思っています。本書に関しては、『科学史研究』の書評で絶賛しました。
竹中
会の運営にあたって、猪野さん自身が心がけてきたこと、またこうした在野の運動をどのように周知させていったのかについてお聞かせいただけますか。猪野
最近、知り合いの常石敬一さんが、こんなことをおっしゃっていたんですね。「研究するということは人権である。誰のためにやってきたのでもない。自分でやりたいことをやってきた。結果として、その研究が社会的に利用されれば大いに結構だが、それを最初から目論んでやってきたのではない」。湘南科学史懇話会も、そういうものだったと思います。自分が知りたい、学びたいと思うことがある、誰かに話を聞きたいと思う。そのためには、本を総ざらいして読まなければいけない。その時に、これが社会的にどういう意味を持つかなんて一切考えていません。それと会の存在や私の考え方をどう知ってもらうかということですが、たとえば『科学を開く 思想を創る』(つげ書房新社)と『サイエンス・ブックレヴュー』(閏月社)、二冊の本を出しています。懇話会に来た人たちも「猪野という人物が何者かわからないから」と、竹中さんのアドバイスを受けて書いたものです。あるいは随分以前から、ホームページ(湘南科学史懇話会)を通して、懇話会の活動を発信している。これは講師の方たちの活動とも連動するかたちになっています。東條栄喜さんの「互生共環」という通信も、今はこのホームページで読めます。鈴木武雄さんという在野の数学史家の論文を一部掲載させてもらったり、在野で頑張っている人とは、できるだけ協力し合っていきたいと思っているんですね。挿画:川村伸秀
竹中
先程ちょっと触れた『懇話会通信』も、活動を知らせるための重要な媒体ですね。猪野
創刊号から十四号まで、全部手作りでやってきましたが、紙の雑誌はかなりのお金がかかるので、今は出せなくなっています。やっぱり紙の本が好きなんですけれど、なかなかできません。その代わりを、ホームページで補っているという感じですね。開かれた知を求めて
竹中
懇話会の活動を通じて、地域の人たちとも新しい結びつきができたことを、私も身近にいて目の当たりにしています。その具体的な例をお話しいただけますか。猪野
湘南科学史懇話会の根拠地である藤沢には、時宗の総本山遊行寺があります。そこから名前を取った「遊行かぶき」を主宰している劇作家の白石征さんが、懇話会二十周年の集いで、とてもありがたい言葉を寄せてくれました。「湘南の地域文化活動のひとつである遊行かぶきと、湘南科学史懇話会には通底するものがある。それは在野の精神である。この精神をなにかの形で引き継いでいくべきである」。また茅ヶ崎の「湘南を記録する会」(渡部武代表、楠木正昭事務局長)とは、共通のテーマを見つけて研究会を開催したりしています。若い人たちとの関わりができたのも、嬉しかったですね。たとえば市民科学研究室の上田昌文さん。『科学・人間・社会』という雑誌に、上田さんがいい文章を書いていたんです。面識はなかったけれど、その雑誌に絶賛する文章を、私が書いたんです。そうしたら後日、上田さんが訪ねてこられた。彼は一種の天才ですよね。宇井純さんや高木仁三郎さんから影響を受けて、環境の技術社会について取り組んでいる。スケールの実に大きい方で、私も彼から日々学んでいます。竹中
少し違った観点からおうかがいします。在野の立場から湘南科学史懇話会の運営をつづけてこられた、その原動力となったのは何か。現代の科学技術や学問、あるいは大学に対する批判的意識をバネにしてきたのではないでしょうか。猪野
かつて「科学史」という学問がありました。それは今もあると思いますが、学問自体が変質してしまったと思います。権力に対する刃をなくし、体制的な学問になってしまった。アカデミズムの外から見ていて、そう感じることがあります。科学技術に関する最近の動向を見ていると、やはり軍事研究の問題が非常に大きいですよね。歴史的に振り返ると、日本物理学会が一九六七年に、軍事研究を一切拒否する声明を出しています。アカデミズムにいる人たちは、あの姿勢を一貫して守るべきだと思います。軍事研究拒否の原点を、科学者や歴史家は忘れてはならない。学問や思想は理想を追うべきです。そうした前提を踏まえて、学者・研究者は市民運動の最前線にいる人びとの思いを汲み取って学問に向かって欲しいと思います。たとえば池内了さんのような人が頑張っている。市民運動と連動していく池内さんの姿は、実にまともだと思います。湘南科学史懇話会はささやかで小さい運動かもしれないけれども、「この世界の片隅」で黙々と生きていく人たち、山脇直司さんのグローカル公共哲学でいえば、ローカルな場所で真剣に生きている人たちと協働して、理性的な判断を失わず、粘り強くやっていくしかないと思っています。竹中
私から最後にひと言。猪野さんは、営利や栄誉を一切目的にすることなく、ここまでやってこられた。その原点には、「自分が学びたい」という強い思いがあった。また同時にあったのは、「市民とともに学んでいこう」という姿勢だった。ここが制度のもとに置かれた大学の学びとは大きく異なる側面です。制度的な知だけではなくて、開かれた形でともに学んでいくことが、真の学問を切り開いていく。そのひとつの役割を湘南科学史懇話会は、ささやかながら果たしてきたのではないかと、私は受けとめております。今後も頑張ってください。◇猪野修治氏と湘南科学史懇話会の20年
1969年2月 山本義隆氏(物理学)の演説を聞く
1972年8月 梅林宏道氏(物理学)と出会う
1980年9月 山本義隆氏(物理学)と勉強会
1981年4月 西尾成子氏(物理学史)に国内留学
同年 10月 佐々木力氏(科学史)と知り合う
1992年9月 上田昌文氏(市民科学)と知り合う
1996年3月 現代思想史研究会を創設(東京)
1998年5月 湘南科学史懇話会を創設(藤沢)
2005年3月 勤務先を早期退職
2006年9月 遊行フォーラムと交流を始める
2016年10月 湘南科学史懇話会20周年
2017年2月 第81回の懇話会を実施する
湘南科学史懇話会