図書館で借りていた 昨日 読み終えました
わたしの読後感想よりも アマゾンで紹介されていた ねじめ正一さんの感想(週刊文春 2017.01.03掲載)が ぴったりなので 転載させてもらいます(これって違法なんかな?)
認知症患者の心の内側をのぞく
私の母が認知症、妻の母も認知症。親友が若年性認知症。私の身近でも三人も認知症がいるわけだから、高齢者の発症予備軍は四〇〇万人いると言われているのも理解できる。
妻の母の場合は、五年程前から徐々に認知症の症状が出てきた。妻は一人っ子で、生真面目で、小さな頃から親には迷惑をかけずに生きてきた。反対に、どちらかといえば親に迷惑をかけられて生きてきた感があり、私から見ても妻は頼りになる子である。
その妻が、一人っ子ゆえの責任感の強さからか、認知症という曖昧模糊とした病に振り回されながらも、私がやらなければ誰がやるという勢いで頑張ってきたが、母親の症状が進行するにつれ、「私がどうしてこんな目に合わなくちゃいけないの。お母さんは、私に意地悪しているみたい」と、目を吊り上げ、愚痴るようになってきていた。
『老乱』は、要所要所に差し挟まれた新聞記事なども入れて物語が展開されていく小説である。認知症の本といえば、介護する側の視点から書かれたものが多いが、この本が他の本と圧倒的に違うのは、著者に認知症の人の心がどうして分かるのか、という疑問や誤解を恐れずに、老人性認知症になった登場人物、五十川幸造の心の動きを、細かく真正面から描写していることである。
それは、フィクションという手法だからできることであり、著者が医師でもあるからこそ表現に説得力があり、読み手も認知症の幸造の心情に寄り添うことが出来る。
「認知症は治りません。……ご家族は病気だけを拒絶しているつもりでも、当人にすれば、自分そのものを否定されているように感じるんです。……周囲を困らせる周辺症状、……認知症患者の無意識の復讐ではないかと、……」
この本を妻にも読ませたら、前のめりの意気込みを少し抑え、険しかった表情も収まってきたのであった。
老いる、とは まさにこういうことだんだと どっぷり、老いの道に入りこんでいる自分には 本の主人公側から この本を読んでいることに気づいてちょっとね、ガクッときています
ほんの5年くらい前なら 介護側から「老いる」とは?と考えていたはずなのに…
わたしの ほんの短かかった、デイサービスやグループホームで経験が 昨夜寝ようとしたら 次々と思い出され 悶々としてなかなか入眠できませんでした
ゼロ歳児しか見ていなかった乳児院を辞め
ケアマネの試験挑戦し
介護の世界に飛び込んだのは2003年でした
今思えば なんと無謀な
そして 今なら もっと違った対応が出来たかも知れない
そんなことばかりが 頭の中で膨らんでくるのです
にが~い 思い出となって…
乳児院でのことも 介護の世界のことも
まだまだ文字にするのは 生々しい記憶なのだなぁと思いました
デイサービス時代の とっても印象に残るお方です
頑固一徹で そこが 魅力の元警察勤務のお方でした
あんな子供のすることを 「わしはせん!」と言い
周りを まるで悪人は居ないかと、目を光らせてそこに座っておられました
彼の気持ちの どれだけに
あの時のわたしは 寄り添えていたのでしょうか
今頃になって 悔やんでいても 遅いのですが…