高校の時だ。現代国語のT先生から、
「たとえ話をするな。非論理的だ」
と言われた。
思わず、は?となった。
たとえは物事を解りやすく説明するには、もってこいの手段のはずだ。
先生は毅然と言い放った。
「たとえと実際とでは、事実関係がまったく一致することはあり得ない。だから論理的には無意味だ」
・・・?
いや、そうなんだけど・・・。
当時は腑に落ちなかったものだが、今だんだんと、ああそういうことか、そういうことねと思い始めている。
便利だから未だに使うんだけどね、たとえ。
例を挙げるなら、以下の通りだ。
「ヤマカンは〜と言ったじゃないか!」「言ってません」
これをここ数年で何度言ったことか・・・。
「言い換え」もたとえの一種だと思う。
まとめサイトはこのレトリックで印象操作をするのだ。
タイトルがどれだけ恣意的・故意的でも読者は無闇に信じてしまう、それは皆の中で「たとえ」「言い換え」の余地を認めてしまっているからだ。
今も僕のことに関していろんなたとえで評価して、「そのたとえならこうなんじゃないですか?」と反論され、論破論破となっている。
たとえ話の議論でどの方向行ってるの?っていうね。
たとえがひとり歩きしてしまっている。
たとえはやがて飛躍となり、そして妄想となる。
「ヤマカンはミソジニストだ!」
はぁ・・・。
いや、確かに女性のヒステリーを無条件で認めたりはしませんよ?
でもその前に、あなたの男性に対する猛烈な嫌悪感がむしろ凄まじいんですがね・・・。
なんか今、僕は関知しない別種の派閥抗争に巻き込まれているようで、お前ら何者?っていうのがまとわりついているのも、やはりたとえのパラドックスのようなものに、皆が溺れている証左なのだと思う。
皆さん、少なくとも(対立する)議論の場では、たとえはやめましょう。
今その非論理性に溺れている人が多すぎると思う。
議論が芯を食わないんですよ。
僕も気をつけよう。