やっぱり「たとえ話」は難しい、という話だ。
よく「どぶにはまった野良犬に石を投げる」という表現が使われる。
いじめがそうだし、ネットが得意とする袋叩きだ。
しかし僕はこの表現、疑問に思っていた。
野良犬に石投げて、楽しいか?
ていうか興味湧くか?
野良犬にはなるべく近寄らず、避けるように素通りするのが「普通」の人間の行動、「普通」の感覚だ。
わざわざ石投げるか?
それが今回、やっと解った。
彼らが石を投げているのは野良犬ではなかった。
「同類」だったのだ。
人の中はに誰しも感情があり、気分があり、機嫌があり、憎悪があり、狂気がある。
これは悟りでも開かない限り、普通の人間には払拭はまず無理だ。
じゃあどこにそのふつふつと溜まった憎悪の、狂気の捌け口を設けるか?
もちろん誰も彼もが、通り魔みたいに辺り構わず暴れる訳には行かない。
そこで格好の餌食になるのは、同じ狂気を孕む「同類」の中で、どぶにはまってしまった人間なのだ。
社会的に失敗してしまった人間なのだ。
こうして、いじめてた人間が、一瞬のミスで次の瞬間いじめられる側に回ってしまう。『聲の形』で描かれていたね。
なぜ石を投げるのか、それは自分の狂気の捌け口を、同類の狂気に求めているからだ。
あるいは「俺はあんな奴なんかじゃない!」という、後ろめたさの裏返しとなる強迫的な否定の強烈な表明だ。
「正義さえあれば自分の狂気を開放できる」。人はこうして、何千年と醜い争いをしてきた。
今も、不倫から殺人未遂まで、ありとあらゆる「悪」に向け、「正義」の石が投げられている。
だから、この「狂気の連鎖」は、未来永劫続くとしか言えない。
僕も他人事ではない。僕だってオタクという「病」を批判し、ネットという化け物と対峙してきた。
それもつまりは、自分の狂気の捌け口だったのかも知れない。
それを克服というか、少しでも抑制させるには、理性と知性しかない。と、こんなの古今東西の思想家が言及している、当たり前の話だが、これは本当に難しい。
理性はすぐ「正義」に変容し、それに絡め取られてしまうからだ。
何度も言う通り、正義には必ず「悪」が必要だ。
石は投げられ続けなければならない。
もう一度、念のため言っておくが、この議論は「どぶにはまった狂気」を肯定するものではない。
石を投げる前に、あなたはその石を投げる相手よりも、ちゃんと自分の狂気をコントロールできているんでしょうね?と言いたいだけだ。
これは途方に暮れるくらい、永遠の命題かも知れない。