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2017年3月13日

2017年3月13日 (月)

伊達娘が台本がボロボロとか書いとるけど、私はそういう記憶はない。

コレ

https://twitter.com/karen0513_/status/840947121645740034



そういえば、高校の問題集のセールスマンも、よくできる子は問題集がボロボロになるとか言うとった。

けど、私はボロボロにした記憶がない。

1,2回読んだら後は自分の記憶が頼りで、いちいち台本を見返すなんてない。
もちろん、疑問点があったらその都度見返すけど。

何度も台本を見返してもええけど、台本がボロボロになることは必ずしも勲章ではなくて、台本を自分のモノにすることのほうが大事ということを、もう少し実感として理解して欲しいかなあ。

新しい職種に就こうとしても、過去に殺人歴がある人は雇えても、私は無理らしい

私はそんくらい問題ということや。

いまの会社で、やったことを清算しとるけれど、それは意味がないとめちゃくちゃ言うてくるのがいる。

それで秋葉原駅で、やりたくないのにやむなく議論になって、セントラル整備保障が出てきた。

私は、こんなにしつこく聞いてくるのは、工作の可能性が高いと思う。

もちろんそうでなくても、権力に迎合せねば生きてけないと思うとる人間ばっかやとは思うんやけど。

左も右も相手にして言うんやけど、そんな現実にリアルに対峙して勝てな、革命なんてない。


こんなの、中核派は悩んだことがない課題や。

性の悦びおじさん殺害事件を他人事と思ってはならない

"性の悦びおじさん"とは、都内で奇怪な言動を発するとして、ここ数ヶ月、インターネットで有名になっていた人物である。

恐らく、たくさん残されている動画から、何らかの精神疾患を患っていたと思われる。

その"性の悦びおじさん"が、奇怪な行動の末、取り押さえられて殺害される事件が起きた。

http://hamusoku.com/archives/9506401.html


コレをもし警察・検察が、奇怪な行動で、乗客に危険があったとして、正当防衛と認めてしまっては、やまゆり園事件の、障害者は殺してもかまわない発想を、日本政府が認めてしまうことになり、問題である。


しかも、"性の悦びおじさん"は、言動から「恐らく精神疾患と考えられる」だけで、精神鑑定は行われていないと考えられる。

どちらにしろ、こんなことを日本政府が認めては、人殺しをして、後付けで「コイツが暴れたから、正当防衛だ」と主張すればよくなる。

罪もない人が、殺されかけそうになって反撃してつけた傷を、"正当防衛"の根拠にされてしまいかねない。


こんなことを認めてはならない。

とりわけ中核派は、「過激行為をしたから」という理由で公安の工作員から殺されて、それを正当防衛とされて、無罪放免にされてしまう可能性があるんだから、真剣に検討せねばならない。

まあ、あの組織は、前進社が問題と言わねば、取り上げん可能性が高いと思うけど。

おはよう。中核派の腐敗について、このブログの最新投稿(と言っても9ヶ月前やけど)にこんな内容がある → 友への手紙~権威主義と闘う党であるためには、どこに問題があったのか――水谷・岸「対談」を読んで

この内容はショッキングやけど、中核派が腐敗していると感じさせるものや。

私が真実を追求しても、いや真実を追求したがゆえに捨てられたのは、こういう体質に問題があったのか、と思わされた。



友への手紙~権威主義と闘う党であるためには、どこに問題があったのか――水谷・岸「対談」を読んで
2016-06-18 20:02:41 | 『革共同政治局の敗北』の感想、批判
http://blog.goo.ne.jp/shiren-shinsayoku/e/d3bdd1b7d1396ba37cc3bafefbae80d4



特にココなんか共感する。



それでも革共同は本多延嘉書記長時代には、権威主義を戒める空気と作風がありました。指導部自らが「指導部だから誤りを犯さないということはない」=「絶対無誤謬の党ではない」と口をすっぱくして語っていました。党を「物神崇拝」してはならない、何を命じられても「イエス、同志スターリン」と従うのは誤りであり、それはスターリン主義の最たるものだ、と警告していました。
あるいは、指導と被指導の関係は、責任の所在=責任の取り方が違うだけである。指導部の責任の方がより重い。従って被指導部の過ちは、まずもって指導部自らが「指導の敗北」として自己批判書を書くべきである、と。



共産主義だからみんなで一緒にする、みたいなことをクチでは言っていながら、「指導部は誤りを犯さない」という考えに凝り固まって、たとえばある地区党が反乱問題を起したらそれはその地区党ひとつの問題として片付けられてしまっていた。

やはり、党を個人のものとせん反乱問題は、中央が既に党を個人のものとしていることの照らし返しでしかないと私は考える。

”被指導部の過ちは、まずもって指導部自らが「指導の敗北」として自己批判書を書くべきである”とは、私だって日立製作所時代に権力が持つ問題と考え、資料として纏めたけど


プロジェクト管理(鉄道RAMS,自動車ISO26262)のエッセンス資料
https://docs.google.com/document/d/1Qc9UuJvIpkZrxv1dNfRgv9ZcOrS75pjfJp3n1ddiITA/edit?usp=sharing



それを中核派も克服できてないと考えていたけど、やはり克服できてなかった。


まあしかし、このブログ主も、指導部を批判するならば主張を発信し続けるべきで、主張を止めてしまったのはダメと思う。

とはいえ、この問題は、組織とは如何に腐敗するか、権力だろうが革命党だろうが全部そこに収束することを語っているので、重要と思う。

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