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今年でこのブログは、開設から4年が経つ計算になります。
4年。
長いようで短く、いやでもやっぱり長い期間やっていたんだなあ……と感傷に浸りたくなるくらいの長さですよね。
今回はそんなブログ運営をしてきて良かったこと悪かったこと、初心は如何なるもので現在はどうなのか、を振り返りながら語っていきます。
正直ややフライング気味ですがこのままだと更新停止あぼーんになりそうなので無理矢理俎上にあげて更新する意
自分で言うのもなんですが、開設当初からコメントへの返信率が低いです。 承認したコメントであるにも関わらず、返信をためらうものはないにも関わらず、何日もレスをつけないとかザラですし最後まで返事をしないことも多々。これは正直ごめんなさいという感じですね(汗) SCE_2の考察記事とかIF[体験版]とかのコメントもういろいろ放置しっぱなしという(白目) 無視してるわけじゃないんですが、疲れて帰ってきたり余裕がなかったりすると返信する意思が根こそぎ奪われてしまってそのまま放置というパターンが多い模様。ただ付き合いがある方の返信率は高めはありますが、名無しや交流がない方だとこの傾向は顕著だったり。 基本的に承認したコメントは目を通させてもらっているものの……返信がなかったら疲れているんだなと思ってくれれば幸いですね……。 ◆ と考えると、2013年頃から私は「交流型」のブログを目指しているわけじゃなかったんだなあとひしひし。 2013年:コメント返信率低め ブログをやってるなら誰でも望む「ブログを大きく」すること。 アクセス数が一桁なら二桁に、三桁なら四桁にと数字を増やすことを密かなモチベーションにするわけですが、しかし一日の訪問者数(UU)が1000,2000を超えてくると次に目指すのは5000,10000となってくるわけで段々とその達成は難しくなってきます。 1000に乗せるのはそんな難しいことではないけれど、流石に10000を目指すのであれば地道に運営しなくちゃいけなくなる。キーワード選定してーとかパンくずリストつけてーとか市場に求められる記事かいてーとか。 そういう「見えない指向性」に絡め取られるのが私は嫌で、UUが2000を超えるくらいでアクセス数見るのをやめた記憶があります。外発的動機(=アクセス数)に踊ろされるよりは内発的動機で運営していきたかったので尚更に。 ――というのが2013年前後のスタンスでした。 2017年では「外発的動機をゼロに近づける」のではなく、どちからといえば「外発的動機と内発的動機のバランスを見ていく」ほうがいいのかなとは思ってます。 というのも内発的動機ってイジったり鍛えたりすることは出来なくて予め(ほぼ)決まっている意思の指向性にすぎない――と考えていて――ならば外発的動機をなくそうとするよりはそれらを起爆剤や誘導剤にしたほうがムリなく運営できるのではないか?と考え始めたからですね。 なので最近ではアクセス数に限らず色々な外発的動機を混ぜながら運営していきたいなと思っています。 2013年:アクセス数(=外発的動機)をゼロに近づけようとする 私がブログに手を出した理由に「忘れない為に」「作品感想」いうものがありました。 「忘れない為に」は、自分の感情・記憶・思考を失わないために文字として残す。いつかの私が思い出せなくなっても、過去の手記をたよりに当時の情報を再生し、追認するための道具がこれなわけです。 故にブログを「記憶の容器」として捉えており、一つの記事を「一つの思考の粒」と見做しているフシがあります。溜めれば溜めるほど容器は満たされ、思考は掘り下げられ分岐していく。 そこに実益はなくとも、「思考の蒐集性」「やりこみ要素」に近いものが存在し、それが運営モチベーションになっていたりもします。これが存外楽しかったり。 ("陰"の記事を書いたら"陽"の記事を書いて相殺したり、"陽"を了解しながらも"陰"を純化させていく楽しさみたいなね) どちらかというと「ボトルメッセージ」に近い。空き瓶に一筆したためた手紙をくるくる巻いてコルクで栓をし蝋を垂らし固め、海へと放る。電脳海に漂う誰かの目に止まり読んでくれるかもしれない。あるいは誰にも読んでもらえないかもしれない。きっとそれでいい。そんなベアト的思考。 なのでよっぽどの事がない限り記事は消しませんし*1、年末年始の挨拶といった記憶の容器に入れたくない「無関係」なものは出来るかぎり記事にはしないようにしています。 また「伝える気」がよそのブログと比べると2段くらい低い。ないわけじゃないけど低いです。 これは「理由を書かない」「説明しない」という意味内容を伝える気がないんじゃなくて、文調がキツいという意味で伝える気がないということ。 もしも誰かにその内容を伝える(=説得的行為)を目指すならば文調はやわらかく、丁寧な物腰のほうが成功率は高まるでしょう。逆にだ・ある調でぶっきらぼうに語ったり、文調が攻撃的だと――例えそれが論理的に納得できても――感情で否定されかねない。 つまり説得という意味で伝える気が低く、私はあまりそこは重視していない。 逆にどれだけ自分の思考を具体化するか、如何様にトップダウン的思考をボトムアップで表現するかのほうが興味がそそられますし、というよりここに面白さを見出していないとこういうブログにはならない気もします。 とはいえ「ブログ」というのはパブリックな場だし全世界に公開するものなのも事実。しかし "ダイアローグはモノローグであるように" 誰かに話しかける形式を取りながらもその実誰にも話しかけていないということであり、"モノローグはダイアローグであるように" 独言だという体裁を取りつつも対話を望んでいるもまた確かなんですけどね。 それでも私の気持ち的にはモノローグ(=ダイアローグ)なだけで。 で、この「忘れない為に」の延長線上に「作品を圧縮」することがあり、自分が "観た" ものを文字で捉え表現する。それが再生批評だったりあらすじ型感想だったりするわけです。 ここから派生したのが2つ目の「作品感想」であり、すなわちどういった感想が肯定され、否定されるのか。ないし最も優れた感想は如何なるもので、そして私が好きな感想はどういったものかを探ることを目的にしていました。 2012年ごろの私は「感想」というものに興味がなく、正直どうでもよかった。精神分析批評だろうがマルクス主義批評だろうが印象批評だろうが、そこに優劣をつけようとは思わなかった。 けれど段々とある種の感想に嫌悪感が浮き彫りになり、そして現在に至るまでいろいろ――微力ながら――先述したようなことを考えることに。 2013年-2015年は「作品そのものを語る」とは具体的にどういうものなのか、またそれはどうやって行うのかが知りたかったんですけど、これを説明できるまでは結構時間かかったなと思います。 結論から言えば『作品内に存在する文脈』と『作品外に存在する文脈』の2つがあって、可能な限り前者を重視すれば「作品そのものを語る」ことは出来る。 この『内在的文脈』と『外在的文脈』の概念が当時の私には無かったので、当時は内在的・外在的という言い方ではなくて単純に「文脈」と捉えていたんですよね。でもそれじゃあ劇中内に存在するシーン・エピソードと、作者のインタビューが同じ俎上に乗ってしまうのでこの考え方じゃうまく行かないなともんもんしてた思い出です。 ちなみに内在的読解の性質として作品を「評価」するのではなく、「価値を切り開く」もの。 ある作品を心の底から駄作だと感じても、この方法を用いると「これは駄作だ」と明言する必要性ば奪われてしまいますし、鑑賞者が "感じ" た気持ちはそっと隅に追いやられてしまう。 かわりに鑑賞者が観た当該作品の価値をあらわにすることに。 ――けれど、これを逆に使用すれば「批判」になることに気づいたのが2016年。内在的読解は作品の内在的文脈に着目するんですけど、その内在的文脈が"通底"していたか? 最後まで"貫いて"いたか? 貫いていながらもダメだったら何故ダメだと感じたのか? もしくは徹底できていなかったら何が阻害原因となっているか? そういう指摘の方法。 つまり、「作品内」に着目し「作品内」の要素を提示し中心軸を見極めた上で「批判」が行えることが私にしてみたらすごい新鮮で驚きだった。 「俺が観たかった物語はこれじゃない」という規範批評に陥ることがなく、作品の内在的文脈に沿いながらどこがどうダメだったのかを示すことができる所に興奮したわけですね。こういう使い方もできるのねと。 実際やってみるとわりと体裁の整った批判文物になりますし、「全体の評価」を焦点にすればいわゆる総評型のレビューにもなると。これ、案外書いてて楽しいし楽なので2016年はこのスタイルが多かったです。 『あえて無視する君との未来』批判レビュー。最も重要な部分をスルーしてしまった本作 - 立ち絵がぐりぐり動く『Corona Blossom vol1』レビュー - 猫箱ただひとつ ついでにその合間合間に "どこからどこまでが許せないのか" も探ってみることにしました。 前々から外発的文脈や舞台裏を主にした批評文物、亡霊批評、人間批評、作家論を嫌っていたわけですが、私自身それらを実際に自分で行ったことがなかったので出来る範囲でやってみようかなと。 そうすれば先入観で嫌っているのか、それともやっぱり許せない要素があって嫌っているのかを皮膚感覚で確かめられると思ったからですね。 2016年はSS風味なレビューにしてみたり、他作品を持ってきたり、読者反応を勘定に入れたり……と少しづつ加えていってそれらがどこまで受け入れられるのか、そしてどこから嫌悪するのかのんびりやっていきました。 やっていくうちに分かったのが「主従関係が壊れていなければある程度許容可能」ということ。 ある作品を物語類型に当てはめたものとか、作品を横断した語りって以前の私は好きじゃなかったんですけど "主体にされうる作品が主体になっている" 限りは全然問題ないなと。 作品横断は「主体」が作品ではなく「主張」だったのならば全然問題ないというか、好きになりはじめている兆候さえありますね。これは興味深い発見。 もちろん私的に。 つよきす 三学期レビュー 無印版を全てなかったことにして新たに作り直された本作は「つよきすとは何か?」を考えさせてくれる 逆に "主体にされうる作品が従になっている" 場合は、自分でやっていても拒否感あったので、ここらへんが境界線なのでしょう。 ◆ あとやっぱり「作家論」は一蹴すべきだなあ、という考えは揺らぎませんでした。 もちろん「立場」によって感想スタイルの優劣と好悪は変わるものですが、制作者と作品を積極的に結びつけるこれは2017年現在も唾棄すべきものとして見ています。 例えば「◯◯(=作品名)いいよね」と言ったら、 何故か 「◯◯を書いたライターさんは噴水のシーンにこういう意図を込めていて~」とか「このメーカーの開発資金は前作より少ないのによくこれだけの……」とか「2☓歳でこんなダイナミックな歴史戦記を書けるのはすごい」とコメントし始める人々。 こういう人々はその作品を観ていないし、その作品を観ているようでその実その背景にあるものを見つめている、もしくは作品を語る際に作者や舞台裏を持ってこなければ――つまり外在的文脈を根拠にしなければ――もっともらしいことを語ることが出来ないとでも言えばいいんでしょうか。 なんにせよ "劇中内外の区分けが出来ていない" のと "作品の評価と舞台裏の評価を同一視" しているところが最悪です。 なにが最悪ってこういう「作品/作者」の区分けが出来ていない人に限って、"作品"の話をしていても "作者" の話だと勝手に勘違いしてその前提で話し始めたりする事が多くて、なんだかなあ、みたいな。 最近あったのは「作品を内在的に読む」のを「作者を内在的に読む」と同一視(=勘違い)した結果「作品を内在的に読む=人間を内在的に読む」と理解し、内在的読解をしている人をつかまえて「あなたは会話でも私の文章を内在的に読まなければいけない」というコメントを見た時とか。 言うまでもなく作家論は「作品」に貢献するものじゃなくて、「作家」に貢献するもの。だから作品を主体にしている私なんかからすればそういう言説を見るたびにくそくらえっていう感情がめきめきと音を立てはじめる。 このあたりの作家論嫌悪はもう随分と前から書いているので省略。割愛。 ただ、良い作品を世に出した人は評価されて欲しいと思っているし、実力ある人はちゃんと評価されて、儲けなければいけないみたいな考えはある。 すると作家の評価を上げるためには彼彼女らが制作にあたった作品を結び付けなければいけなくなるので、そこが……まあ難しいところだよなあとは思ってます。「こんな良い作品を作ったこの人はすごい!」で終わればいいのだけど、大抵はそこからさらに進んでいく。 村上春樹の『1Q84』を読んで『世界の終わり(略)』に言及しながら、前者の価値を導き出したり、村上春樹のアルゴリズムを解読しながら「村上春樹が描きたかったものは」とか「村上春樹が目指したものは」とか「村上春樹が否定したものは」とか言い出すようになる。 でもそれって「作家」を出す必要性はない。だって単にやってることは「作品同士を比較」しているだけなんだから、その比較から導き出した主張に妥当性があればあるほど「作品同士のファクト」を突き合わせて語っているはず。 もしもそうでなくて、作者のインタビューや、作者の生い立ちやらを持ちだして、それらを作品に突き合わせるならば「こじつけ」でしかないわけで、作品内に登場したオブジェクトと何ら関係ないわけで、やはり作品がどうのというよりは作家がどうのという話になってしまう。 作家論やっている人は、ここらへんどう納得して(あるいは無視して)いるのか興味あったり。 ◆ さて長くなったので強引にまとめると 2013年と同様の動機・立場をもって2017年もブログ運営している所はあるけれど、すこしづつそれらが変質してきている。良いふうに悪いふうに、あるいはどちらでもなく。また嫌いだったものが好意的に受け取れるようになったり、かと思えばやっぱり嫌いなものは嫌いなままだったりしているのが現状です。 がないのが困ったところ。 先述した2つの動機はあるものの、それは「目標」とよべるものではなく、ただただ流れのまにまに繰り返される反復運動でしかない。 それはそれで別にいいんだけど、ここいらで何かしらの大きな目標を打ち立てておくと運営にメリハリが出るんじゃないかなーと思っているわけです。 というより、そうしないと更新頻度が下がる一方な予感がしており。 ・思考の可視化・吐き出し・組み立てを行うことで、それまでより文章を書くのが楽になる。また感情の言語化も以前よりは容易くなる。 ・『書く』(=打つ)行為が性に合っているようで、思考をタイプしまとめることは精神的癒やしになっていることがある。 ・一度書いた記事は大体覚えているものだが、それでも忘れてしまった時に思い出せる場所があるというのは存外いいものである。特に「セリフ」はニュアンスは覚えているものの、一字一句覚えているわけじゃないので探すときにブログは重宝する。 ・ 記事を読んで頂けた読者さんから嬉しいお手紙をもらったり、プレゼントを頂いたときはブログやってて良かったなと嬉しくなります。あと過去に書いた作品考察は今でもちょくちょくコメントを頂けるので、密かなやる気にさせてもらっていたり。 ・思考を貯めるのは面白くて、すこしづつ下記記事にて全体像をつくりあげているんですけどそういうまとめ行為もまた楽しいなと感じるこの頃。 (関連) 誰とは言わないけど某feが (素性を隠して)別アカウントで別人のふりをして会話を望んできたり、ブロックされているのに何故か別名で度々コメントをする某氏だったり、バレていないと思っている所がすごいなと思いつつ正直迷惑にかんじる今日この頃。 気づいていないふりで様子を伺うものの、いい加減遠回しに「嫌われている相手に素性を隠して近づいてくる人ってどう思いますか?」と聞いてみればスルーされ、数日後にそれまでの会話が無かったかのように雑談リプライが飛ばされる。 「嫌っている人間から好意的なコミュニケーションを求められる」ことがいかに不愉快かを理解して欲しいところではある。 ブログやってて悪かったことって一般的には批判(=根拠ある否定)がくるとか、無関係な人から罵詈雑言がくるとか、承認欲求に狂うとか、時間を吸われるとか、そういうのかもしれないけど、私からすればこういう嫌悪している相手から粘着されることが、まあうんざりしますよね。(そろそろ吊し上げたい) それ以外だと悪かったことは、やっぱり時間が吸われる所は結構大きいかもしれない。悪いっていう程ではないけれど、貴重になればなるほど枷になっていくので。 この何年かで継読させて頂いたいくつかのブログが更新停止することを目にするのが多くなってきていて、寂しさあります。 ブログって「続ける理由」ってそうそうないですし、あっても強固じゃなかったりするので、ふとした拍子に数ヶ月停止になっちゃうのってよく分かるんですよね。むしろ「停止する理由」のほうが簡単に見つかるので。 そして私も他人事ではないなと思いつつ。 てことで、おおまかな4年間の振り返りでした。何かしら面白く読んで頂けたならば幸いです。 去年は結局ブログ振り返りませんでしたが、一年に一度は過去がどうで現状はどうなのか再確認したほうがいいのかもしれませんね。じゃないと、自分がどうしたいのかとか見えてこないと思うので。 と言いつつ、今回振り返ってみても私はこのブログどうこうしたいというのはあまりないんですよね。うーん不味い気が。でもそれでいいのかなとも思っているので複雑なところ。 それでは、また。 (最新作読みたさ) *1:今まで832記事書いているんですけど、自発的に消したのって中身がすかすかな表敬挨拶記事みたいな2つ3つくらいだったはず。1)コメントの返信率
2017年: 〃2)アクセス数
2017年:外発的動機と内発的動機のバランスが大事3)ブログを始めた動機は変化したか?
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▼4)大きな目標
5)鑑賞の変化
(大体こんな感じ)6)ブログやって良かったこと
7)悪かったこと
ブログ休止するところ
おわり
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