記者は今回の問題が政治的に解決されることを願っていた。朴槿恵(パク・クンヘ)前大統領がいる大統領府を3年2カ月にわたり担当してきた記者として、彼女が罷免されるのは見たくなかった。しかし弾劾訴追案の国会での可決から憲法裁判所の宣告が下されるまではまさに一直線だった。38年前に父の葬儀を終えた直後、ソウル市中区新堂洞の自宅に戻った当時の朴前大統領は幼い弟と妹を連れていたが、今回、江南区三成洞の自宅に帰る時には誰が付き添ってくれるだろうか。
その後、朴前大統領は故・朴正煕(パク・チョンヒ)元大統領の長女という政治的遺産に「原則と信頼」というイメージをプラスし、保守を代表する政治家に成長した。初の女性大統領として当選した時は、1987年に大統領直接選挙が行われるようになってからはじめて得票率が50%を上回った。もちろん政治家「朴槿恵」が1日やそこらで生まれたわけではない。1998年に政界に進出してからも数々の試練に直面し、つらい思いも経験しただろうが、後に自らの努力で大統領にまで上り詰めた。しかし今やその実績はほぼ崩壊してしまった。
朴槿恵政権は「経済の復興」「国民の光復」「文化隆盛」「平和統一基盤の造成」という4つのスローガンを掲げて発足した。しかし1年目から人事の失敗、国家情報院が大統領選挙に介入したことによる正当性の疑問視といった問題に苦しめられた。2年目は経済革新3カ年計画に加え労働、金融、公共事業、教育の各分野における4大改革に取り組んだが、旅客船「セウォル号」沈没事件と秘線(陰の実力者の意)に関する文書流出問題でつまづいた。野党は何らかの見返りがなければ法案の採決にも応じなくなった。そのため朴前大統領は政策をスムーズに実行できなくなり、これを繰り返し野党にせいにするようになった。