第2編:哲学の父「西周(にし・あまね)」をもっと学び、他の人にも広めたい【『地方』×『研究者』】
わずか一年足らずで、津和野での哲学勉強会や東京での「西周(にし・あまね)を語る会」などのイベント、さらには西周の新全集の出版準備など、精力的に活動している津和野町地域おこし協力隊の石井雅巳(いしい・まさみ)さん。
津和野に来るまでは研究一本で食べていくつもりであった石井さんだが、研究対象から離れたことにより、自身の研究に対する姿勢にある変化が訪れる。また、西周を研究し始めてから、普段何気なく使っている日本語への意識も変わっていった…
彼が津和野で活動してきたこと、そして地方で過ごした日々の中で生まれた自身の変化が綴られた、若き”哲学”研究者の全3編に渡る寄稿文・第2編。
第1編:博士課程に進めなかった”哲学”研究者。「森鴎外」「西周」の故郷・津和野へ行く
第2編:哲学の父「西周(にし・あまね)」をもっと学び、他の人にも広めたい
津和野では、大きく分けて三つの活動をしています。
一つ目は、主たる業務である町営塾での指導です。私は高校3年生の担当なので、基本的に文系受験生のための教材作成や解説授業、個別の添削などをしています。二つ目は、サブ業務として去年の6月から本格的にスタートした西周事業です。研究者・郷土史家・出版社を津和野発信でつなぐというのが事業の核で、出版事業や学会の招致、イベントの企画開催などに取り組んでいます。三つ目は「業務」ではありませんが、専門である20世紀フランス哲学の研究です。とりわけ私は、E. レヴィナスという哲学者について研究しており、学会での口頭発表や論文投稿なども行いました。どれも重要な活動なのですが、ここでは今回の趣旨にかかわる後二者についてもう少し詳しく話せればと思います。
西の仕事は、知名度に比べて十分に知られていない
私は学部と大学院合わせて6年間哲学専攻に所属していましたが、恥ずかしながら西周を読んできませんでした。もちろん西周のことは知っていましたが、それは哲学というよりは日本史の知識としてだったと思います。私の勉強不足という点を棚に上げれば、それには現在の哲学科のカリキュラムの影響があるように思えます。
というのも、現在の哲学専攻(科)やそれに類するもののほとんどは西洋哲学中心で、日本思想や日本哲学――それも西田幾多郎以前の――を学べる場所は少ないからです。哲学科では、英語、ドイツ語、フランス語、ラテン語、古代ギリシア語の学習は盛んですが、古文・漢文については関心を持って自主的に勉強しない限り、専攻の必修として学ぶカリキュラムはないに等しいでしょう。西の文章には漢文もありますし、そうでなくてもいわゆる文語体で書かれているので、ある程度古文・漢文の読解能力が求められます。さらに、哲学の話と言えども、当時の「常識」として儒学がよく引き合いに出されるので、腰を据えて読もうと思ったら朱子学や徂徠学(そらいがく)の知識も身につけなければならないわけです。こうした、現代日本の哲学科で教えられるカリキュラム内容と西周を読むにあたって求められる能力とのギャップに、哲学科で彼があまり読まれていない原因の一端があるように思えます。
西周肖像
私が西周について勉強を開始したのは去年からですが、実際に彼のテクストを辞書や参考書片手に読んでみると非常に面白いことに気づきました。
まず、人物としても興味深いです。ある時は幕府の重役で日本初の憲法案の提出者であり、ある時は明治政府の官僚にして悪名高い「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」の起草者、ある時は日本哲学の父にして啓蒙思想家、あるいは教育者、あるいは政治家というまさに百面相的な人物でした。さらに、彼の業績に目を移すと、「哲学」をはじめとして、様々な翻訳語を作り出したことが有名ですが、ひとくちに訳語を作ったと言っても、当時は辞書さえ十分に存在しなかったわけで、西が原語の語源や漢学などについて相当に深く理解した上での作業であることがわかりました。彼の文章を読むことで、曲がりなりにも日本語で思考する者の一人として、「日本語で哲学すること」の是非や可能性について再考を迫られた気がしました。
そんな西の仕事は、彼の知名度に比べ、十分に知られていないように思い、ぜひもっと学び、他の人にも広めたいと考えたのが業務を開始するに至ったきっかけです。自分の専門知識や人脈を活かしながら、地方の新たな活性化につながればという思いがありました。しかし、現在『西周全集』(全四巻、宗高書房、1960-1981年)は絶版で古書価格も高騰していますし、他の著作もみな旧漢字旧仮名遣いでリーダブルとは言えません。そこで、西周研究会を組織し、長年研究を牽引している島根県立大学の先生方を中心に協力を依頼して、西周の新全集や現代語訳の刊行プロジェクトに着手したり、Tsuwano T-space(津和野町東京事務所)にて『「百学連環」を読む』の著者である山本貴光さんにご登壇いただいて講演イベント「知は巡る、知を巡る―西周とまわる学術の旅」を行ったりしました。

左から、山本貴光さん、山岡浩二さん(津和野町郷土史家)、石井さん。
自分の解釈を提示し、議論する研究の場を求めていた
前回の記事で述べたように、一度は研究が嫌になって離れたいと思っていました。しかし、ひと月ふた月と経っていくうちに、やはりただ本を読むだけでなく、自分の解釈を提示し、議論する研究の場こそ自分の求めている環境なのだと気づきました。加えて、去年の春に発表した学会で尊敬していた先生に評価していただいたことも、やはり研究を続けようと決心するきっかけになりました。
専門的な哲学研究は地域おこし協力隊の仕事ではないので、隙間の時間をなんとか作って進めています。昨年度で言うと、口頭発表を二つ、論文投稿を一本、学術書の翻訳(共訳)をしました。修士課程時の貯金があったからではありますが、成果の数で言えば、合格ラインかなと思っています。
個人での研究活動の他にも、大学院時代の研究者仲間に協力してもらって、skypeを利用した勉強会を3つほど開催し、なんとか置いていかれないように努めています。ただ、地方での在野研究となると、時間の捻出以外にも、研究文献の収集や学会への旅費がネックで、これには苦しんでます。とはいえ、とりあえず一年在野で研究することで、若手研究者のキャリア問題にかんしてより具体的な課題や対策なども見えてきたので、無駄にせずにしっかりとまとめて、いずれは学会などで報告したいと思っています。
自身の変化
まず、大学を離れて地方に来たこと、そして西周という新たな研究対象を見つけたことで、これまでべったりだった研究対象から良い意味で距離を取れたことかなと思います。これまではレヴィナス研究一本で食べていくつもりだったので、その界隈の研究を網羅的にチェックし、まだ明らかにされていない問題への解決策や先行研究への批判を提示することに、あるいはそれのみに力を注いでいました。自分の研究が他の分野や我々の実際の生にいかなる影響があるかについて全くの盲目だったつもりはありませんが、レヴィナスをとにかく擁護し、これまでの研究を少しでも超えること――無論これは重要ではあるのですが――に囚われすぎていたように思います。これからもレヴィナスのテクストに寄り添った注釈をやめるつもりはありませんが、もう少し広い視野で研究対象に向き合えるようになった気がします。
もう一つは、西周を読み始めてから日本語に対する意識が変わったことです。これにはもちろん、日本という極東の島国でフランス語やドイツ語で書かれた本を読み、日本語で考え、発表することの如何という問題もありますが、むしろ普段日常においても研究においても使っている日本語の多様性や複雑さに気づいたということです。
我々が使っている日本語は、他のどの言語と比べても異質で固有なものであるというイメージが流布しているように思われます。しかし、日本語には外来語からの借用語や翻訳語が数多く含まれています。そのなかには、中国から伝来した仏教や儒学由来の言葉もあれば、江戸や明治になって西洋語が入ってきたときに作られたものもあります。たとえば、西はphilosophyという語を「(希)哲学」と訳したわけですが、同時代人には「理学」という儒学の言葉で訳す人もいました。なぜ西がそう訳さなかったかと言えば、人間存在の本性を扱う理論的なものという意味で、儒学と似通う部分はあっても、両者は全く異なるものだという内容への深い理解や歴史への配慮、さらには、もともとのギリシア語であるφιλοσοφία(知を愛し求める)の意を汲むだけの語学力があったためです。
西を読むことで、普段何気なく使っている日本語の言葉には、さまざまな変遷や多様な来歴があり、言葉同士のあいだに複雑なせめぎあいがはたらいていることを実感できるようになったように思います。
(文/石井雅巳)
最終編:「地域を巻き込みながら知のオルタナティブを考え、実践する」
石井雅巳(いしい・まさみ):1990年、神奈川県横浜市生まれ。2016年3月に慶應義塾大学大学院文学研究科哲学・倫理学専攻修士課程修了。専攻は現代仏独哲学(現象学)及び近代日本哲学(西周)。2016年4月より津和野町役場町長付。町営英語塾HAN-KOH運営スタッフ及び西周事業担当。その他に、NPO法人bootopia学術領域担当、島根県立大学北東アジア地域研究センター市民研究員も兼務。