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2017/03/11new

「あれから5年、リスクコミュニケーションが私たちから奪うもの」

Tweet ThisSend to Facebook | by kyo
昨年3月の『現代思想』に掲載された記事です。長さの関係から2つに分けます。『現代思想』への寄稿時に、ネット上で公開する可能性があることは、編集者に伝え、了解を得ています。

1年経って、事故の状況は基本的に変わっていないものの、安倍晋三氏が「節目越えた」と述べ会見をやめ、住宅支援打ち切りと帰還が進められるなど、現実をごまかしながらの「平常化」は一層進んでいますが、基本的な状況は変わっていないので(とはいえ避難者や悪性疑いの方の数のようにある程度具体的なことがらには変化があります)、このまま公開します。


1. 2016年 東電福島第一原発事故

 2011年3月の東京電力福島第一原発事故から、2016年3月で5年が経とうとしている。

 メディアなどでしばしば見られるこのような表現は、東京電力福島第一原発事故は今まさにこの瞬間も進行中なのだから、通常の日本語の解釈では誤りである[1]。2011年3月に放出された放射性物質の量は大気への放出だけで推定90万テラベクレルにおよび[2]、現在も平時とは比較にならない量の放射性物質が放出され続け[3]、事故初期に大量にばら撒かれた放射性物質の除染は十分には進まないまま[4]、広い範囲に拡散した放射性物質は放射線を出し続けている。

 避難者は依然として10万人近くおり[5]、福島県に限定された「県民健康調査」が2015年11月30日に出した甲状腺検査の結果は先行検査ベースで推定される悪性率の2.8倍となっていながら[6]、対応は進んでいない。また、福島県以外では汚染の激しい地域についてさえ体系的な健康調査はなされないまま現在に至っている。被曝量の評価そして健康対策の観点から極めて重要な初期被曝については曖昧にされたままである[7]。

 国会事故調が「この事故が『人災』であることは明らかで、歴代及び当時の政府、規制当局、そして事業者である東京電力による、人々の命と社会を守るという責任感の欠如があった」と指摘し、「今回の事故は、これまで何回も対策を打つ機会があったにもかかわらず、歴代の規制当局及び東電経営陣が、それぞれ意図的な先送り、不作為、あるいは自己の組織に都合の良い判断を行うことによって、安全対策が取られ ないまま 3.11を迎えたことで発生したものであった」と述べているにもかかわらず[8]、事故そのものの責任はほとんど問われないまま[9]、全電源喪失の危険を指摘されながら対策を取る必要はないとして東京電力福島第一原発事故を引き起こすことにつながる安全対策の欠如を支えた人物が[10]再び首相の座に戻って以前と変わらぬ無策を放置したまま原発の再稼働を推進している。

 そしてそうした責任を問わないまま、また事故の解明もしないまま、事故が引き起こした膨大な損失を無視して「原発停止は国の損失」といった発言が政財界からなされ[11]、原発を称揚したり放射線の健康影響を矮小化する一部「専門家」の発言やメディアの報道も続いている[12]。

 したがって、2016年3月を「事故から5年」として「事故」を振り返り、振り返る振舞い自体によって「事故」を過去のものとする「年に一度のイベント」[13]に同調するわけにはいかないが、いずれにせよ多くの人が「事故から5年」を語ることが想定されるのであれば、それを契機に、現在進行中の事態を5年前の出発点に立ち戻りつつ捉え直すことで明確になるものもあろう。ここでは、この5年間、とりわけ2014年から政府が大規模に展開し現在も続けている「リスクコミュニケーション」を改めて追い直し[14]、現在私たちが置かれている状況を確認することとしたい。


2. 「専門家」と東電福島第一原発事故・汚染・被曝

 原発事故後、原子力や放射性物質に関係する「専門家」の反応は大きく三つに分かれた。すなわち、発言しないで距離を置く、自分が有している(と考えた)「科学的」知識を持ち出して事故およびその影響を解釈しようとする、科学的知識と専門的技術を活用して事故の状態と事故が引き起こした状況を把握しようとする、である。メディア等を通して最も目立ったのは二番目の反応であった[15]。

 二番目の反応に属する「専門家」の発言は、発言者の誠実さいかんに拘らず、かなりの程度、事故と事故が引き起こした状況を見誤った。典型的なものをいくつか挙げておこう。

・東電福島第一原発・原子炉の状況について

【1】「爆破弁というものがあるんですが、そのようなものを作動させて一気に圧力を抜いた、そのようなことともありうるのかと」(2011年3月12日、東京大学教授関村直人氏のNHKでの発言)

【2】「メルトダウンじゃないだす」(2011年3月12日、大阪大学教授菊池誠氏のtwitter上の発言)[16]

・環境・食品等の汚染状況について

【3】「測定点近傍にある天然石や地質などの影響で、平時でも放射線量率が若干高めになっている所があります」(2011年5月21日時点での「東京大学環境放射線情報 環境放射線情報に関するQ&A」。東京大学柏キャンパスの線量が高いことへの回答の第一行)[17]

【4】「海の魚っていうのはもともと海草なんかを食べて、いわゆるヨウ素がたっぷりあるんです。体の中に。ですから、新たにですね、放射性ヨウ素が出てきても、それをですね、体の中に取り込みにくいですね。基本的にはですね、安心して食べていただいて問題ありません。」(2011年3月28日、東京大学病院准教授中川恵一氏の日本テレビNEWS24での発言)

 爆発は水素爆発であり、メルトダウンは起きており、柏キャンパスの線量が高いのは圧倒的に福島第一原発事故に起因する放射性物質の影響であり、コウナゴから基準値を超える放射性ヨウ素が検出されたことから、これらの発言が誤っていたことは既に事実に照らして明らかになっている。ところで、原発事故後現在まで「専門家」と称する人たちがかなり頻繁に誤った発言をしてきたとしても、また、「爆破弁」という存在しないものを専門家が誤って持ち出すことは考えにくいにせよ、専門家や研究者が誤ること自体はさほど希なことでもない。

 重要なのは、むしろ誤り方である。これらの誤りは、既往の一般化された「科学的」知識(であるとその「専門家」が考えたもの)をほとんどアプリオリな正解として持ち出し、それに従えば事故は「このようにあるべき」であるというかたちで状況を解釈しようとしたことから来ている[18]。この形式の思考は、仮に持ち出された知見が科学的に妥当なものだったとしても[19]、事故を前にほぼ必然的に誤る。というのも、事故が事故として認識され問題化されるのは、まさにそれが定常的な状況から逸脱した出来事であるからであり、そこで科学や専門性に要請されるのは「まさにその事故」の状況を明らかにすることだからである[20]。さらに、この形式の誤り方は、事故の現実を前に補正されるかわりに、事故を「まさにその事故」として問題とする人々、すなわち事故に対して妥当な認識力を有する人々への批判に向かった。

 自ら「科学者」を称する人による次の発言(【5】としよう)はこれを典型的に示している。

 放射能については、怖がるだけじゃなく、もっと「知る」ことが重要です。もちろん放射能は怖いものではありますが、そもそも我々は自然放射線をかなり浴びながら暮らしているわけで、皆さんが日々暮らしている地面からも放射線は出ています。さまざまな食品にも放射性物質はごくわずかですが含まれています。太陽光からはもっと強力な宇宙線がやってきています。人類は太古の昔から、さまざまな放射線とともに生きてきたのです。
 今の一部の人たちは放射能を極度に怖がりながらも、レントゲンや飛行機など通常の生活より多量の放射線を浴びる行為は平気でしています。放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります。
 なぜ、そうなってしまうのか? それは「科学的に考える」「科学的に行動する」「科学とつきあう」ということがちゃんと教育されてこなかった、ということが背後にあるのではないでしょうか?
 原子力や放射能についての過度な恐怖はその典型です。科学や技術に対する信頼のみならず、論理的に考えるという姿勢が欠けている。
 ・・・・・・
 科学者の1人として、私もその一助となる活動をしていきたいと思っています。[21]

 【5】の筋は、次のように(多少の補間もしつつ)要約できる。

(1) 放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない。
(2) 人は(原発事故がもたらした)放射線を恐がりながら自然放射線は気にせずまたレントゲンも平気で受ける。
(3) (1)に鑑みると(2)の行動は一貫していない。
(4) このような一貫しない行動は、人が恐怖のあまり「考える」ことを放棄することからくる。
(5) 「考える」ことを放棄するのは「科学的に考える」「科学的に行動する」「科学とつきあう」ことが教育されてこなかったからである。
(6) 従って科学的な教育を人に施す必要がある。
(7) 科学者の一人として、自分も(6)に貢献したい。

 まず誤り方を確認しよう。

(a) 原発事故後の問題を把握できていない。

 【5】の議論は、人々が問題にしているのは「放射線そのもの」であると決めつけない限り成立しない[22]。しかしながら、人々が問題にしているのは「まさにその事故」であり、絶対安全だと言われていた原発が爆発し大量に放出された放射性物質がどこにどのくらいあるのかも十分には明らかにされず管理もされないまま存在し被曝を強いていることであり、さらにそれに対して責任を負う東電や行政が十分な対応をせずに(あるいはできずに)いる状況である。その状況に対して「XXXそのもの」に「科学的」に差異がない、という議論が有効であると考えるのは、道路脇のビルの五階の窓から撒かれた水で濡れて怒っている通行人に水の専門家が「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません」と言うことが有効だと考えるのと同じで、単に問題を把握できていないだけである。

(b) 被曝の影響に関する科学的知見を前提とした論理的な議論ができていない。

 現在、放射線被曝の影響に関して最も有力な科学的知見は、放射線による健康への影響(発がん)に閾値はなく、線量に比例して発症の確率は増え、かつ発症した場合に重篤度の違いはない、というものである[23]。この知見は、社会的な基準を定めるための前提ともなっている。原発事故後、しばしば100 mSv以下では影響がないかのような発言を専門家が行い、そうした報道もなされたが、それらは科学的に不適切なのである[24]。

 標準的な科学的知見を前提とし、健康を害するリスクは可能な範囲で最小限に抑えるという当然の基準に従うならば、(i) いずれにせよ避けられない自然放射線による被曝及び(ii) 生活上必要と自ら判断して行う行動で受ける追加的な被曝を人々がしているから、それ以上の被曝は避けた方がよい、とりわけ他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝は受け入れない、というのが妥当な判断であり、(i)と(ii)が避けられないなら他人の不作為で起きた原発事故に由来する放射線による不当に強いられた被曝も受け入れるべきだとするのは非論理的である。ビールを十分飲んだから支払いをして帰ろうとしていたAさんの前に現れたBさんがAさんにさらに無理矢理ビールを飲ませようとしてAさんが拒否している状況に対しAさんは既に十分ビールを飲んでいるのだからBさんが強制するビールを拒否するのはおかしいと言うならば、その発言は論理的でも科学的でもない。仮に強制がなかったとしても、こうした主張は論理的ではない。仮にそうした議論が(自称)「科学者」によりなされるとしてもこの点は変わらない(話者の属性に依存して変わるならばそもそも論理性や科学性ではない)。

(c) 事故の問題を事故を問題視する人の問題にすり替える。

 問題を把握し損ねた上で、こうした議論は人の批判へと向かう。【5】のまとめ(1)-(6)は、【5】の主題が「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はない」という枠組み以外で状況を認識する人たちであり、内容がそうした人々への批判であることを示している[25]。このような発言がいかなる機能を持つかを確認するために、【5】における「放射線そのものに原発由来か天然由来かの差異はありません。この点、恐怖のあまり、「考える」ことを放棄してしまい、バランスを失している観があります」という記述について、喩えをさらに展開してみよう。

「水そのものに、五階の窓からの放水由来の水か天然由来の雨による水かの差異はありません。この点、怒りのあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」

「ビールそのものに、Aさんの自己判断由来かBさんの押し付け由来かの差異はありません。この点、酔ったあまり、『考える』ことを放棄してしまい、バランスを失している感があります。」

 いわゆる「二次的加害」と呼ばれる行為にとても近いことがわかるだろう[26]。

 紙幅の都合からこれ以上紹介できないが、原発事故後から現在まで、次のパターン、すなわち、(1) 科学的と称しながら「これまでの科学的知見に基づけば」という規範的な観点から状況を解釈しようとして、本来ならば科学的な知識を活用できる点においても誤り、(2) しかもしばしばその「科学的知見」自体が当該主題に関する科学的知見の現状からは不適切で、(3) そうした誤りと問題点把握の失敗を補正することなしに、自分の考えを共有しない人を問題化する[27]、というパターンに従った発言は「専門家」「科学者」を称する人々により数多くなされてきた[28]。

 さらにこうした「専門家」「科学者」の発言は(当然のことながら)、(4) 自分が批判の対象とした人々の発言内容そのものは検討の対象とせず(だからこそ「人」を批判する)、(6) 議論の内容においてではなく自分が「専門家」「科学者」であることに訴えることで議論の正当性を支えようとする[29]、というかたちを取ることになる。



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