第3回 フリーセックスと同棲
2014.10.06更新
フリーセックスと同棲。それは、団塊の世代が開いてくれた道だった。ヒッピーに、フラワーカルチャー。ビートルズに、ウッドストック。ジーンズに、長い髪。それらはベルボトムのジーンズと、底の厚い靴と、フォークギターと、学生運動とともにやってきた。結婚するまでセックスはしてはいけない、処女であるほうがよいのだ、性交渉というものは、新婚旅行で初めてやるものだ、未婚の男女が一緒に住むなどとんでもない。そのような規範が、団塊の世代が青春時代を謳歌し始めるまでは、厳然として存在した。とっても昔の話であるが。団塊の世代は、そのような古びて女性を抑圧するような発想を、つぎつぎと、ばきばきと壊していった。小気味よい日々であったろう。
団塊の世代以降、4畳半同棲生活は、よしだたくろうやかぐや姫の歌声とともに若者の憧れるところとなり、結婚する前にセックスしたことがある女の子もあばずれ(死語)とは呼ばれなくなり、下宿した大学生のほとんどは、恋愛すれば、一緒に寝るようになった。団塊の世代から遅れること約十年、わたしたち昭和30年代前半生まれが大学生になる頃には、この「フリーセックスと同棲」のエトスは、すでに、深く学生のうちに内在化していた。
京都で風呂なしトイレなしの六畳一間の女の子だけの下宿に住んでいたが、扉が各戸別々にあるような「アパート形式」の下宿であったことと、向かいにラグビー部のたむろする「男子棟」があって、その男子たちとトイレは共用だったこともあって(今思うと信じられない)、我が下宿は、女の子用の下宿であるにもかかわらず、24時間男性の出入り自由な場所であった。左隣の同級生は男の部屋に住んでいたため、ほとんど帰宅せず、右隣の同級生の部屋は出入りする男性がときおり変わった。ごく普通のことであった。
何がいいたいかというと、現在50代くらいの人にとって、学生時代に恋人とセックスする、とか、同棲してしまう、とか、もう、すでに本当に普通のことになっていた、ということだ。団塊の世代がそういう道をひらいたのであるが、1970年代から1980年代にかけては、本当によい時代だったといえる。戦前戦後、猛威を振るった梅毒や淋病といった性感染症は、抗生物質の普及で、なんなく治る病気となったから、団塊の世代が大学生だった頃から、性病の恐怖におびえる必要はなくなったのである。フリーセックスと同棲の時代は、この性感染症の克服、という医学の進歩に担保されていた。私たちの世代も含め、よき、若き時代であった。
しかしながら、そのような幸せな時代は長く続かないのである。1980年代なかばからエイズの時代がやってきた。抗生物質が効かない、死に至る性感染症があらわれたのだ。1980年代のおわりから90年代のはじめにかけて、わたしはロンドンにいたのだが、その頃HIVウィルスに感染することは死を意味した。ヨーロッパを代表する公衆衛生校で学んだり働いたりしていたのだが、優秀な公衆衛生研究者はこぞってHIV/エイズの分野に進出していった。実際に親しい友人のひとりは、HIV感染が判明して、目も当てられないほど落ち込んでいたし、そんなに親しい友人ではなかったが、知り合いがエイズで死亡した。
1996年の国際エイズ会議で抗レトロウィルス多剤療法が発表されて、HIVウィルスに感染してもエイズを発症することは防げるようになるまで、まさにこの病気は、死に至る病であったのだ。フリーセックスの時代は長くは続かなかったはずだった。完治できない性感染症がみつかったのだから。
死に至るかもしれない性感染症がみつかっても、人間は易きに流れると言うか、いったん手に入れた快楽と自由は世代をこえて手放せない、というか、HIV/エイズの時代になっても、団塊の世代以前の、「なるべく誰とでもは寝ないようにする」という考え方は復活しなかった。HIV/エイズの予防にコンドームをつかいましょう、ということはかなりの労力を使って宣伝されたものであるが(今もされているが)、コンドームさえ使えばよいので、フリーセックスは手放す必要はない、というメッセージである、と老いも若きもうけとめた(ようにみえた)。同棲もごく普通のこととなり、いまや、恋に落ちた若い男女が一緒に住むことはごく普通のようで、一緒に住んでみて、それから結婚するカップルの多いこと。フリーセックスと同棲、という団塊の世代がつくりあげたスタイルはいまだ健在どころか、いっそうその裾野をひろげているのではあるまいか。
でもほんとうにそうなのだろうか。女の子は誰とでも機会があれば寝てもよいのだろうか。なるべく処女で結婚するのがいい、とか、本当に好きな人としかセックスしてはいけない、とか、単なるアナクロニズムと言われるのか。さる伝統的呪術の本に書いてあったぞ。女は寝た男の数だけ、光るヘビのようなものをおなかに飼うことになるのだと。そして、そのヘビのようなものを通じて、女は寝た男たち全てに自分のエネルギーを与え続けるのだと。誰も科学的に証明できない、まじないと迷信の世界だ、ということはたやすい。そんなバカなこと、あるわけない、というのも正しい。でも、じゃあ、フリーセックスと同棲はどのように科学的にすぐれているのであろうか。光るヘビも、フリーセックスでよいという発想も、どちらもおとぎばなしのようなものではないか。
しかしながら、わたしは妙に納得してしまったのだ。女は一度寝た男にはエネルギーを与え続ける。うわあ、ひょっとしてそうかもしれないぞ。団塊の世代以前の「女は身持ちは堅く」なんて言う考え方を男尊女卑、女性の性の抑圧、とか言っちゃってよかったのだろうか。ひょっとしたら、それは女性蔑視ではなく、"呪術的発想"に基づく女性保護であったのだ、といえなくもないんじゃないのか。笑いたい人は笑え。しかし、わたしはちょっと笑えなかったのだ。
たいへんなおせっかいだろうと思うし、おまえはちゃんとそのように行動してきたのか、若い頃にそのように行動ができてないかもしれないやつがあれこれいうな、といわれるかもしれないが、あえてそこのところは若い過ち、と、いったん横に置かせてもらいたい。
若い女性たちよ、あまり簡単に男性と寝てはいけないのではあるまいか。寝た男性には、応分のエネルギーを与えている、って言われると、何となく納得しないか? だいたい一旦寝た男のことは、その後も気になる。その「気になる」だけで自分のエネルギーを分け与えているのかもしれない、と思ってごらんなさい。望まない妊娠、とかそういうタイヘンな話の前に、寝ているだけで、そんな奴にわけてやることないエネルギーを与えているのだ。
自分を大切に、とか、誰とでも寝るんじゃない、とか、本当に大切な人に会うまでは寝ないほうがいい、とかいう"性感染症の時代"の教えはひょっとしてものすごく大事なことだったんじゃないか。団塊の世代が後の世代に残してくれたものってたくさんあるし、その多くはよきものであったのだが、このフリーセックスと同棲が本当によきものであったのかどうか、わたしは自信がなくなってきた。そうはいっても、再度書くが、いったん手にした自由をわたしたちは誰も手放す気にはなれないのであるが。