2年連続で記念の年を迎えた。昨年はウルトラマンシリーズのテレビ放送開始から50年、今年はシリーズの代表作、ウルトラセブンの放送が始まってから50年になる。
「ウルトラマンとセブンに関しては、愛や友情、あきらめない気持ちといった普遍的なメッセージが打ち出せたのだと思う。それが50年続けてこられた一番大きな理由。その場だけ楽しい作品を作っていたら、続けてこられなかった。当時の先人たちに対する感謝の気持ちはすごく強い」
半世紀続くシリーズを生み出したプロダクションの社長として、熱い思いを語るが、入社は偶然だった。大学では法学部。将来は貿易に携わる仕事をしたいと思っていた。その思いは、大学時代にテレビでたまたま見た1本の映画で一変する。それまで映画を製作したわけでも、大学で映画研究会に入っていたわけでもない。
「ワンシーンを見て、なぜかこういう絵を撮りたいと思ってしまったんですよ」
父親のつてをたどって円谷プロダクションに入った。
「(創業者の)円谷英二の仕事は映画でもちろん見ていたけど、特撮が好きだとか、ゴジラが特段好きだったということではない。ただ、映画のカメラマンになりたいと思って、円谷プロが撮影助手として採用してくれたということです」
せっかく入った会社も3年少しで飛び出てしまう。当時すでに円谷プロのメーン作品「帰ってきたウルトラマン」でチーフ助手になっていた。だが、東宝からの受託作品で、セカンド助手を命じられる。「冗談じゃない」と思った。
家庭もあり、無謀としか思えない決断だったが、フリーとなって外の世界に出たことが功を奏する。「師匠」と話す岡崎宏三氏と出会った。この日本を代表する撮影監督から撮影技術の基本を徹底的に教え込まれた。「カルチャーショック」の連続だったと振り返る。
「円谷プロをやめたから、結果論でいくと、僕はここにいるのだと思う。仮にあのまま円谷プロにいたとして、撮影技術ということも含めて、『井の中の蛙』のまま全然違う道にいたと思う」
フリーとしてテレビや展示映像、劇場映画などの作品で撮影や特殊技術を担当した後、2002年、円谷プロと技術監督契約を交わす。特撮技術の継承を見据えた誘いだった。実は何回か断ったものの、「外の仕事が来たときはやってもいい」という条件付きで古巣に戻った。2年後には、製作部長として再び社員に復帰する。現場のカメラマンから組織の管理職への転身。右も左も分からない状態だったが、カメラマンと管理職にある接点を感じたという。
「例えば映画の場合だと、現場によっては100人ぐらいのスタッフがいる。絵を決めてみんなの方向性を1点に集めるのはカメラの仕事で、監督は僕が用意した現場を仕切って演出をしていくと思っている。みんながバラバラに思っているようなことを1つに集約していく仕事がカメラマンだとすると、経営的なところも多少似通ったところがあると思う」
撮影現場ではなるべく1日、2日でスタッフ全員の名前を覚えようとした。そうすると、現場の諸問題が入ってくるのだという。社長になった今では環境も異なり、なかなか難しいが、「今も極力そうありたいと思う」と話す。経営トップとして今後、何を目指すのか。
「50年前にあれだけの作品が生まれたベースには、当時のスタッフたちの熱い思いがあったと思う。熱量をどう作家、現場のスタッフに持ってもらうかというところが円谷プロの課題の1つかもしれない」
昨年には、ウルトラマンやウルトラセブンの脚本家、金城哲夫の名前を冠した「金城哲夫賞」を創設し、2月に受賞作を発表した。キャッチフレーズは「ウルトラを超えろ。」だ。
「ウルトラを超える作品をこれから、次の50年に向かって作っていきたいと思っている」
節目の年に、新たな伝説誕生を誓った。 (ペン・森本昌彦 カメラ・寺河内美奈)
■おおおか・しんいち 1947年5月14日、東京都生まれ。69歳。慶応大中退後の69年、円谷プロダクションに入社。72年に退社後は、フリーとしてテレビや劇場映画、展示映像などの作品に撮影や特技監督として参加する。2004年に製作部長として円谷プロに再入社し、08年から社長。ウルトラマンシリーズの最新作は「ウルトラマンオーブ」で、3月11日から「劇場版 ウルトラマンオーブ 絆の力、おかりします!」が公開される。
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